魔界の喧騒とは異なる、人間界の静かな室内。
何年も同じ風景を見て過ごしてきたのに、彼女がいると空気が変わる。
その柔らかいゆらぎが、気持ちを一段と深く沈めていく。
「RPGをしていて思うんだけど」
葵が、ぽつりと息を漏らすように話を切り出した。
どうやら彼女は、師範の所で格闘ゲームだけでなくRPGも覚えてきたようだ。
好奇心でふわりと開く目に、蔵馬は自然と視線を向ける。
(……始まるな)
今度はどんな感性と言葉で、自分を揺らしてくるのか。
期待と知的欲求が彼の中に静かに広がる。
「一般的に、僧侶や魔法使いのような頭脳派は、武器や素手による攻撃力は低めに設定されてるのよね。でも蔵馬は、知的能力が高くて、戦っても強くて、特殊能力も秀でてる。RPGの原則からしたら、チート級の反則キャラだわ」
何を言い出すかと思えば、ゲームを例えに自分のことを言ってくるとは。
蔵馬はやれやれと小さく息を洩らした。
笑うというより、肩の力が抜けていくような、微妙な温度を含んだ仕草。
コントローラーを指先で弄びながら、心の奥に浮かぶ熱を静かに噛みしめる。
「そう言われてもなぁ。人間界のゲームは、人間を基準に作っているからね。妖怪のオレと比較するのは、どうなんだろうね」
「まぁ、そうよね」
「でも」
蔵馬はほんの一呼吸おいて、言葉を継いだ。
「葵は、そう思ってくれているんだね」
「?」
彼女が小首を傾げると、結わえた象牙色の髪に桃色の光が淡く滲んだ。
当たり前のように言われてきたことも、彼女の口から語られると、妙に新鮮に胸を打った。
惚れた腫れたとは、きっとこういう瞬間を言うのだろう。
(まったく……どうしてこう、簡単に心の中心に触れてくるんだろう)
けれど、悪くない。いや、それどころではない。
そんな自分もいることが面白い。
柔らかく無音の微笑みで自分を見つめる蔵馬に、葵は不思議そうにのぞき込む。
「どうしたの?」
体が触れそうで触れない、そのわずかな距離。
その絶妙な隙間が、かえって胸の奥を疼かせた。
「……なんでもないよ」
視線をそらし、心のうちで彼女への愛しさを飲み込んだ。
室内の暖房がレースのカーテンを小さく揺らした。
「君こそ、生まれた時から肉体は成熟しているから、ある意味レベルMax級のチートキャラなんじゃないか?」
「Maxかしら?」
「うん。戦いながら特技を覚えるタイプということで」
「まぁ……そういう考え方もあるわよね」
葵は苦笑しながら頷いたが、その表情はどこかすっきりしない。
こういう反応をするのも貴重で、なかなか見ごたえがある。
この男がそれを見過ごすはずがない。
「あ。あんまり納得してない顔してる」
「なんというか……蔵馬がMaxレベル99だとしたら、きっと私は……よくて33になるわ。実際にRPGで使うなら、蔵馬のキャラのほうが絶対強いもの」
客観的かつ率直に自分と蔵馬の妖力を比較して語る葵の言葉は、彼の琴線に触れた。
目元と口元が緩む。
「はは。その例え、面白いな」
彼女の珍しく少し拗ねたような何とも言えない気配。
それを微笑ましく思いながらも、彼の心の中では別の言葉が湧き上がっていた。
(オレに、勝とうとしなくてもいい。もうとっくに、君は何度だって、オレを降参させているんだ……)
葵が座る場所から、ほんのりと漂う酔芙蓉の甘い香り。
その香りは、参謀として滞在した魔界での時間を和ませる。
その声は潤いを帯びていて、耳に触れるたびに神経がひとつひとつほどけていくようだ。
なんだろう、突然夢を見ているような感覚になった。
