蔵馬が歩き出すと、葵もそれに続いた。
足音が揃い、二つの影が雪の上で重なった。
「ところで、葵」
少しだけ声色を変えて、彼が口を開く。
「オレの子供のころのアルバムを見たことは、黙っていたんだね」
「ふふ」
葵が嬉しそうに微笑む。
蔵馬は握っていた自分よりも二回り小さい手を、少し強く握り返した。
「笑っても誤魔化せないよ」
「だって、お母さんと内緒って約束したから。それに蔵馬は心が広いから、写真を見たことが知れても大丈夫と思っていたわ」
にこにこと話す彼女には、全く悪気はない。
その時のことを思い出している様子に、蔵馬は小さく息を吐いた。
白い息が立ち上がる。
それが彼女の吐いた息と空中で混ざりあって、すぐに冬空へ消えていく。
「ちなみにいつ見たの?」
「あなたが暗黒武術会に行っているときよ。なんというか……不思議な気持ちになったわ」
蔵馬は歩みを止めず、横目で葵を見る。
「どんな気持ち?」
問いかけると、葵はふわりと目を細めた。
そうねぇ、と小さく呟きながら、言葉を探すようにそっと手を胸に置いた。
「私は、生まれた時からこの姿だから、肉体的な成長は止まっているでしょう?蔵馬の人間界での成長の軌跡をみて、感慨深かったわ」
一瞬、世界の中の風が止んだ。
「私の知らないあなたを知ることができたから、お母さんには感謝しているの」
蔵馬は返事をせず、ただ視線を落とした。
雪を踏む音が、少しだけ重くなる。
手を離すことなく、そのまま数歩進んでから、短く息を吐いた。
「……そうか」
それだけ言って、彼は空を見上げた。
淡い雲の向こうに、冬の日差しがにじんでいる。
葵は、自分と違う視点でこの出来事を捉えていた。
純粋に、子供から大人に成長していく過程の神秘を知って、喜んでいる様子だった。
何十年も共に歩んできたような仲になっているが、葵とは出会ってまだ3年ほど。
まだまだお互いが知らないことも、伝えきれていない想いも、たくさんある。
蔵馬は立ち止まり、彼女の横顔を静かに見つめた。
どうしても腑に落ちないことが、一つだけあった。
「……オレは子供のころの写真を見られて、君の子供時代の写真がないのがずるいな」
意外な言葉に、葵は目を少し大きくした。
この男が、その点について気にしているとは思わなかった。
そして、貴重な「ずるい」発言が面白かった。
思わず、くすりと笑ってしまう。
「これは、どうしようもないもの」
「わかっている。だから、ずるいって思うんだ」
普段同様、彼は微笑みをたたえる顔だが、少し不服そうな色が混ざっていた。
その指先がわずかに強く絡まっている。
例え、肉体を若返らせる【前世の実】を使っても、葵の場合はきっと花になるだけ。
彼の目的は果たされないのだ。
「蔵馬は、お世辞抜きにして可愛かったわよ」
「……それはどうも」
「……ちょっと拗ねてるの?」
「拗ねてません」
そう言いながら、蔵馬は一歩近づき、ぎゅっと彼女を抱きしめた。
一旦この話はおしまいとでも言うように、柔らかく強く。
彼の腕の中で、葵は深く呼吸した。
澄んだ冷気に混ざった蔵馬の匂いと、彼の温度に包まれる。
「……はい」
「わっ」
驚く間もなく、葵の体がふわりと宙に浮いた。
蔵馬が軽々と腕を回し、羽を拾い上げるように彼女を抱き上げていた。
視界が一段高くなる。
いつもより近い空、遠ざかる雪道。
眼下には、白銀に輝く世界と、少年のように微笑みながら自分を見上げる彼の顔があった。
「……蔵馬っ」
名を呼ぶ声が、少しだけ弾む。
「こうしたい気分なんだ」
それだけ言って、彼は何事もないように彼女を支え続ける。
何気ない日常にただ一緒にいられる時間が愛おしくて、蔵馬はその想いを行動に表した。
想いを言葉にしても、到底及ばないから。
魔界に行くことが増えたからこそ、はっきりと自覚している。
今の自分にとって、人間界が自分のいる場所、帰る場所だと。
