葵は、彼の視線をまっすぐ受け止めたまま、言葉を続けた。
「高価なものだとは思っていたから、難色を示されたら、その時は考えようと思っていたのよ。紫檀が欲しいって言ったら、さらにお客さんに喜ばれたわ。目が高いって」
(……参ったな。本当にかなわないな)
蔵馬は、わずかに肩をすくめるように息を吐いた。
視線を落とし、香木から立ちのぼる気配を確かめるように、しばし黙る。
この絶妙な巡り合わせも、葵の強運か、運命か。
紫檀を手にした驚き以上に、自分のために選んでくれたという事実が、静かに胸を満たしていく。
これから3月3日が来るたびに、思い出すことが一つ増えそうだ。
「紫檀には退魔効果があると聞いたわ。家に置くと、あなたの家族を守ることができるでしょう?」
「……うん」
「持ち主の英気を養ったり、鎮静効果も高いから、聡明叡知なあなたの支えにもなると思ったの」
「……ありがとう。紫檀は、オレも初めてなんだ」
蔵馬は目の前の香木を、そっと撫でた。乾いた木肌の奥に、温もりが潜んでいる。
紫檀は、何千年も前に絶滅した魔界の幻の香木。
盗賊稼業をしているときに、一度はお目にかかりたいと思ったときもあった。
こんな形で、時を超えて手にするとは。
「蔵馬なら、紫檀に妖気を通して活用することもできるでしょう?見た時に、これはあなたの手に渡るものだって感じたわ」
「……大切にするよ」
(……今の気持ちを、表す言葉が見つからない)
紫檀に触れながら、遠い記憶を織り交ぜて意識は深い層に降りていく。
彼の指先は、壊れやすいものに触れるように丁寧だった。
(喜んでくれて、良かったわ)
静かに香木を眺めているその横顔に、葵はそっと目を細めた。
いくつかの時間が流れて、彼女は目の前の男を呼んだ。
「蔵馬」
名前を呼ばれて、目が合った。わずかな灯りの中、深い瞳同士が想いを伝えあう。
葵は一歩近づき、彼の背にゆっくりと腕を回した。
今度は、彼女の安息の香りに包まれる番だった。
「今日はね……」
葵はそっと囁いた。穏やかで潤いのある声が、彼の胸を静かに震わせる。
「あなたが人間として、生まれた日だから。
(君は、オレの存在そのものを祝ってくれるんだな)
蔵馬は、すぐには応えなかった。
その代わり、彼女の背に回した腕に、ほんの少し力を込める。
「……それだけじゃないよ」
中性的で繊細な音が空気を震わせる。
彼は目を閉じ、彼女を声で包み込む。
「君がオレに、これからも一緒にいたいって言ってくれた日だ」
ゆっくりと紡がれる言葉。優しく、熱い想いを秘めて、囁くように。
忘れもしない、二人にとって大切な日だった。
彼女のおかげで、人間として生まれた日に、優しい祝福の意味が宿った。
蔵馬は深い瞳を開いて、まっすぐ彼女を見つめた。
「情熱的な告白だったよ」
「……告白したつもりは、なかったんだけど。あの時は、つい感情が溢れてしまったの」
ふっと微笑みながら、葵は彼の瞳の奥に、その日を思い出していた。
すぐ傍で聞こえるお互いの鼓動は、いつもより少し速い。
「君が言ってくれたから、オレはこうして一緒にいられるんだ」
蔵馬は微笑んで、彼女の肩口に顔をうずめた。
ほんのりと甘い、安息の香りが濃くなる。柔らかい花髪が、彼を歓迎して包んでくれる。
「そして、今ならわかる。あの時、オレは……戸惑っていたけど、嬉しかったんだ」
恋の芽が出た日だった。
それはあの日に、静かに根を張り、今は大きく実っている。
妖怪として、人間としてを超えた今の蔵馬で、ここにいる。
(きっと、葵は知らないだろう)
紫檀を贈る特別な意味を。
かつて魔界で、それが結びの証だったことを。
生まれて間もない彼女が知らないのは、当然だ。
彼が琥珀を贈った返事として、葵は紫檀を選んだ。
そう受け取られても、不思議ではない意味を持つ贈り物。
紫檀の香りと、彼女のぬくもり。