ふと、そんな錯覚に陥るほどに体は緩み、意識がわずかに揺らいだ。
気づけば、蔵馬の体は自然と動いていた。
前触れなく、彼は隣の彼女の肩口にそっと顔をうずめた。
瞼が自然と降りていく。
「……っ。蔵馬?」
葵は無意識に、彼の頭に手を伸ばした。
寄りかかる適度な重みと、静かに心をくすぐる涼やかな香りが濃くなる。
彼女の指先がそっと自分の髪に触れた瞬間、更に夢見心地にさせられる。
(まったく、どれだけ癒してくれるつもりなんだろう……)
言葉にならない苦笑とともに、蔵馬は小さく呟いた。
「正直に話すと……今、かなり眠いんだ」
「……言ってくれたら良かったのに」
「突然、来たんだ……」
囁くように答える蔵馬の声は、すでに夢とうつつの間を漂っているように繊細だった。
彼女と何気ない話をしていると、帰ってきたという実感が胸に湧く。
無意識下で、張り詰めていた何かが剥がれ落ちていく。
葵の存在そのものを感じていると、安息感が、どうしようもない眠気に変わっていった。
「少し寝る?」
「……うん」
短く応えると、蔵馬は重たい瞼を上げた。
その目は、ふわりととろけたような色をしていた。
いつもは理知的で隙のない彼に、こんな無防備な表情が宿るのか。
初めてみる蔵馬の様子に、疲れているのかと本気で彼女が案じていると。
「……え?」
声が形になるより先に、視界がふっと浮いた。
蔵馬は軽やかに、一片のためらいもなく、彼女をひょいと抱き上げた。
そのまま当然のように、ベッドに葵を下ろす。
スプリングの軋む音に、葵は状況を理解した。
「君も一緒」
ぽそりと、命じるでもなく、甘えるでもない。
ただ当たり前のように発せられた一言。
葵が何か返す前に、彼の腕は自然に彼女を囲い込んでいた。
力は強くない。けれども、離す気など微塵も感じさせない抱き方だった。
蔵馬は小さく目を細め、ふっと笑う。
そのまま瞼を閉じると、長い睫毛が静かに影を落とした。
彼にとって、何よりの至福のひとときだった。
呼吸がゆっくりと揃い、室内の気配までが落ち着いていく。
(これほど、疲れていたのかしら)
微かな寝息を立て始める蔵馬を見つめながら、葵はそっと彼を抱きしめ返す。
指先が触れた背中は、まだ少し何かを背負っているように感じた。
彼女は意識を静め、妖気を細く、やさしく流し始めた。
蔵馬の穏やかな横顔に、胸が温かくなる。
いつの間にか、葵もつられるように、そっと目を閉じた。
彼の心音を数えるように、寄り添ったまま、同じ眠りへと沈んでいった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
午後3時。
冬のやわらかな陽光が、カーテンの隙間から細く差し込み、部屋の中を温かく照らしていた。
蔵馬はまどろみの中で瞼を持ち上げ、目元に手をかざして光を遮る。
隣にぴったりと寄り添う彼女のセーター越しに伝わる体温と、密着している肌の距離が心地よい。
伝わる妖気が、真綿で包まれるように柔らかくて、意識はまだ夢の縁にあるようだった。
左腕を少し動かし、眠る葵を引き寄せる。
その軽さと、しなやかな感触に、呼吸がわずかに深くなった。
体の細胞が活性して、妖気も安定していることから、彼女が気を送っていたのがわかる。
横に視線を向けると、すぐそこに、安らかな寝顔があった。
彼にすべてを預けきった表情。
(オレも熟睡できたけど、それ以上に寝てるとはね……)
蔵馬は、ごく小さく息を吐く。
そしてそのまま、頬にそっと口づけた。
触れるか触れないかの、羽毛のような一瞬。
かすかな声で名前を呼んでみる。
