アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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6.5章 夜の書庫ー蔵馬と葵の霊界探訪記ー 後編

禁忌の区画は、書架の並ぶ空間全体が重く沈んだ霊気をまとい、静寂の中で微かに低い唸り声をあげているようだった。

 

蔵馬は見張りの目をすり抜けて、しなやかに音を立てず、記憶と盗賊の感性を頼りに奥へ進む。

その動きは、彼が着ている制服の衣擦れの音さえもしないほどに。

 

ある書架の前で、彼は足を止めて視線を這わせた。

その時、ひときわ古びた背表紙が、かすかに霊気を放つ。

近づくと、深紅の刻印が目に入る。

 

 

『根源』

 

たった二文字だけ。

深く焼き付けられたその言葉は、書物そのものが意識をもって生きているかのような威圧を放っていた。

彼は周囲を確かめ、慎重にその書を手に取る。

重みは異様なほど。手のひらに霊気が沁み込んでくる。

 

 

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(……これか)

 

そう思った瞬間だった。

書庫の入り口付近から、かすかな甘い香りが漂ってきた。

鼻腔をくすぐるその香りを、蔵馬の感覚は瞬時に悟った。

 

魔界の幻覚植物。霊体や人間にとっては毒にも等しい芳香だった。

 

(なぜ今、ここで……?)

 

蔵馬はわずかに開いた本を無音で閉じ、気配を探る。

館内に霧が広がり始めるのを察した刹那、空気が急速に濁っていくのを感じた。

 

 

 

その頃。

北の区画で書を眺めていた葵は、不意に漂い始めた虹色の霧に目を見張った。

 

(……なにかしら?)

 

その光景は幻想的だが、どこか不自然な気配がする。

そう思っていると、すぐに異変が訪れる。

周囲にいた霊体たちが、糸が切れた人形のように、その場で静かに倒れていく。

 

(……これは、何かおかしいわ)

 

穏やかな知の場所である書庫が、突如として不気味な「静寂」に包まれたのだ。

全ての霊体が意識を失い、濃い霧だけが漂う空間は異様だった。

1メートル先も見えない。

 

葵は小さく息を呑む。

手にしていた本をそっと置いて、耳で辺りの気配を探る。

彼女の体には影響がなかったが、胸の奥にただならぬ予感が広がっていく。

 

 

天女の羽衣が漂うように霧が充満する中、やがてその静けさを踏み破るように、複数の足音が近づいてきた。

盗賊と思しき数体の妖怪だった。

 

彼らは、霧が作り出した「安全な空間」を確信し、倒れ伏す霊体を一瞥し、すぐに書架へ手を伸ばした。

霊界の貴重な書物を乱雑に掴み取り、袋へと放り込む。

 

(……この視界の中で、逃げるのは難しいわね)

 

葵は猫のように音を立てず、近くの書架の影に身を隠した。

無遠慮な足音と盗賊たちの話し声が迫ってくる。

息をひそめながら、この状況にどう対応するか考えを巡らせた。

 

 

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(蔵馬は……大丈夫かしら……)

 

霧の向こうに答えを探しながらも、一抹の不安と静寂が返ってくる。

 

 

「ここだ!換金性の高そうなやつから漁るぞ!」

 

盗賊たちの荒々しい声が、静まり返った書庫の天井に反響する。

虹色の霧に包まれた空気は重く、葵は胸を圧迫されているように感じた。

呼吸が浅くなる中、息の音を抑え、気配を消して様子をうかがう。

 

 

 

しかし、運命は残酷だった。

物色していた盗賊の一体が、無造作に書架を引き倒しながら、彼女の潜む方へと歩み寄ってきた。

 

「どこだ?この辺りのはずだが……」

 

大きな手が本を乱雑に引き出すたび、紙が擦れる乾いた音がやけに大きく響く。

葵の鼓動が速まった。

霊界では亜空間移動の能力は使えない。衝撃波を作って一時的に逃げようとしても、盗賊の数が多すぎる。得策ではなかった。

 

(……かなり近い……)

 

そう思った瞬間、背後から突然、温かい手が彼女の口元を覆った。

驚愕に身を強張らせると、次の瞬間、強く、しかし決して痛みを与えない力で書架の更に奥へと引き寄せられる。

濃い霧の中、耳元に低く囁く声が落ちてきた。

 