そして大切な護るものと一緒にいることが、彼の生き方だった。
足元には、降り積もる雪に二人の影が、寄り添うように重なっていた。
灰色に染まった雲の隙間から、淡い青空が顔をのぞかせる。
その空からちらつく、形も大きさも不揃いな綿のような雪が、二人の間をふわふわと漂う。
蔵馬は歩みを止め、葵を抱いたまま、ほんのわずかに視線を巡らせた。
まるで、この景色ごと抱きしめるかのように。
飽きることなく、この人とただ眺めていたい景色だった。
二人でいるこの一瞬一瞬が、尊かった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
帰り道。電車を降りて夕暮れの街を歩いていると、吐く息が濃い白となった。
もうひと雪ありそうな気配の中、葵は気になっていることを尋ねた。
「オレの好きなもの?」
相変わらずの不意打ちに、足を止めかけた。
彼は一瞬だけ瞬きをした。
「ええ」
「うーん………」
そう言って、彼は顎に手を置いて彼女をしばらく眺めた。
その視線は、どこか楽しそうで、何かを企んでいるようだった。
数秒の沈黙のあと、ふっと口元を緩める。
「そうだな。あるけど………ちょっと言えないな」
その声は、柔らかく独特のリズムを紡ぎながら、優しく流れていく。
敢えて、自分の好きなものを聞く理由は尋ねず、彼は言葉を濁した。
聞かなくても予想は付く。でも聞かない。
楽しみは後で取っておきたい。
「相変わらず、意味深長な言い方をするのね」
「はは」
軽く笑って、彼は歩き出す。
その背中は、すでに次の景色へ向かっていた。
結局雲をつかむように、するりとかわされてしまった。
それでも、何かヒントになるようなものを知りたかった。
後日、葵は蔵馬のことを一番知っている人に聞いてみた。
「秀一の好きなものねぇ。実は、私もよくわからないの」
少し困ったように笑いながら、彼の母親は答えた。
「趣味のようなものだったら、植物を育てたり、ゲーム、読書、一人で出かけるのもよくあるわね。食べ物も好き嫌いはないし。母親として言うのもなんだけど、これが好きって熱中するものが無い子なのよね。淡白ではないんだけど」
買物途中で出会った志保利母と、葵は並んで歩いていた。
確かに彼は多才で、どれも器用にこなす。
かと言って、これという絶対的なものがあるようには見えなかった。
ゲームも過度に熱中している様子もなく、面白いからやっていると達人級のレベルになっていたという印象だった。
「やっぱりそうですよね」
「あら、何かあげるの?」
「3月が誕生日って聞いたので」
「あら!きっと喜ぶわ」
好きなものがはっきりとしない相手に、プレゼントを選ぶのはなかなか難しい。
もちろん蔵馬は、何をもらってもありがとうと言ってくれるだろう。
しかし、今までたくさんもらってきた葵は、今回の誕生日には日頃の感謝を形にしたかった。
彼女の記憶の中で彼にあげたのは、ホワイトデーのお返しのクッキー。
それに比べて、彼からもらった優しさや贈り物は、数えきれないほどあった。
その時、彼の母は一瞬、何かを思いついたように声を上げかけ、すぐに口元を手で押さえた。
「……お母さん?」
首をかしげる葵に、母親は苦笑した。
「ううん、何でもないのよ!秀一は、葵ちゃんが選んだものなら、なんでも喜ぶと思うわ」
息子の好きなものが、目の前の彼女だと言いかけて……。
母親が差し出がましいことをする必要はないと、言葉を飲み込んだのだった。
(やっぱり、わからなかった)
葵は、掴みどころのない蔵馬の気質から贈り物を考えるのを一旦止めた。
元々、考えるよりも直感で思いつくタイプだ。
(成り行きに、任せてみようかしら)
彼の人間としての誕生日まであと1か月。
時間は十分にある。
その日の夜、南野家。
帰宅するなり、自分の顔を見て母が思い出し笑いをしていた。
「母さん、どうしたの?」
「なんでもないわ。ちょっと嬉しいことがあったの」