けれど、葵は微動だにしない。
信頼ゆえの無防備。嬉しくて切ない。
胸の奥に疼きを残す。
おそらく、これ以上の領域に踏み込んでも、彼女は受け入れるだろう。
でも今の蔵馬はそれを選ばない。大切なものほど、急がない。
慈しむ時間を惜しまない。その選択を、迷いなく取る。
少し口を開いて眠る葵に、彼は静かに笑った。
愛してやまない、可愛くてしょうがない。
そんな言葉を超えた想いがあって、月並みな表現ではきっと伝えきれない。
好きな所はたくさんあるのに、どうしてこの人なのか、理由は見つからない。
恋い焦がれるのに、理由はないから。理屈じゃないから。
蔵馬は言葉ではなく、行動で伝える。
彼は葵に顔を近づけた。
二人の口唇が重なる。そしてその口唇に囁くように、音にならないほど低く言った。
『葵……愛してる』
声にしなかった深い告白だった。
名残惜しく、花のような口唇から離れると、今度はそっと首元へと顔を寄せる。
彼女の皮膚は柔肌で、傷つきやすい。
花びらに触れるように、慎重に、愛おしむように首筋に沿って温度を残す。
無防備な葵に、いたずらを仕掛けたくなるのは彼の悪い癖。
体の感覚が鈍い彼女は、蔵馬がそれなりのちょっかいを出しても反応が薄い。
だからといって、彼のいたずら心がエスカレートしていいという理由にはならないのだが。
この男は、その境界線ぎりぎりを見極めて、半ば挑戦的に楽しみながら攻める。
本当に例えようのない性格をしている。
蔵馬に惚れられるということは、こういうことのようだ。
少しだけ、くすぐるように、揺さぶるように。葵の感覚をそっと呼び起こす。
やがて彼女が小さく身じろぎした。
際どいラインを行ったり来たりする彼は、やはりクールな反面好戦的だった。
そして好戦的な本能を理性で飼い慣らす、その間合いこそ、まさに蔵馬だった。
「……起きた?」
低く甘く、艶のある声が耳元近くで出迎える。
葵はゆっくりと瞬きをし、焦点の合わないまま天井を見る。
見慣れた蔵馬の部屋だった。
「……いつの間にか、寝ていたのね」
掠れた声。
眠りの縁から引き上げられたばかりの、曖昧な調子だった。
そのまま軽く伸びをして、無意識に布団を探すように指を動かす。
蔵馬はそれを見て、ほんのわずか口角を上げた。
起こされていると知らずに、穏やかに答える彼女がなんともいえない。
「うん」
短い返事。
それ以上でもそれ以下でもない、穏やかな肯定。
「なんだか………不思議な夢を見たわ」
葵は夢うつつの状態で、彼の胸元のあたりに視線を落とす。
その距離の近さに、今さら気づいたように軽く首を傾げた。
「どんな夢?」
「……眠たいのに、何かが布団をはぎ取ったり、髪を引っ張ったりと邪魔をして、寝させてくれないの」
ぼんやりとした目で彼を見上げながら微笑む彼女に、蔵馬は一瞬だけ視線を逸らし、肩を揺らして小さく息を漏らした。
まるで悪戯を見破られた子どものように。
「ははっ……それは大変だったね」
この男らしく、それ以上は語らない。
ただ、彼女の髪に触れた指先を、そっと引っ込めるだけだ。
そして心の奥で、彼女の純真無垢さを噛みしめる。
一方で、何も知らない葵は、無邪気に笑う蔵馬を見上げて、静かに嬉しくなった。
この人がたまに見せる、少年のような顔を見るのが、好きだった。
(こんなにも、心を預けられる人がいるなんて……)
彼女の胸の奥に、温かい波紋が広がっていく。
改めて、蔵馬の一途な想いを受け入れている自分に気づき、静かにその胸は高鳴った。
このRPGの会話、けっこう好きです。私も二人の会話に加わりたい。