1月下旬。暦は大寒の時期。
名前が告げる通り、街にはきりりと頬を刺すような冷たい空気が漂っていた。
「寒くて雪が積もっている所に行くから、しっかりと寒さ対策をしてきてくれ」
そんなふうに蔵馬から誘われた葵は、待ち合わせの場所に向かって歩いていた。
その日は特に冷え込んでいて、平地でも氷点下、雪が降る予報だった。
空は朝から鉛色をしている。
魔界の季節感があまりない地域で暮らしている葵は、人間界に来るまで雪を見たことがなかった。いつかの空と同じ色をしていることに、静かに胸を躍らせた。
ぼんやりと空を見ながら歩いていると、細やかな雪がちらついてきた。
白い粒が、ゆっくりと視界を流れていく。
ふわり、と心がほどける。
(雪……ね。また会えてうれしいわ)
胸の奥から声が聞こえる。
丸い粒がたくさん転がるような、高く乾いた音だった。
雪を仰ぎ見ると、色々な記憶が引き出される。
思い出に紐づけられて、何とも言えない高揚した感情が出てきた。
こうして、蔵馬と共にある時間が、当たり前ではないことを知っているからこそ、
今この瞬間が、ひどく愛おしい。
(ここにいること自体が、奇跡ね)
ふと視界いっぱいの空の片隅に、町の置時計が見えた。
何気なく視線をやると、針は10時45分を指している。
「………あ」
思わず声が出た。待ち合わせの時間は10時30分。
しかもこの場所からもう少し先。
そう思ったときだった。
「やっぱり……こんなところにいた」
やれやれという顔をしながらも、優しい艶のある声で葵の頭にぽんと手を置いたのは。
雪の中でも際立つ、長身長髪の眉目秀麗な男だった。
濃紺のコートにグレーのマフラー姿だった。
葵は後ろを振り返った。
「蔵馬」
葵がぽつりと名を呼ぶと、彼の目元はますます柔らいだ。
さかのぼること15分前。
葵のいた場所から400m離れた駅の近くで、蔵馬は彼女を待っていた。
時間になっても現れない彼女に、もしやと思いながらも、とりあえずもう少し待つことにした。
心配というよりも、彼女の姿を思い浮かべて口元が緩む。
(きっと、周りを気にせず雪を見ているんだろうな)
葵が見ているであろう雪空を眺めて、彼はふっと笑った。
同時に白い息が口元から生まれ出る。
少し待ってから、彼は五感を研ぎ澄まして、足早に彼女を探しに行った。
勘を頼りに歩いていると、ふんわりとした彼女の匂いが漂ってきた。
その気配をたどり、探し人はすぐに見つかった。
白い空を見上げながら、歩道で一人佇む姿が美しかった。
(道のど真ん中じゃなくなったな……)
気配を消すこともなく近づき、蔵馬は、葵の髪に積もった雪をそっと払う。
色素の薄い髪に白い雪がよく映えて、思わず触れたくなった。
そして今に至る。
「ごめんなさい。空を仰いでいたら、時間を忘れてしまったの」
雪を映した瞳のまま、葵はふっと微笑んだ。
頬に触れる冷気にも気づかないほど、意識はまだ空の白と共にある。
「そんな気がしていたよ。色々と思い出していたんだろ?」
蔵馬は彼女の視線の先を追うように、ほんの一瞬、空を見上げた。
そして視線を戻す。
「ええ。あなたとの時間を想って、幸せを噛みしめていたの」
「……。」
相変わらずの殺し文句と花笑む笑顔に、この男が二の句が継げない状態になった。
まだ出発する前だというのにこれだ。
外はピリッと寒いのに、心はすでに溶かされてしまいそうだ。
いろんな意味で、先が思いやられる。
(本当に、困った人だ……)
改めて葵を見ると、防寒防雪対策として白いコートに赤のマフラーを首に巻き、足元は冬のパンツにレインブーツだった。
防寒意識がだいぶ進歩していて、安心した。
「……ちゃんと対策してきたね」
「ええ。教えてもらった通りに」
二人は自然に歩き出す。
肩が触れるほど近く、それでいて押しつけがましくない距離。
