2月某日の静かな昼下がり。
薄く雲のかかった冬の太陽が、障子越しにやわらかく部屋を照らしている。
白と淡い影が重なり合うその空気は、どこか眠たげで、時間の歩みを緩めている。
葵は幻海の家の居間にいた。
石油ストーブの上では、やかんが小さく身を震わせながら、ぽこぽこと穏やかに湯気をあげている。
手がかじかみ、赤くなるほどの外気温の中、室内は柔らかく暖かい。
彼女は座卓に座り、霊界から届いた資料の整理をしていた。
内容を確かめ、紙を一枚ずつ持ち上げ、揃えてファイルへと収めていく。
集中しながらの手の動きに、迷いはない。
葵の周囲には、邪魔をする気配もなく、作業は滞りなく進んでいた。
(これで、今日の半分が終わりね)
小さく息をついた、その時だった。
手元の資料に、ふっと影が落ちる。
その影を認識したと同時に、一人の空間が別のものとなる。
「へぇ。書類作業って、こういうことをしてるんだね」
背後から届いた声は、あまりにも自然で、だからこそ油断を誘った。
言うまでもなく、その声の主は、相変わらず気配を消すのがうまい。
いつの間にか優雅に近づいた彼は、葵の背中にぴたりと体を寄せていた。
体温が、じんわりと伝わってくる。
「っ……蔵馬……?」
名前を呼んで振り返ると、彼は楽しげに、少し悪戯っぽく微笑んでいた。
その視線には、彼女の反応を味わうような余裕がある。
障子戸が開いた音すら、記憶にない。一体いつから背後にいたのだろう。
黄泉の国の参謀としての勤めの一環で、彼は定期的に、幻海のもとで修行する妖怪たちの様子を見に来ている。
偶然に今日訪れたところ、葵の香りがして、迷うことなく探し当てて今に至る。
蔵馬は、背後からさらに顔を近づける。
ふわり、と。葵の耳元を、夜露のような吐息がかすめた。
「ここ、付箋貼っておいて」
視線を書類に戻すと、落ち着いた声とともに、蔵馬の長い指が書類の一部をなぞる。
細かな改ざんを、瞬時に見抜いて指摘するその正確さ。
やはりこの男は、どこまでも抜け目がない。
葵が感謝を伝えようとしたとき、その正確無比な指先は、柔らかく葵の肩を撫でる。
続いて、温かい腕がそっと彼女の肩に回された。
距離が、さらに縮まる。
「葵……かまっていい?」
瞬時に声色が変わるのも、変幻自在な彼の特質なのか。
囁くような声は、先ほどまでの冷静さとは違う。
いつもより低く、甘さが混じっている。
気まぐれな猫が、ふと思い出したように甘えてくるかのようだった。
葵は手にしていたペンをトンと置いて、振り返った。
顔が触れそうで触れない距離。
蔵馬は、いつもの落ち着いた表情のまま、彼女を見つめていた。
だけどその瞳の奥には、少年のように無邪気な光がきらめいている。
思わず、「もうかまってるわ」と口にしかけて、葵は言葉を飲み込んだ。
それを言えば、「じゃあ、もっとかまっていい?」と、彼の行動が一段階進むことは、これまでの経験でよく分かっていた。
この男には、そういうところがある。
(もしかして、これはかまってほしいの……?)