「へぇ。オレの顔をみて思い出すってことは、オレに関係することなんだね」
「ふふ」
内容には触れず、ただ柔らかく笑う。
(いい子に巡り合えて、本当に良かったわね)
息子と葵の関係性を想い、志保利母は
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
2月某日。その夜は、冬のわりに不思議とやわらかな気配をまとっていた。
冷え切るはずの空気に、どこか春先の予感が混じっている。
いつものように、葵は蔵馬の部屋を訪れた。
そこは、珍しく窓が開いていた。部屋に降り立つと、空気がどこか違っていた。
窓から夜風が入り、カーテンをふくらませ、静かに撫でるように揺らしている。
部屋全体が、深く呼吸しているようだった。
ふと視線を向けると、ベッドの端に腰掛けた蔵馬の姿が目に入る。
白いラフなシャツに、ゆったりとしたパンツ。
寝支度を終えたばかりのその佇まいは、力が抜けているようで、どこか張り詰めてもいた。
柔らかな間接灯が、彼の輪郭を曖昧に照らし出す。
少し癖のある髪の影が頬に落ち、夜の色を帯びた瞳だけが、静かに夜の来訪者を歓迎していた。
まるで、最初から彼女が来ると知っていたかのように。
「こんばんわ」
葵が小さく澄んだ声をかけると、蔵馬は一呼吸おいてふっと微笑んだ。
そのまま立ち上がり、裸足のまま、床を踏みしめる。
音も立てずに、影のようにゆっくりと近づいてくる。
彼の微かな香り、静かに心をくすぐる涼やかな匂いと共に。
「……蔵馬?」
呼びかけた声に、彼は足を止める。
すぐ目の前。
その双眸には、普段よりも深い深い色。魔性の気配が混じっていた。
蔵馬は、ほんの少しだけ身をかがめ、低く艶を帯びた声で囁く。
「……葵に、捕まってほしかったんだ」
「……え?」
言葉の意味を咀嚼するよりも先に、彼の指が、そっと彼女の手首に触れた。
ひんやりとした指先。
その動きは迷いなく、優しい。
導かれるまま、葵の手は彼の胸元へと置かれる。
シャツ越しに伝わる、確かな鼓動。
トクン、トクン。
普段よりも速いリズムで、彼の生きた熱が手のひらに響いてくる。
「……。」
葵が顔を上げると、蔵馬の視線が待っていた。
悪戯めいていながら、奥に静かな温度を宿している笑み。
「……逃げる?」
柔らかく問いかけながらも、その手を離す気はさらさらない様子だった。
動けない葵を見つめながら、蔵馬はそっと告げる。
「捕まえた」
そのまま、彼女を腕の中へ引き寄せる。
強すぎない、けれど逃げ道のない抱擁。
頬にかかる彼の髪が、さらりと葵の肌をくすぐった。
そして耳元に、囁くような切ない音。
「……このまま、離したくない」
吐息に混じる声は、いつもよりわずかに甘く、熱を含んで彼女の心をとかす。
葵の柔らかな髪に、ひとつ、優しく口唇を落とす。
その仕草には、いたずら心の余韻と、溢れ出す慈しみが絶妙に混ざっていた。
もっと、近づきたいと。
「……今夜は」
蔵馬は、言葉を区切り、少しだけ間を置いた。
その沈黙が、時間の感覚を無くす。
「……ここにいて」
願うような、彼らしい穏やかな強さを含む声。
葵は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
直感的に理解した。今夜は、この人と共にある時だと。
「……わかったわ」
そう答えると、蔵馬の腕が、ほんの少しだけ強くなる。
抱きしめる力に、抑制と安堵が同時に混じったような微細な変化。
二人は言葉を交わさず、しばらくそのまま立っていた。
ただ、互いの体温と呼吸が、静かに重なっている。
2026年最初の更新です。
今年も、蔵馬と葵ともによろしくお願いします。
物語の季節と、更新した時期が同じくらいで、雪原のシーンはイメージがしやすいかも。
前半と後半でテイストが全然違うので、それも楽しんでいただければ嬉しいです。
次回はなかなかなシーンです。