蔵馬は彼女の歩幅に合わせるように、寄り添う。
駅へ向かうと、電光掲示板に遅延の表示が出ていたが、ホームに着くとちょうど列車が滑り込んでくるところだった。
(……さすがの強運だな)
「間に合ってよかったわね」
今から行くところが、彼女を歓迎しているかのように物事が進んでいるようだ。
雪の次は久しぶりに乗る電車と、葵にとっては楽しみが続く。
蔵馬は視線だけで時計を確かめ、軽く肩をすくめた。
「さあ、行こうか」
駅から降りて数十分ほど歩くと、一面に広がる白銀の世界が二人を出迎えた。
その向こうに、雪をたっぷりとまとったメタセコイアの並木がみえる。
遠く離れた所に人の影が2つ3つ見えるだけ。音の少ない、澄んだ場所だった。
「……きれいね」
言葉が、吐息と一緒に落ちる。
しんとした雪道をふたり並んで歩くと、足元でぎゅっ、ぎゅっと雪が鳴いた。
「音が、するのね」
葵は足を止め、もう一度、慎重に踏みしめる。
雪が応えるたび、目が輝いた。
「初めて?」
「ええ。こんな感触……不思議」
新雪の表面が粉砂糖のように、きめ細かくきらきらと光る。
時折風が吹いて、地面から舞い上がる雪が螺旋を描き、ふわりと空に溶けていく。
夢のような白い世界だった。
「こんなに見事だとはね」
「ここに来たことがあるの?」
「昔、ちょっとね。君に見せたかったんだ」
蔵馬の声は柔らかく空気を震わせ、雪の中に溶けていく。
白い世界は、無言の優しさで二人を包む。
葵は立ち止まり、彼を見た。
「またこうして……一緒に雪を見れるのが、嬉しいわ」
頬をほんのり染めながら花笑む顔。
蔵馬と葵が出逢って、3度目の冬だった。
きっと冬が来るたびに、これからも思い出すのだろう。
彼女は軽くしゃがみ、雪を両手ですくい、手の中に小さい衝撃波を作る。
空中に、雪が細かい粒子状となって、きらきらと溶けていく。
何度も子どものように楽しそうに繰り返す葵に、蔵馬は微笑ましくその姿を見ていた。
「防寒対策、完璧だね」
「ええ。お世話になった商店街のお店で、また色々と選んでもらったの」
「……葵は、赤もよく似合うね」
白いコートと落ち着いた深紅のマフラーのコーディネートが上品だった。
彼女の透明感をいっそう引き立てている。
「そういえば、店員の女性があなたに会いたがっていたわよ」
「オレに?」
「あなたを見ると、女性ホルモンが活性するって言ってたわ」
くすくすと笑う葵に、蔵馬も苦笑して肩をすくめた。
人間界でも、この外見は何かと便利なようだ。
妖狐蔵馬としての美貌とはまた違う形で、南野秀一の姿もまた、周囲に影響を与えていた。それを十分理解しつつ、彼は今日も自然体で人間界に溶け込んでいる。
今のこの姿がどうであれ、彼女の傍にいられるなら何でもよかった。
二人はゆっくりとメタセコイアの木に近づいた。
冬の柔らかい太陽を時折受けて、枝先は淡い金色を帯びている。
雪をまとった枝葉は、どこか誇らしげだった。
葵は立ち止まり、しばらくその姿を見上げていた。
息を吸うたび、澄んだ空気が肺の奥まで広がる。
「木は、寒くないのかしら?」
何気ないひとことにも、彼女独特の感性がにじんでいる。
「防寒しないで、こうして冬を越すなんて……本当に逞しいわね」
蔵馬は何も言わず、彼女の横顔を見た。
しなやかな感性が世界に向けられる時、眼差しはいつも優しい。
そのとき、ふっと風が通り抜けた。
枝に積もっていた雪が、さらりと宙を舞う。
そのひとひらが、葵のまつ毛に降りた。
瞬きをするたびに、白い雪が彼女のまつ毛の上を踊る。
そして時間と共に、ふわりと溶けていった。
蔵馬はその様子を、言葉を挟まずに見つめていた。
そして、ごく自然な動作で、彼女に手を伸ばす。
迷いなく、静かに。
胸元へと引き寄せ、包み込む。
