アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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第76話

 

2月某日の静かな昼下がり。

薄く雲のかかった冬の太陽が、障子越しにやわらかく部屋を照らしている。

白と淡い影が重なり合うその空気は、どこか眠たげで、時間の歩みを緩めている。

 

葵は幻海の家の居間にいた。

石油ストーブの上では、やかんが小さく身を震わせながら、ぽこぽこと穏やかに湯気をあげている。

手がかじかみ、赤くなるほどの外気温の中、室内は柔らかく暖かい。

 

 

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彼女は座卓に座り、霊界から届いた資料の整理をしていた。

内容を確かめ、紙を一枚ずつ持ち上げ、揃えてファイルへと収めていく。

集中しながらの手の動きに、迷いはない。

葵の周囲には、邪魔をする気配もなく、作業は滞りなく進んでいた。

 

(これで、今日の半分が終わりね)

 

小さく息をついた、その時だった。

手元の資料に、ふっと影が落ちる。

その影を認識したと同時に、一人の空間が別のものとなる。

 

「へぇ。書類作業って、こういうことをしてるんだね」

 

背後から届いた声は、あまりにも自然で、だからこそ油断を誘った。

言うまでもなく、その声の主は、相変わらず気配を消すのがうまい。

いつの間にか優雅に近づいた彼は、葵の背中にぴたりと体を寄せていた。

体温が、じんわりと伝わってくる。

 

「っ……蔵馬……?」

 

名前を呼んで振り返ると、彼は楽しげに、少し悪戯っぽく微笑んでいた。

その視線には、彼女の反応を味わうような余裕がある。

障子戸が開いた音すら、記憶にない。一体いつから背後にいたのだろう。

 

黄泉の国の参謀としての勤めの一環で、彼は定期的に、幻海のもとで修行する妖怪たちの様子を見に来ている。

偶然に今日訪れたところ、葵の香りがして、迷うことなく探し当てて今に至る。

 

蔵馬は、背後からさらに顔を近づける。

ふわり、と。葵の耳元を、夜露のような吐息がかすめた。

 

「ここ、付箋貼っておいて」

 

視線を書類に戻すと、落ち着いた声とともに、蔵馬の長い指が書類の一部をなぞる。

細かな改ざんを、瞬時に見抜いて指摘するその正確さ。

やはりこの男は、どこまでも抜け目がない。

 

葵が感謝を伝えようとしたとき、その正確無比な指先は、柔らかく葵の肩を撫でる。

続いて、温かい腕がそっと彼女の肩に回された。

距離が、さらに縮まる。

 

「葵……かまっていい?」

 

瞬時に声色が変わるのも、変幻自在な彼の特質なのか。

囁くような声は、先ほどまでの冷静さとは違う。

いつもより低く、甘さが混じっている。

気まぐれな猫が、ふと思い出したように甘えてくるかのようだった。

 

葵は手にしていたペンをトンと置いて、振り返った。

顔が触れそうで触れない距離。

蔵馬は、いつもの落ち着いた表情のまま、彼女を見つめていた。

だけどその瞳の奥には、少年のように無邪気な光がきらめいている。

 

思わず、「もうかまってるわ」と口にしかけて、葵は言葉を飲み込んだ。

それを言えば、「じゃあ、もっとかまっていい?」と、彼の行動が一段階進むことは、これまでの経験でよく分かっていた。

この男には、そういうところがある。

 

(もしかして、これはかまってほしいの……?)

 

貴重な彼からの甘え。それを拒む理由は、ない。

けれど、手元にはまだ終わっていない仕事があって。

同時に、彼の愛情表現を受け止めたいという気持ちも、確かにある。

そして何より、「なぜ今、この場所でなのか」という、ささやかな戸惑い。

3つの感情が、同時に胸の中で揺れた。

 

 

葵は、ほんの一瞬、視線を落とし、再び蔵馬を見上げる。

その仕草を、彼は黙って見守っていた。

急かすでもなく、離れるでもなく、ただ待つ。

 

「……蔵馬。今、書類を……」

 

言いかけたその言葉は、彼の指先にそっと遮られた。

否定でも命令でもない仕草。

顔を寄せ、葵の頬に、羽毛が触れるようなやわらかな感触が落ちる。

 

「少しだけ、ね?」

 

中性的で繊細な声が囁く。

腕の力を少し込め、彼女の体を包み込むように引き寄せた。

 

「……ほら、こうしてると寒くないだろ?」

 

今度は先ほどまでの理知的な調子とは違い、声にはどこか甘えを含んでいる。

思い出したように寄り添ってくる子どものようで、葵は小さく息をついた。

 