「……静かに」

 

葵の瞳が見開かれる。

声の主は蔵馬だった。

彼の妖気は完璧に隠されていて、その腕に護られている温度がなければ、そこにいることすら幻のようだった。

 

盗賊の荒い息遣いが近づく。手が、まさに書架の影を探ろうとした刹那。

蔵馬のもう一方の手がわずかに動く。

霧に溶けるように伸びたのは、細い蔓科の魔界植物。

鋭い動きで盗賊の足元から絡みつき、瞬時に体の自由を奪った。

 

「……っ」

 

呻き声を上げる暇もなく、意識を刈り取られた盗賊は床に崩れ落ちる。

その場に静寂が戻ると、蔵馬はゆっくりと手を離し、葵と視線を合わせた。

分厚い霧の中、彼の瞳の輝きが見える。

 

「君はここから動かないこと。いいね?」

 

「……わかったわ」

 

冷静沈着な彼の声音。

返事と同時に、葵の胸の音は普段の速さに落ち着いていった。

 

 

 

蔵馬は霧に紛れるように気配を完全に消しながら、鋭敏な感覚で他の盗賊たちの妖気を探る。

彼らはまだ、他の書架を物色していた。

 

やがて盗賊の一人が通路を横切った瞬間、床から音もなく蔦が伸び、足首に絡みつく。

小さく声をあげると同時に体が引き倒され、眠るように沈黙した。

 

「……っ、何だ!?」

 

仲間の異変に気づいた他の盗賊たちが、駆け寄る。

しかしその目の前で、鮮やかな植物が虚空から突き出し、立て続けに彼らの腕や足を縫いとめていく。

抵抗しようと叫んだ声も、次第に掻き消されていった。

 

全ての盗賊が意識を失い、書庫に再び静寂が戻った。

幻覚の霧はまだ残っているが、その効果は徐々に薄れ始めていた。

 

 

「もう大丈夫だ、葵」

 

その声は、霧の奥から静かに届いた。

名を呼ばれた葵は、息を詰めたまま書架の影から顔を出した。

揺らめく虹色の霧の向こうに、見慣れた姿がゆっくりと現れた。

 

「……蔵馬」

 

 

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彼は短く頷きながら歩み寄り、近くに倒れている盗賊を一瞥した。

 

「忍び込んでいた連中は、すべて捕らえた。……君は、無事だったね」

 

葵は小さく頷く。指先に、まだ霧の湿り気が残っている。

 

「……ええ。でも、どうして私は霧の影響を受けなかったのかしら?」

 

「君が花の妖怪だからだろう。この霧は魔界に自生する幻覚植物ルリ(ばな)のものだ。吸い込めば、霊体も妖怪も、神経毒の作用で一時的に深い眠りに落ちる」

 

葵はその言葉に、以前夢幻花の効果である記憶の消去が自分に効かなかったことを思い出した。

花の妖怪の体質上、魔界植物の一部に耐性があるようだ。

 

 

「そうだったのね。あなたは、大丈夫なの?」

 

「オレは、ルリ華の毒に耐性のある薬草を使ったんだ。……体は、なんともないか?」

 

「少し呼吸が浅くなったけど、今は落ち着いてきているわ」

 

蔵馬は無音で一歩近づいた。

まだ霧が残る中、静かに心をくすぐる涼やかな匂いが彼女に届く。

真摯な眼差しが、葵の全身を確かめるように静かに動いた。

そして、間近にある彼女の双眸をしばらく見つめた。

 

「……透けてはいないようだね」

 

短く言って、蔵馬は微かに笑みをにじませ、視線を周囲に巡らせた。

 

「霧はもう薄くなっている。これ以上症状が悪化することはないだろう」

 

広い書架の中に散らばった盗賊たちの姿が、徐々に見えてくる。

その多くは、顔に粗末なガスマスクをかけている。

 

「……巡回が来るまで、彼らにはこのまま眠っていてもらうとしよう」

 

蔵馬はふと視線を奥の区画へと向けた。

 