抱き寄せた彼女からは、いつもの優しい香りとともに、澄んだ雪の匂いがした。
葵は驚くことなく、彼の腕の中に身を預けた。
白い世界の中、ふたりの距離が溶ける。
「寒くない?」
腕の中で、彼女は大丈夫と言って、彼の背中に手を添えた。
触れた場所から、新しく温もりが生まれる。
音のない、優しい時間だった。
「不思議ね……。雪は、水が形を変えたものでしょう?それなのに、こんなにも違うものに見える……。神秘的ね」
その声もまた、白い世界に溶けて、深く温かく、蔵馬の胸に届く。
彼は、抱く腕の力をほんのわずかに調整した。
(君の存在も同じだ……)
ただ一緒にいるだけで、自分の世界が満ちていく。
時が止まればいいと、蔵馬は思った。
やがて、風が一段と冷たくなる。
二人は駅に向かって、ゆっくりと歩き始めた。
足元で、また新雪が鳴る。
その音と重なるように、蔵馬の意識は、少し前の出来事へと移っていた。
先日、家のリビングにて。
本を読んでいた彼の横で、母が古いアルバムを整理していた。
その時、葵が母の結婚式の写真を見ながら呟いた言葉がよみがえった。
「一瞬を残せて、後で見ることができるから便利ね」
その一言に、蔵馬の勘が働いた。
「……母さん。もしかして、葵にオレの子供の頃の写真、見せた?」
問いかけると、母は顔を上げ、にっこりと微笑んだ。
「あら。どうしてわかったの?」
「……なんとなく、ね」
「いけなかったかしら?」
「いや……いいよ。ただ、少し気恥ずかしいかな」
そう答えたときの自分の表情を、蔵馬はよく覚えている。
怒りや恐れのようなものではなく、この事実を気恥ずかしさと共にどう処理しようかと測りかねる、輪郭のないもの。
「今度は、葵ちゃんの小さい頃の写真を見せてもらおうと思ってるの。秀一もみたいでしょ?」
その言葉に、彼は一拍置いた。
「……うん。そうだね」
妖怪である葵の子供時代の写真はない。それをわかっている彼は、曖昧な返事をした。
どうしたものかと、頭を働かせる。
このタイミングで、彼女の仮の生い立ちについて、話しておいた方がよさそうだ。
「母さん……。そのことなんだけど」
言葉を選びながら、彼は続けた。
「実は……彼女には、もう家族がいないんだ」
母の手が、アルバムの上で止まる。
「まぁ……」
「プライベートな話だから、オレも詳しくは聞いてないんだけど。元々住んでいた家も、今はもうないらしい。必要最低限のものだけもって、親戚の家に身を寄せているみたいなんだ。だから……写真は難しいんじゃないかな」
しばらくの沈黙のあと、母は静かに息をついた。
「私、無神経なこと言ってしまったわね」
「大丈夫だよ。葵は……心が広いから」
現在へと戻る。
雪道を歩く葵の背中が、少し前を行く。
来るときに二人で踏みしめた足跡が、白い道にまだ残っている。
人の往来は少なく、風が吹くたび、表面の雪がさらりと音を立てて動いた。
蔵馬はその足跡をなぞるように歩きながら、母に説明した内容を簡潔に葵へ伝えた。
視線は前を向いたまま、声だけが静かな冬空に溶けていく。
「だから、君の子供時代の写真は持って行かなくても大丈夫だ」
葵は足を止めて、後ろを振り向いた。
「相変わらず、機転が利いて助かるわ」
「そのうち君の家族のことを聞かれるだろうから。誤魔化しきれなくなる前に、言っておいたんだ」
「ありがとう」
その一言とともに、葵はそっと蔵馬の手を取った。
指先は冷えかけていたが、触れ合った瞬間、互いの体温が静かに行き交う。
柔らかな熱が、指から腕へとゆっくり広がっていった。
今年からアカシヤを投稿して半年がたちました。
お読みいただいている皆様の応援と、蔵馬と葵のおかげでここまで来れました。
来年もマイペースに創作していきます。
これからも応援していただけると嬉しいです。