ゲーム対決再び
1月初旬。空気がピンと張りつめた、深い山奥。
一面、雪に包まれた世界の中で、木々は白い衣をまとい、静けさの中に凛とした美しさが漂っている。
そんな風景を楽しみながら、葵は手土産を抱えて、雪が積もる階段をゆっくりと登っていた。
(雪のおかげで、いろんなことを思い出すわね)
ときおり裾についた雪が歩くたびにふわりと落ちて、足元を光のように散っていく。
幻海の家が見えたころ、ほんのりと薪の匂いが風に乗って漂い、冷えきった空気にやわらかな温度が混じった。
玄関先に立つと、葵は小さく息を整えた。
「新年のご挨拶に参りました」
笑顔で頭を下げる葵の姿は、この雪深い山里にひっそりと咲いた早咲きの花のようで、場の空気をふわりと温めていた。
それを、蔵馬のスカウトで修行中の妖怪二人が見つめていた。
「珍しいな……。こんな山奥に」
「なかなかに目の保養だ。修行中の身ではあるが、声をかけようか」
老齢の女性と男ばかりの辺境の地に、潤いが届けられた瞬間だった。
冗談交じりに言いながらも、二人の目は、その楚々とした佇まいに釘付けになっていた。
葵が幻海と親しげに言葉を交わす様子は、ただの客人ではないことを物語っていた。
「幻海師範。今のは誰だ?」
妖怪一人が声をかける。
幻海はしばらく黙って、家の奥に入っていく彼女の後ろ姿に視線を移した。
「あの娘はやめておけ。手を出すと、お前たちのよく知っている者に、何をされるかわからないよ」
いつになく含みのある声。
妖怪二人は顔を見合わせ、背筋がわずかに伸びた。
「……。」
「誰かわからんが、師範がそう言うなら……従った方がいい」
一番常識のある男がそう言って、もう一人はそれに従った。
その後、葵と幻海は居間にて並んで座り、ゲーム機の電源を入れた。
軽快な電子音が鳴り、格闘ゲームのスタート画面が映し出される。
「師範。蔵馬にボコボコに惨敗したから、一矢報いたいの」
葵がコントローラーを構えながら無邪気に言うと、幻海は鼻で笑った。
「いいだろう。あたしが稽古つけてやるよ」
「蔵馬は、戦闘だけでなくゲームも容赦なく強かったわ」
「そういや、ゲームが得意だったね。向かって行く相手が悪かったと思いな」
肩を軽く上げながら、幻海は記憶の奥を探るように微笑む。
今頃魔界にいるスマートな男が知らないところで、葵の稽古はこうして始まった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
冬休みが終わり、蔵馬が魔界から人間界に帰ってきた1月中旬の休日。
葵は南野家の玄関に来ていた。
白いダッフルコートの姿に、彼は一年前のことを思い出していた。
もちろん表情には出さない。いつものように飄々と彼女を出迎えている。
ただ、その眼差しはより一層深く、花を愛でるように吸い寄せられていた。
「秀一、リベンジしにきたわ」
「……リベンジ、ね」
(相変わらず、いきなりだな)
主語が無くても、何を指しているのかすぐにわかってしまう。
いつもと変わらない彼女に、蔵馬の声は柔らかく微笑んでいた。
「上で待ってて。飲み物、持っていく」
二階に上がるように促すと、葵は階段を軽やかに登っていった。
その足音を聞き届けてから、蔵馬はキッチンへ向かう。
そこでは志保利母が待っていた。盆に湯気の立つカップを載せて、そっと息子に渡した。
「部屋でゆっくりするんでしょう?」
「そうだね」
「私は秀一がいない間に、葵ちゃんとゆっくり過ごしたから。今日は秀一に譲るわ」
蔵馬は目元だけで和らげ、静かな表情を浮かべた。
普段は見せない微細な緩み。
盆を受け取ってくるりと背を向ける。