禁忌の書。

深紅に刻まれた『根源』という二文字。

先ほど手にしたその本は、彼の胸奥に鮮明に焼き付いている。

 

「……葵。オレは、念のために書庫全体を確認してくる。君はここで待っていてくれないか?5分ほどで戻る」

 

その一言に、葵の双眸が柔らかく輝いていた。

彼の隠れた意図を、何かしら感じ取っているようだった。

しかし聡明な彼女は何も聞かず、彼の行動を受け入れ、ゆだねる。

今までの関係性から、直感的にその選択をするのも彼女らしい。

 

「……わかったわ」

 

蔵馬は視線で返答すると、音もなく彼女の視界から姿を消した。

 

禁忌の区画へと歩を戻す。

霧のかすかに漂う薄闇の中で、静寂の回廊を抜ける。

見張りの気配はない。

 

目的の本を再び開いた瞬間、黒ずんだ頁の上に、文字が血潮のように浮かび上がった。

そこには、こう記されていた。

 

「妖気と生命の定着」、「花の霊質との融合」、「失われゆく命の結晶化」。

 

長き経験が告げていた。

葵の命を繋ぎとめるかもしれない断片が記されていると。

 

(やはり、これか……)

 

蔵馬は指先でその頁をなぞり、静かに息をついた。

 

花の妖怪である葵の命は、花そのもののように儚い。

芯が細く、根が浅い。

本来ならば数年で自然界の循環に還るはず。

飛影が示したその言葉は、彼の胸からずっと離れていなかった。

 

(儚さは、花の妖怪としての本質……。だが……)

 

蔵馬の聡明な視線が、ふとある頁に留まる。

そこには、古代の筆致でこう記されていた。

 

『花妖の命脈は季節と共に揺らぐ。だが、妖気の根源を媒介にすれば、その揺らぎは石のように固定され得る。』

 

(……根源を媒介に……か)

 

思考が静かに巡る。

妖気の根源。それは存在の核。

それを相手に与えることは、互いに重い代償を伴う。

 

(妖気を定着させれば、葵は自然の循環から外れる。花としての自由を失うだろう……)

 

蔵馬の瞳に、一瞬の翳りが差した。

脳裏に、葵の微笑みがよぎる。その輝きは、自然そのものの揺らぎに似ている。

もしそれを、この手で固定してしまったら。

果たして、それを「救い」と呼べるのか。

 

「……。」

 

静かに目を閉じる。

思索の淵に沈む彼の耳に、遠くでわずかな音が響いた。

そろそろ眠っていた霊体たちが目を覚ますころだ。

 

 

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霧はほとんど晴れて、館内には夜の冷気が満ちている。

その冷たさが、彼の決意を試すかのように重くのしかかる。

 

 

やがて、再び本に目を落とすと、別の断片を読み取った。

 

『花妖は、肉体を水晶化することにより、生命の揺らぎを一時的に封じる。その水晶は根源と結合し、命脈を延長する器となる。』

 

(水晶化……。なるほど)

 

妖狐としての知識と、書に刻まれた断片が、少しずつ線を結び始めていた。

もし、葵自身の肉体を水晶として結晶化させ、そこに『根源』の妖気を宿すことができれば、彼女の命を繋ぎ止める術になる。

 

だが、それはかなり危険な賭けでもあった。

与えられた『根源』を安定させるためには、膨大な妖気を制御しなければならない。

彼女自身がそれに耐えられなければ、存在そのものが砕け散る。

 

(無謀だ……。しかし、可能性はある、か……)

 

蔵馬は本を読み進めながら、知略知慮を深めていく。

まるで、花弁の重なりの奥に潜む蜜を探すかのように。

 

植物を操る彼は、誰よりも理解していた。

命の限りがあるからこそ、花は美しい。

 

 

 

妖気の根源とは、蔵馬自身が何千年も積み重ねてきた記憶、存在、誇り、そして罪。

すべてを含めて形作られる存在の「核」。

それを他者に分け与えるということは、自らの存在の一部を切り裂き、相手に刻み込むことに他ならない。

 

葵がその力を受ければ、「花妖」としての自然な循環から外れるだろう。

蔵馬という根源に結びつくことで、長く生きられるかもしれない。

しかしそれは、自由に咲きほこる花ではなく、彼の影に縛られた存在となる。

 

