アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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第68話

 

その時だった。

いい雰囲気のところで、1階から母親の声が聞こえてきた。

日常のあたたかさを運ぶ、朗らかな響きだった。

二人は顔を見合わせて、思わずふっと微笑んだ。

今日は南野母の提案で、三人で昼食を食べることになっていた。

 

階段を降りる途中、彼の母親が階下から目を細めて葵を見た。

ベージュのトレーナーと青いジーンズ姿。

シンプルなのにカジュアルすぎず、不思議と彼女が着ると品がある。

 

「葵ちゃん、制服も可愛いけど、その私服もとても似合っているわ。結婚式の時も思ったけど、自分に合うものがわかっているなんて、センスがいいのね」

 

「えっと、これは……」

 

「あ!オレもそう思うよ」

 

続きを言いかけた葵の言葉の途中で、蔵馬は口をはさんだ。

彼の母親が台所に向かったのをみて、二人は人間に聞こえない声量で会話する。

 

(ちょっと、蔵馬……。嘘は言えないわよ)

 

(今のところは、これでいいんだ)

 

(でも……)

 

蔵馬が用意したものということは言わなくても、「センスがいいと思われているのは、今後の誤解につながる」と言いかけたとき。

先に階段を下りていた蔵馬が振り向いた。

そして。

 

 

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「………っ」

 

一瞬でその口唇を奪った。

 

ほんのわずかな時間。それでも、彼女の言葉を制止するのには十分だった。

葵が少し驚いていると、蔵馬はわずかに目元を緩め、くすりと笑った。

そして何食わぬ顔で踵を返し、そのまま下りて行くと、台所で母親と話しながら、平然と皿を並べ始めた。

 

葵は階段の中腹で、ふっと息をついた。

 

(はぐらかされた……。涼しい顔をして、やることが大胆ね)

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

食後、ふと視線を向けると、葵がグラスを手にしながら、口唇の奥で小さく妖気を練っているのが見えた。

彼女は治癒を施していた。

 

蔵馬はすぐに察した。

グラタンの熱で、彼女はまた火傷をしたのだろう。

聞かなくてもわかる。わかってしまう。

 

彼の脳裏で再生されるのは、初めて葵が母と対面したときのこと。

そのときも、熱々のアップルパイを頬張り、結局は上顎の粘膜を痛めていた。

どうしてこうも真っすぐなのかと、蔵馬はゆっくりと手を口元にあてて、ひとり静かに息を漏らす。

 

 

(……いや、注意しなかったオレの方は、悪趣味だったかもしれないな)

 

 

わかっていながらも、あの無邪気な表情で人間界の食べ物に目を輝かせる様子に、止める気持ちが薄れていった。

 

 

 

「口の中は、大丈夫?」

 

彼女は一瞬間を置き、蔵馬を見上げた。

 

「……目が笑ってるわ」

 

「声は笑ってないだろ?」

 

彼の意味深長な一言に葵は言葉を返そうと口を開いて、一度閉じた。

そしてふっと微笑んだ。

 

「サラダと水で冷やしたわ」

 

「練薬を飲むといいよ」

 

「わかったわ」

 

 

 

リビングに、やわらかな陽光が差し込む中、志保利母も交えて3人で和やかに話していた。

 

「葵ちゃん、頂き物だけど飲んでみる?紅茶にミルクとスパイスを入れたものなの」

 

蔵馬の母親が、ミルクティーの甘やかな香りと初めて嗅いだスパイスの匂いをまとったチャイを差し出してくれた。

温かい湯気がたち、それだけで体が優しく包み込まれるようだった。

 

「いい匂い……。頂きます」

 

葵は両手でそっと受け取り、湯気に顔を近づけた。

胸の奥までほっとするような温かさに、思わず目を細めた。

そして葵が口をつけようとした瞬間。

 

「葵」

 

水面に一滴の雫が落ちて、波紋が広がるような涼やかな声で蔵馬が呼びかける。

 

「チャイも熱いから、気をつけてね」

 