「母さんも、葵のことが好きだね」
「あら、秀一には敵わないわよ」
彼は読めない微笑みを浮かべながら、沈黙を残して、淡々と自室に向かって行った。
志保利母は、息子の背中を優しく見送った。
姿が見えなくなると、思わずふっと笑みが漏れた。
(会いたくてしょうがなかったって顔ね)
そこから1時間以上が経過した蔵馬の部屋にて。
彼はベッドを背もたれにして、ずっと葵を抱きしめたまま微動だにしない。
腕の力は強くも弱くもなく、ただ離す気配は一切ない。
ローテーブルの上の冷めた二つのマグカップ、離れた所にあるゲーム機、そして後ろの蔵馬を交互に見ながら、葵は小さく声をかけた。
「……蔵馬。私、リベンジを……」
「オレのわがままを、聞いてくれるのが先」
このやりとりは、すでに3回目。
葵は肩を小さくすくめ、諦め半分のため息をこぼす。
白いセーターの彼女は、温かくて抱き心地がふんわりしていて、蔵馬の今の心境と嗜好にぴったりとはまったようだ。
久しぶりに近くで感じる葵の、ほんのり甘く、どこか懐かしい乳香に似た安息の香り。
心の奥に静かな灯りをともした。
ただ、ちょっと物申したい。
「だって、オレが魔界から帰ってくるのと入れ違いに、葵が魔界に行ってるんだ。3週間も会えなかったんだから、これくらいはいいだろう?」
魔界から帰ってきて、開口一番に母から言われたこと。
「今度葵ちゃんは1月中旬の休日に来るって言ってたわ」
すぐに会えると思っていただけに、予想外のお預けをくらい、とても長い時間のように感じた。
こういう子供じみた側面を出すのも、人間ならではの感情なのか、それとも計算高い妖狐のものなのか。
この人を通して、時々こうして自分の知らない顔が姿を見せる。
その発見すら、どこかおかしくて。少しだけ、愛おしい。
部屋の空気は、冬の気配をふわりとまとっていた。
窓の向こうで曇った空が淡く光り、フローリングに薄い影を落としている。
蔵馬の腕に軽く身を預けたまま後ろを振り向き、葵は思わず目を瞬いた。
その仕草ひとつで、白いセーターからほろりと淡い香りが流れ、呼吸がほんの僅かに深くなる。
「仕事だったの」
「うん、わかってる。でも……もう少し、こうしていたい」
低く抑えた声は、押し隠した感情を少しだけのぞかせていた。
捕まえようとすると、この手をすり抜けるような振る舞いは、盗賊の資質と男の本能を素直に刺激する。
もちろん、彼女には全く悪気はないが、蔵馬との心の距離が縮まってからも、相変わらず天真爛漫にこの男のペースを乱し、理性の間合いをあっさり超えてくる。
だからこそ、ずっと新鮮で、飽きずに求め続けている。
追いかけても掴みきれないのに、一度触れれば心の内側まで静かに沁みてくる。
「葵」
囁くように名を呼ぶと、彼女は再び振り返った。
蔵馬は、抱き寄せた腕にそっと力を込める。
目元にかかる前髪が微かに揺れ、顔が触れるか触れないかの距離に、切なく深く揺れる眼差しがあった。
「ただいま」
その言葉を聞いて、葵は気づいた。
背中越しに感じる、蔵馬の鼓動が速くなる。
抱きしめられている腕が、熱くなっていく。
柔らかく、それでいて芯の強い艶のある声には、万感の想いを感じた。
(あなたは、ここを帰る場所だと思ってくれているのね……)
「おかえりなさい。蔵馬」
ふわっと笑う彼女の顔が、目の前にある。
心が喜び、求めるままに、蔵馬はその花唇に、口唇を重ねて味わった。
浅く、深く。名残惜しさを忍ばせる間を挟みながら、幾度も。
外の光は曇りがちなのに、部屋の空気はほのかに温まっていく。
「リベンジだったね」
蔵馬はゲーム機のコントローラーを手に、優雅に微笑んだ。
「受けてたつよ」