(本当に……声まで変幻自在なんだから)

 

苦笑がこぼれる。

けれど、こんなふうに素直に求められてしまえば、拒む理由はどこにもなかった。

 

「……わかったわ」

 

静かに返すと、蔵馬は満足したように目を細める。

そのまま、ためらいなく彼女を胸元へと引き寄せた。

腕はやわらかく、それでいて逃げ場を与えない意志を持っている。

 

やかんが、ぽこぽこと音を立て、湯気を吐く。

その穏やかな音が、二人の間に流れる空気を、さらに温めていく。

 

葵は彼の鼓動を頬に感じながら、ゆっくりと目を閉じた。

彼の体温も、静かに心をくすぐる涼やかな匂いも、すべてが心地よくて。

時間が、静かに、止まったようだった。

 

「……君の匂い、好きなんだ」

 

呟くように洩れた声は、少し掠れていた。

蔵馬は、葵の髪に指を差し入れ、毛先まで丁寧にすくい取る。

撫でるように、確かめるように。

そして、そっと、そっと口唇を落とす。

彼の愛してやまない花髪は、冬の冷気の中でもつややかで瑞々しい手触りだった。

 

「葵は……温かいね」

 

今の蔵馬は、瑞々しい少年のようだった。

顔は見えなくても、その表情が自然と浮かぶ。

葵は、胸の内で小さく微笑んだ。

 

(やっぱり……かまってほしかったのね)

 

「かまっていい?」と自分で言っておきながら。

こうしてしっかりと抱きしめているあたり、この癖のある愛情表現も、実にこの人らしい。

 

「……あなたは、本当に器用で、例えようのない人ね」

 

腕の中でそう告げると、蔵馬は軽く喉を鳴らすように笑った。

 

「そう?」

 

この状況と彼女の反応に、どこか楽しげで。

そしてやっぱり抜け目ない。

葵は、そっと彼の背中に腕を回した。その広さと温もりを、確かめるように。

もう、この愛情表現を受け入れることに、何のためらいもなかった。

 

(……たまには、こんなふうに甘えられるのも、悪くないわね)

 

しばらくして、二人は幻海に挨拶をして、その場を後にした。

修行中の妖怪たちが、遠巻きに二人を観察している。

視線が集まっていることを、蔵馬は当然のように察していた。

そして彼らが、誰一人として声をかけようとしないことにも。

 

彼は、あえて何も言わない。

ただ葵と一緒に歩くその姿を、静かに披露する。

言葉よりも、はるかに強く伝わり、それは自然と牽制になる。

 

静かな歩調。

揺るがぬ距離。

 

――この人には、手を出すな。

 

その無言の圧力は、蔵馬という存在が持つ、最も洗練された愛し方だった。

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

その日は、人間界での蔵馬の誕生日だった。

家族と外で食事を済ませ、穏やかな会話の余韻のまま帰宅し、彼は静かに寝支度を整えていた。

 

夜は澄んでいた。

まっすぐ純粋な三日月が、西の空に向かう頃。

彼の鋭敏な五感は、空気のわずかな揺らぎを捉えた。

胸の奥で、ふわりと何かが音を立てる。

 

次の瞬間、カーテン越しに影が映る。

細く、柔らかなシルエット。横顔の線まで、はっきりと分かる。

内心で、到底言葉には及ばない感情の高まりを感じている自分に気づいた。

 

蔵馬は言葉を発さず、窓に近づいた。

そっと手をかけると、ガラス越しに、たおやかな気配が伝わってくる。

 

「なんとか間に合ってよかったわ」

 

そっとカーテンと窓を開けると、そこには夜空のわずかな光を受けて、葵が立っていた。

魔界での仕事帰りに、そのまま人間界に来たのだろうか。

少しだけ、肩で息をしている。

それでも表情は穏やかで、瞳は今日の夜空のようだった。

 

 

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蔵馬は一歩退き、部屋へと招き入れる。

足を踏み入れた瞬間、葵の表情が、ふわっと花がひらくようにほころんだ。

 

「蔵馬、おめでとう」

 

祝福の言葉は短い。

何に対するものかは、ちゃんと伝わっていた。

 

「……ありがとう」

蔵馬は、静かに微笑み返す。

今日会えるかもしれないと、どこかで期待していた。

「人間として生まれた日」というよりも、3月3日は、彼にとって大切な想いを交わした日だった。

 

「よろず屋の店主に、男性は女性から何をもらったら一番嬉しいか聞いたの」

 

相変わらずの唐突感。

蔵馬は、わずかに眉を上げる。

空気が一変して、嫌な予感がした。

続きを聞いてもいいが、止めたくなる気持ちも同時に働いた。

 