彼の声音には、からかいとも優しさともつかぬ響きがあった。

何とも言えない表情で、葵はカップの中の温かいキャラメル色を見つめた。

 

 

「……わかったわ」

 

その横顔を見ながら、蔵馬は本を片手に目を細めた。

テーブルを囲む空気は穏やかで、時間がゆっくりと流れていた。

 

 

やがて夕暮れが近づき、オレンジ色の光が窓辺を染めるころ。

葵はちらりと蔵馬を見やり、小声で囁いた。

 

(蔵馬……。私、さっきから体が少しおかしいの)

 

彼女の表情に、先ほどまでの快活さはない。

頬はかすかな赤みを帯び、椅子に座っているのもやっとという様子だった。

小さい肩が、小刻みに震えている。

 

(……まさか)

 

蔵馬は瞬時に察した。

体感が鈍い彼女が自覚しているということは、急激に症状が進んでいる可能性がある。

母親に気づかれないよう、落ち着いた様子でその場を締めくくる。

 

(オレの部屋に行ってるといい)

 

一度玄関から出て、葵は外から二階の彼の部屋に向かった。

ひんやりとした風が全身を撫で、一瞬だけ肩をすくめた。

吐息が白く揺れる。

 

「……ぁっ」

 

部屋に入る時、窓際でつまずきかけた。

まるで足に重石がついているように、動きが鈍かった。

気づけば、胸の奥にずしりと痛みが走り、少し動悸がする。

葵は左手で胸元を抑えながら、空いた手は床につき体を支えた。

 

 

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程なくして、室内のドアが開いて蔵馬が入ってきた。

座り込んでいる葵を見て、即座に駆け寄る。

背中に手のひらを添えた瞬間、伝わったのは驚くほどの温度と細かな震え。

まだ熱が上昇する兆しだった。

 

「……感染していたようだね…」

 

彼の声は、いつもより低く繊細だった。

葵は少し眉を寄せながらも、静かに言葉を絞り出した。

 

「この状態で……エキナセアを宿すのは……難しいわよね」

 

潤んだ瞳が、申し訳なさそうに彼を仰ぎ見る。

蔵馬はその視線を受け止め、静かに芯の強さのある声で伝えた。

 

「……それは、オレにはできない」

 

衰弱した状態でエキナセアを寄生させれば、宿主である彼女がその毒に負けてしまうだろう。

これ以上のリスクをかけることなど、蔵馬には考えられなかった。

 

彼の言葉に胸が痛む。感染ゆえの症状なのか、心の痛みなのか区別がつかない。

 

「そうよね……。ごめんなさい。予定が変わってしまって…」

 

伏せられた睫毛が、弱々しく震える。

彼女の状態を確認していた蔵馬は、かすかに指先を震わせた。

 

「不可抗力だ。謝らなくていい。……それよりも、君の状態の方が優先だ」

 

真剣なまなざしで、彼女を見つめながら脈を測り、症状を聞き出す。

発症してから急速に悪化しているように感じる。

早く薬草の配合を考えて、治療をはじめた方がいいだろう。

 

「強い脱力感と……動悸と、胸が痛くて……少し苦しいわ…」

 

吐き出す声はか細く、途中で言葉が途切れる。

葵は、自分の声と彼の声が徐々に遠くに聞こえるように感じていた。

蔵馬が何か言っているのが、耳に入ってきても脳が理解できない。

 

(……体が、自分のものじゃないみたい)

 

空間も、すべてがぼやけていく。音も色も、輪郭を失いはじめる。

重力に引かれるように、葵の体が傾いた。

 

「葵!」

 

目の前で力なく崩れていく葵を、蔵馬は抱きとめた。

その体は、驚くほど軽く、頼りなかった。

 

 

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(意識の極限の状態を、どうにか保っていたのか……)

 

それに気づかなかった自分に責任を感じるとともに、彼女のいじらしさに胸の奥がざわざわと音を立てた。

静かな部屋に、彼女の浅い呼吸と、蔵馬の心臓の鼓動だけが重なって響いていた。

 