それは救済ではなく、支配に近い。

 

沈黙が支配する世界で、蔵馬は再び目を閉じた。

 

 

 

(選択肢は……三つだ)

 

一つは、何もせず、葵が自然の摂理に還るのを見届けること。

二つは、禁忌に手を伸ばし、葵を自然の循環から外してでも、生を繋ぎとめること。

三つは、別の道を探すこと。

 

どれを選ぶにせよ、最終的に決めるのは彼女自身だ。

だからこそ、今はまだこの秘密を胸に留め、時を待つのが最善だろう。

 

(……君は、どう答えるだろうね)

 

ふと、形の良い口唇に小さな笑みが浮かんだ。

葵なら、きっと、彼の予想を裏切る答えを選ぶ。

その直感が、蔵馬の胸に確かに根を下ろしていた。

 

 

霊界の夜気が館内を包む中、蔵馬はただ一人、彼女のもとへ歩みを進めた。

長い髪がふわりと揺れ、闇に溶けていく。

扉の外は、まだ深い夜。

その背には誰にも語らぬ決意と、花のように儚くも大切な存在を守ろうとする意志が、静かに燃えていた。

 

 

この夜、蔵馬は大切なものの散り際を、ただ黙って見過ごすほど、冷淡にはなれない自分を知った。

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

 

やがて二人は合流し、意識を失った盗賊たちを残して、重い扉を閉ざした。

背後で軋む音が、静寂の中にゆっくりと沈んでいく。

その後、霊界の中枢へと赴き、コエンマに報告した。

 

「盗賊たちは確保済みです。巡回班が運び込めば済むでしょう」

 

いつものように冷静に報告する蔵馬に対して、コエンマは深刻な顔をして頷いた。

 

「……霊界の書庫を狙うとは。情報が洩れていた可能性もあるな。調査を急がせる」

 

必要な言葉を交わし終えると、蔵馬と葵は廊下を並んで歩き出した。

淡い光が差し込む回廊に、二人の影が細長く伸びる。

 

「書庫でのことだけど、あのような状況では、倒れたふりをすると有効だよ」

 

「それも考えたんだけど、盗賊の動きが気になって目で追っているうちに、忘れてしまっていたの」

 

「……君らしいな」

 

蔵馬はふっと息を吐いた。

盗賊はみな低級妖怪。大事には至らなかっただろうが、改めて彼女のサバイバル能力を目の当たりにして、色々と思うところがあった。

しかし、今そのことを指摘する必要はない。

 

(この人は、言葉でわからせようとするよりも、体験でその身をもって感じることで、きっと学ぶ)

 

 

その時、葵が静かに立ち止まり、蔵馬を見上げた。

数歩先を行く足が、時間差で止まった。

 

「……ねえ、蔵馬」

 

「どうしたんだ?」

 

彼が穏やかに振り向く。

その瞬間、葵の星を宿したような双眸が煌めいた。

まるで何かを見透かしているように。

 

「……なんだか、あなたの中にまだ霧が残っている気がするの」

 

その声音は柔らかいのに、鋭い直感の刃を含み、確かに彼の心に届いた。

 

蔵馬は微かに眉を動かした。

ほんの一瞬だけ、沈黙が彼の周囲に降りた。

そして、緩やかに微笑を浮かべる。

 

「……そう見えるかい?」

 

その声は優しいのに、どこか遠かった。

葵はその言葉に、小さく頷いた。

 

「霧は、もう晴れている。心配はいらないよ」

 

互いのどこか引っかかる感覚が交錯する。

しかし、これ以上の領域に踏み込むことはなかった。

 

言葉にできない何かが、二人の運命を結んでいた。

こうして、蔵馬と葵の夜の書庫の時間は終わった。

 




夜の図書館での蔵馬と葵の話が浮かんで、書き下ろしたものです。
葵の儚さを追う蔵馬の様子は、アカシヤ短編の方にも書いた飛影が登場する話ともつながっているので、とても楽しかったです。
ぼたんが出てくると、明るくなるのもいいですね。

次回より、本編12章が始まります。12章もシリアスモードなので、合間に短編を挟む予定です。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
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