貴重な彼からの甘え。それを拒む理由は、ない。
けれど、手元にはまだ終わっていない仕事があって。
同時に、彼の愛情表現を受け止めたいという気持ちも、確かにある。
そして何より、「なぜ今、この場所でなのか」という、ささやかな戸惑い。
3つの感情が、同時に胸の中で揺れた。
葵は、ほんの一瞬、視線を落とし、再び蔵馬を見上げる。
その仕草を、彼は黙って見守っていた。
急かすでもなく、離れるでもなく、ただ待つ。
「……蔵馬。今、書類を……」
言いかけたその言葉は、彼の指先にそっと遮られた。
否定でも命令でもない仕草。
顔を寄せ、葵の頬に、羽毛が触れるようなやわらかな感触が落ちる。
「少しだけ、ね?」
中性的で繊細な声が囁く。
腕の力を少し込め、彼女の体を包み込むように引き寄せた。
「……ほら、こうしてると寒くないだろ?」
今度は先ほどまでの理知的な調子とは違い、声にはどこか甘えを含んでいる。
思い出したように寄り添ってくる子どものようで、葵は小さく息をついた。
(本当に……声まで変幻自在なんだから)
苦笑がこぼれる。
けれど、こんなふうに素直に求められてしまえば、拒む理由はどこにもなかった。
「……わかったわ」
静かに返すと、蔵馬は満足したように目を細める。
そのまま、ためらいなく彼女を胸元へと引き寄せた。
腕はやわらかく、それでいて逃げ場を与えない意志を持っている。
やかんが、ぽこぽこと音を立て、湯気を吐く。
その穏やかな音が、二人の間に流れる空気を、さらに温めていく。
葵は彼の鼓動を頬に感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
彼の体温も、静かに心をくすぐる涼やかな匂いも、すべてが心地よくて。
時間が、静かに、止まったようだった。
「……君の匂い、好きなんだ」
呟くように洩れた声は、少し掠れていた。
蔵馬は、葵の髪に指を差し入れ、毛先まで丁寧にすくい取る。
撫でるように、確かめるように。
そして、そっと、そっと口唇を落とす。
彼の愛してやまない花髪は、冬の冷気の中でもつややかで瑞々しい手触りだった。
「葵は……温かいね」
今の蔵馬は、瑞々しい少年のようだった。
顔は見えなくても、その表情が自然と浮かぶ。
葵は、胸の内で小さく微笑んだ。
(やっぱり……かまってほしかったのね)
「かまっていい?」と自分で言っておきながら。
こうしてしっかりと抱きしめているあたり、この癖のある愛情表現も、実にこの人らしい。
「……あなたは、本当に器用で、例えようのない人ね」
腕の中でそう告げると、蔵馬は軽く喉を鳴らすように笑った。
「そう?」
この状況と彼女の反応に、どこか楽しげで。
そしてやっぱり抜け目ない。
葵は、そっと彼の背中に腕を回した。その広さと温もりを、確かめるように。
もう、この愛情表現を受け入れることに、何のためらいもなかった。
(……たまには、こんなふうに甘えられるのも、悪くないわね)
しばらくして、二人は幻海に挨拶をして、その場を後にした。
修行中の妖怪たちが、遠巻きに二人を観察している。
視線が集まっていることを、蔵馬は当然のように察していた。
そして彼らが、誰一人として声をかけようとしないことにも。
彼は、あえて何も言わない。
ただ葵と一緒に歩くその姿を、静かに披露する。
言葉よりも、はるかに強く伝わり、それは自然と牽制になる。
静かな歩調。
揺るがぬ距離。
――この人には、手を出すな。
その無言の圧力は、蔵馬という存在が持つ、最も洗練された愛し方だった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
その日は、人間界での蔵馬の誕生日だった。
家族と外で食事を済ませ、穏やかな会話の余韻のまま帰宅し、彼は静かに寝支度を整えていた。
夜は澄んでいた。
まっすぐ純粋な三日月が、西の空に向かう頃。
彼の鋭敏な五感は、空気のわずかな揺らぎを捉えた。
胸の奥で、ふわりと何かが音を立てる。
次の瞬間、カーテン越しに影が映る。
細く、柔らかなシルエット。横顔の線まで、はっきりと分かる。
内心で、到底言葉には及ばない感情の高まりを感じている自分に気づいた。
蔵馬は言葉を発さず、窓に近づいた。
そっと手をかけると、ガラス越しに、たおやかな気配が伝わってくる。
「なんとか間に合ってよかったわ」
そっとカーテンと窓を開けると、そこには夜空のわずかな光を受けて、葵が立っていた。
魔界での仕事帰りに、そのまま人間界に来たのだろうか。
少しだけ、肩で息をしている。
それでも表情は穏やかで、瞳は今日の夜空のようだった。
蔵馬は一歩退き、部屋へと招き入れる。