 

 

 

葵を抱き上げたまま、蔵馬は一度だけ深く息を吐いた。

彼女の体は熱く、髪の根元には汗がにじんでいる。

合わさる体から直に伝わる熱感に、言葉にならない焦りが自然と生じるが、彼の表情は変わらない。ただ、指先の力が一瞬強くなった。

 

葵を布団へと寝かせ、その手首に指を軽く当てて脈を探る。

拍動が早い。

息づかいに耳をすませば、湿った音が聞こえた。

 

彼女の髪を結んでいた紐をほどくと、蔵馬は数秒の間、葵の顔を見つめた。

そして処置の準備をするために、音もなく立ち上がった。

 

 

意識を失ってから一時間ほどが経った。

葵の体は、予想を遥かに上回る高熱に蝕まれていた。

 

布団に沈む細い肩は小刻みに上下し、息は浅く速い。

時折、胸の奥から小さな喘ぎが漏れる。

 

(やはり、危惧していた通りか……)

 

動物と異なり、植物は基本的に抗体を作らない。

花から生まれた葵には、感染症への抵抗力が乏しいのではと。

そのため、あらゆる感染症にかかると、重篤になりやすい可能性があった。

それも考慮して、慎重に計画的にことを進めていた。

 

だが、現実に彼女が苦しむ姿を見ると、積み上げた理屈など砂のように崩れそうになる。

 

やがて、葵が薄く瞼を開けた。

瞳は朦朧として焦点が合わないまま、熱に霞む視線で彼を探す。

震える口唇がわずかに動き、吐息のように声がこぼれた。

 

「……あなたのお母さんに、移していないかしら?」

 

その問いかけに、蔵馬の時が一瞬止まった。

しかし、すぐにいつもの柔らかな表情になった。

 

(こんなときも、君は自分の体のことよりも、周りを気にかけるんだな……)

 

彼は、布団から出ている彼女の手の甲に軽く触れた。

熱気を感じる肌は、少し汗ばんでいる。

 

「人間に感染したケースは、報告はされていない。だから心配しなくていい」

 

葵は、少しだけ安心したようにまばたきをした。

けれどすぐにまた、苦しげに眉を寄せる。

 

「あなたに、移してしまうかもしれない……」

 

近くで感じる彼女の吐く息が、肌を焼くように熱い。

蔵馬は、そっと彼女の額に手を当てた。頬から首筋まで紅く染まっている。

 

「オレのことは、案ずるな。君は気を体の中心に置いて、回復に専念するといい」

 

「……。」

 

透明な膜が隔てているように、彼の声はどこか遠い。

葵は、わずかに首を縦に動かした。シーツの上に広がる髪が、さらりと擦れて音を立てる。

その動きさえ、弱々しかった。

 

熱はすでに四十度を超えている。以前に霊界で深手を負ったときほど重篤ではないが、予断を許さない状況が続く。

首元を冷やし、体内の熱を分散させる植物の葉を体の下に敷いているが、全身からあふれる熱は引かない。

今は、先ほど飲んだ薬湯の効果を待つしかなかった。

 

「………っは…」

 

時折葵から漏れる息が、灼熱感を伴いながら蔵馬に届く。

 

窓の外では、秋の冷たい夜風が木々を揺らす音がする。

対照的に、この部屋は熱気に閉ざされているようだった。

 

(症状が出たのが、オレといる時だったのは、不幸中の幸いか……)

 

もし魔界で同じ事態に陥っていたなら、彼女の命は危うかったかもしれない。

冷えた思考が胸の奥をかすめ、心臓が一瞬だけ不規則に音を立てる。

 

 

未知の感染症は、治療が確立されていない。

経験と知恵を頼りに、彼は最善を尽くす。

 

蔵馬は深い眼差しで、浅く呼吸する葵を見つめる。

その瞳は彼女を案じながらも、冷静に二手三手先を映していた。

 

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