「そうしたら、女性自身をあげるって言ったら男は一番喜ぶって言ったのよ」

 

一瞬、室内の空気が静止したように感じられた。

 

「本当かしら?」

 

(やっぱりか……。葵の聞き方だと、そう答えるのも仕方がないが)

 

聞く相手が、そもそも適切なんだろうか。

ため息をつきたくなる気持ちを、彼は受け流した。

 

「……間違ってはいないけど、時と場合によるよ」

 

「そうよね。あなたにそう伝えてもいいのだけど、ちょっと柄にもないのよね」

 

「……そうだね」

 

そう言われて、嬉しくないはずがない。ただ、こんな形じゃない。

葵が自分に正直な性格で良かった。

その意味が本質的にわかっているのかは、敢えて聞かなかった。

 

「今日の良き日に、あなたに何を贈ろうか考えたの。こうやって、感謝の想いを形にするのも大切よね」

 

葵はふっと息を整え、懐から小さな木箱を取り出した。

ふわりと、柔らかい香りが漂う。

 

「はい、どうぞ」

 

「ありがとう。開けても?」

 

「もちろん」

 

箱を開けると、幾重にも重なった複雑で繊細な深みのある香りがする。

葵の香りとは少し違う、心を静かに沈める、深い甘さ。

 

「……この香りは」

 

中には香木が入っていた。5cmほどの長さで、厚みもしっかりとある。

香木は希少価値が高く、魔界でも重宝されるもの。

盗賊時代、彼もあまたの種類を手にしていた。

 

「魔界の紫檀(したん)っていうの」

 

その言葉に、蔵馬は思わず声を上げた。

 

「……紫檀だとっ?絶滅した香木じゃないかっ」

 

紫檀は、魔界の市場でもめったに出回らない代物。

オークションで高値に吊り上げられて、取引されている。

以前蔵馬が彼女に渡した琥珀と、ほぼ同等の値段。

彼女が、それほどの財を持っているとは考えられない。

 

珍しく感情を素直に表す蔵馬を、葵はふっと微笑みながら眺めていた。

 

「葵……。これを、買ったのか?」

 

信じられない気持ちで尋ねると、葵は小さく首をかしげた。

 

「えっと、話すと長くなるけど、種を明かした方がいいかしら?」

 

「……ああ」

 

そうじゃなければ、もらえそうもない。

触れてわかる、これは間違いなく上等品だった。

 

 

 

「占断の仕事中にね」

 

葵は、視線を窓の外に向けながら話し始めた。

夜の小さな明かりに照らされた笑顔が、彼の心の奥に静かな波紋を広げる。

 

「お金が有り余って、使い道に困っている大富豪の男性が一人きたの。その方が、『私の無くしたものを当てて』と言われたの」

 

蔵馬は、黙って耳を傾けた。

ここまでの内容で、結末の検討がついてしまう。

しかし、彼女の口から、彼女の言葉でこの経緯を聞きたかった。

 

「それで、直感で答えたの。『あなたの無くしたものはない』って」

 

「……君が言いそうなことだな」

 

蔵馬は苦笑する。彼女の直感は鋭く、心にしなやかに刺さる。

彼も今まで何度も経験してきた。

葵の言葉と声、そして醸し出す雰囲気には、相手の心の奥を静かに動かすものがある。

 

「それで、当たったと?」

 

「ええ。無くしたものを当てたわけじゃないから、お代はいらないって言ったら、更に大喜びされて」

 

話を聞くだけで、その時の情景が目に浮かぶ。

自然と肩の力が抜けていく。

少し前まで抱いていた懸念と驚きは、もう無くなっていた。

 

「よろず屋にあるものなら、何でも買ってあげるって言われたの。その時に、店主が裏ルートで入手した紫檀が入ってきたところで。見た瞬間、あなたの顔が浮かんだの」

 

「それで、買ってもらったと」

 

「ええ。鑑定証付きよ」

 

「……。」

 

葵は懐から鑑定証を取り出し、そっと差し出した。

初めから、本物かどうかと疑う余地はなかった。

 

蔵馬はそれを受け取り、わずかな灯りの中でそれを見つめた。

言葉が出てこない。言葉がいらない時間が流れる。

 

そして、再び葵を瞳に移す。

 

視線は深く、熱を帯びながらも、静かだった。

香りはゆっくりと、部屋と心の奥まで満ちていく。

 




今の暦は大寒。寒い時期ですが、温かくなるエピソードになればうれしいです。
蔵馬らしい甘えと、17歳という等身大の甘えを私なりに考えて、表現してみました。
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