足を踏み入れた瞬間、葵の表情が、ふわっと花がひらくようにほころんだ。
「蔵馬、おめでとう」
祝福の言葉は短い。
何に対するものかは、ちゃんと伝わっていた。
「……ありがとう」
蔵馬は、静かに微笑み返す。
今日会えるかもしれないと、どこかで期待していた。
「人間として生まれた日」というよりも、3月3日は、彼にとって大切な想いを交わした日だった。
「よろず屋の店主に、男性は女性から何をもらったら一番嬉しいか聞いたの」
相変わらずの唐突感。
蔵馬は、わずかに眉を上げる。
空気が一変して、嫌な予感がした。
続きを聞いてもいいが、止めたくなる気持ちも同時に働いた。
「そうしたら、女性自身をあげるって言ったら男は一番喜ぶって言ったのよ」
一瞬、室内の空気が静止したように感じられた。
「本当かしら?」
(やっぱりか……。葵の聞き方だと、そう答えるのも仕方がないが)
聞く相手が、そもそも適切なんだろうか。
ため息をつきたくなる気持ちを、彼は受け流した。
「……間違ってはいないけど、時と場合によるよ」
「そうよね。あなたにそう伝えてもいいのだけど、ちょっと柄にもないのよね」
「……そうだね」
そう言われて、嬉しくないはずがない。ただ、こんな形じゃない。
葵が自分に正直な性格で良かった。
その意味が本質的にわかっているのかは、敢えて聞かなかった。
「今日の良き日に、あなたに何を贈ろうか考えたの。こうやって、感謝の想いを形にするのも大切よね」
葵はふっと息を整え、懐から小さな木箱を取り出した。
ふわりと、柔らかい香りが漂う。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。開けても?」
「もちろん」
箱を開けると、幾重にも重なった複雑で繊細な深みのある香りがする。
葵の香りとは少し違う、心を静かに沈める、深い甘さ。
「……この香りは」
中には香木が入っていた。5cmほどの長さで、厚みもしっかりとある。
香木は希少価値が高く、魔界でも重宝されるもの。
盗賊時代、彼もあまたの種類を手にしていた。
「魔界の
その言葉に、蔵馬は思わず声を上げた。
「……紫檀だとっ?絶滅した香木じゃないかっ」
紫檀は、魔界の市場でもめったに出回らない代物。
オークションで高値に吊り上げられて、取引されている。
以前蔵馬が彼女に渡した琥珀と、ほぼ同等の値段。
彼女が、それほどの財を持っているとは考えられない。
珍しく感情を素直に表す蔵馬を、葵はふっと微笑みながら眺めていた。
「葵……。これを、買ったのか?」
信じられない気持ちで尋ねると、葵は小さく首をかしげた。
「えっと、話すと長くなるけど、種を明かした方がいいかしら?」
「……ああ」
そうじゃなければ、もらえそうもない。
触れてわかる、これは間違いなく上等品だった。
「占断の仕事中にね」
葵は、視線を窓の外に向けながら話し始めた。
夜の小さな明かりに照らされた笑顔が、彼の心の奥に静かな波紋を広げる。
「お金が有り余って、使い道に困っている大富豪の男性が一人きたの。その方が、『私の無くしたものを当てて』と言われたの」
蔵馬は、黙って耳を傾けた。
ここまでの内容で、結末の検討がついてしまう。
しかし、彼女の口から、彼女の言葉でこの経緯を聞きたかった。
「それで、直感で答えたの。『あなたの無くしたものはない』って」
「……君が言いそうなことだな」
蔵馬は苦笑する。彼女の直感は鋭く、心にしなやかに刺さる。
彼も今まで何度も経験してきた。
葵の言葉と声、そして醸し出す雰囲気には、相手の心の奥を静かに動かすものがある。
「それで、当たったと?」
「ええ。無くしたものを当てたわけじゃないから、お代はいらないって言ったら、更に大喜びされて」
話を聞くだけで、その時の情景が目に浮かぶ。
自然と肩の力が抜けていく。
少し前まで抱いていた懸念と驚きは、もう無くなっていた。
「よろず屋にあるものなら、何でも買ってあげるって言われたの。その時に、店主が裏ルートで入手した紫檀が入ってきたところで。見た瞬間、あなたの顔が浮かんだの」
「それで、買ってもらったと」
「ええ。鑑定証付きよ」
「……。」
葵は懐から鑑定証を取り出し、そっと差し出した。
初めから、本物かどうかと疑う余地はなかった。
蔵馬はそれを受け取り、わずかな灯りの中でそれを見つめた。
言葉が出てこない。言葉がいらない時間が流れる。
そして、再び葵を瞳に移す。
視線は深く、熱を帯びながらも、静かだった。
香りはゆっくりと、部屋と心の奥まで満ちていく。
今の暦は大寒。寒い時期ですが、温かくなるエピソードになればうれしいです。
蔵馬らしい甘えと、17歳という等身大の甘えを私なりに考えて、表現してみました。