葵は座布団の上にきちんと膝を揃えて座りながら、背筋を正した。
「師範に特訓してもらったの」
「馴染みになってるみたいだね」
肩の力を抜いたまま応じる蔵馬。しかし、心の奥では、嬉しそうに胸を躍らせる葵の仕草に、言葉にしない想いを感じていた。
「言いそびれていたけど、師範の所で霊界の事務作業を手伝っているの。だから時々お世話になってるわ」
「……いつから?」
彼の指先の力だけが一瞬止まった。
「蔵馬が魔界に行き始めたころからよ」
「……そうか」
コントローラーを動かす指の所作は変わらず美しいままだが、蔵馬の頭の中は、器用に瞬時にいろんなことを考え始めた。
心のどこかで、微かな驚きと、ほんの少しの寂しさと誇らしさが同居するような沈黙。
(オレの知らない間に、また少し……彼女は世界を広げている)
そんな思いにふけった隙をつかれて、ゲームではあっさり敗北した。
『あ』
同時に漏れたふたりの声。しかしそれぞれの「あ」の意味は異なった。
葵は「勝った!」、蔵馬は「しまった……」という意味合い。
しかし彼はそんなことを顔には出さない。むしろ、少し悔しそうなふりをして、彼女の小さな勝利を喜ぶ余裕を忘れない。
そしてそんな自分を、客観的に観察している。
一勝を許してしまった蔵馬は、顎に手を置きながら、ふっと悪戯っぽく提案した。
「君がもう一勝したら、願いを2回きいてあげるよ」
案の定、素直な葵は目を輝かせて挑んできた。
彼からの条件付きの提案は、ほぼ結果が確定している。前回もそうだったように。
(こんなに素直に喜ぶんだな……。君は、どうして、毎回オレの期待を超えてくるんだろう)
そんな想いを噛みしめ、内心にしまい込むと、蔵馬は指先だけ鋭く動かした。
言うまでもないが、次の瞬間からは容赦しなかった。
涼しい顔と華麗な手捌きで次々と技を決め、彼女をあっという間に打ち負かしていく。
「今のは仕方ないよ」
柔らかい笑顔で流しながらも、ボコボコにして、彼女に勝ちを譲る気は毛ほど見当たらなかった。
結局、葵はそれ以上の勝利をつかむことはできず、座布団の上でじーっと隣の蔵馬を見た。
彼はそれに応じて、爽やかな笑顔を返した。
「………少しすっきりしないけど、とりあえず1勝したわ。私の願いを一つ聞いてね」
「いいよ。何がいい?」
蔵馬は、腕を組みながら余裕たっぷりに彼女を見つめた。
本当は、胸の奥では、さっきの距離のまま抱き寄せたい衝動がふわりと横たわるが、表には出さない。ただ静かに待つ。
嬉々として勝利宣言をした後、葵は彼を見つめながらしばし固まった。
「……考えてなかったわ」
目的は、ゲームで一矢報いることであり、蔵馬に願いを聞いてもらうことじゃない。
純粋すぎるというか、諸突猛進というか。損得意識が一滴もない。
「……そうだと思っていたよ」
予想通り過ぎる彼女に、蔵馬は小さく肩を震わせながらふっと笑った。
ほんの一瞬、瞼が和らぎ、彼女を見る目が春の陽のようになる。
これだから、この人はいつまで経っても自分を飽きさせない。
追いかけるほど遠ざかるのに、手を伸ばすとすぐそこにいることもある。
ずっと恋をしているような状態にさせてくれる。
「今、これっていうのがないから、今度思いついたときに、お願いするのはどう?」
「……いいよ」
(きっとこのまま忘れていくんだろうな…)
そう思う自分さえ可笑しくなる。
忘れてもいいし、覚えていてもいい。
ただ、そのどちらを選んだとしても、この目の前の人がどうしようもないと想わずにはいられない。
本編の13章スタートです。この章は二人の愛の学びがより深くなっていきます。
蔵馬と葵の愛の深化を見守っていただければ嬉しいです。