二つの安息に包まれながら、蔵馬は人間としての17回目の誕生日を終えた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
まだ妖化が進んでいない頃。
それは9歳の人間、南野秀一として生きていた蔵馬の記憶だった。
彼は、台所にいた人間界の母親に声をかけているところだった。
「ただいま。工作で大きな空きカン使うんだけど、ない?」
「そこの戸棚の上。いいわ、母さんがとる」
彼は背伸びをし、戸棚の上を見上げていた。
「いいよ。自分でとれる」
無理を通した行動だった。
彼は近くの椅子を引き寄せた。
椅子の脚が床を擦る乾いた音が、やけに大きく響いた。
小柄な体で椅子に上がり、棚の上段に腕を伸ばす。
指先が、わずかに届かない。
空きカンに触れかけた、その瞬間。
ぐらり、と視界が揺れる。
まだ小さく不安定な人間の体に、重心が崩れる。
足元が抜ける感覚。
(……しまったっ)
同時に、戸棚から皿が落ちて空中を舞う。
パリンッという音が空気を裂く。
床に倒れていく彼の下には、割れたガラス片が散らばっていた。
――もし怪我をしたとしても、妖怪である蔵馬にとってはそれほどのものではない。
そう冷静に判断しながら、体は重力に従って降りていく。
しかし結末は予想外だった。
「危ない!!」
次に感じたのは、自分の頭を支えていた母親の手の温度と、血の匂い。
母親が身を挺して彼を受け止め、割れた皿で腕を切ることになった。
一方で彼は、傷を負うことはなかった。
理解が追い付かない行動だった。
「あっ……母さん!」
子供のころの自分が、高い声で叫ぶ。
こんな表情は、かつて見せたことがないだろう。それほど焦って驚いていた。
「……だ、大丈夫?ケガしなかったわね……。良かった」
息を詰めるようにして微笑む母の姿に、蔵馬は頭が真っ白になった。
腕から流れる出血と目の前の人の笑顔から、目が離せない。
怒りや恐れとも違う、初めて感じる名前のない感情に、思考がついていかなかった。
白く無機質な病院の廊下。消毒液の匂いが鼻を刺し、靴音が遠くで反響している。
診察室に入っていった母を見送ってから、どれだけの時間が経っただろう。
冷たい長椅子に腰掛けたまま、彼は床の一点を見つめていた。
握った指先が、知らず知らず強くなる。
(なぜ、オレを助けたんだ……。助けなければ、オレが軽い怪我をする程度で済んだはずだった。……親子だからか?人間だからか?)
胸の奥で何かがぎしりと軋む。
自問自答を繰り返しては、例えようのない感情が渦巻く。
その横顔は、9歳の子供の顔から、別の側面が見え隠れしていた。
「何か、考えごと?」
気配もなく、突然優しい声が届いた。
「……っ!?」
(隣には、誰もいなかったはずだっ)
反射的に息を止め、顔を上げる。
左を向くと、柔らかい花色の髪の女性が、こちらを見ていた。
葵だった。
どこか懐かしさと安らぎを纏って、彼女は少し首を傾げている。
胸の奥の緊張が、たちまちすっと緩む。そこで蔵馬は気づいた。
(……オレはまた、都合のいい夢を見ているのか)
ようやく冷静になった。
彼は今、過去の記憶と感情を追体験をしながら、昇華している。
このような夢は、今まで何度かあった。そしてその過程に、彼女は居合わせる。
――これも必然か。
9歳の少年である蔵馬は、深く息を吐いた。
その呼吸に混じって、長年胸に沈んでいた感情が、少しだけ外に流れ出ていくようだった。
「……君は、いつもこうやってオレの夢に現れるんだな」
口調はいつもの蔵馬のまま、声は変声期前の子供の高いものだった。
「そうなの?私は蔵馬がいるような気がして、歩いてきたら、ここにたどり着いたのよ」
葵は廊下の先、診察室の扉に視線を移す。
「……君らしいな」
「神出鬼没なのは、お互い様よ」
「……そうだな」
その後、言葉はそれ以上続かず、ただ隣に並んで座る時間が過ぎた。
母が診察を受けている白い扉を、二人で見つめていた。
彼女は何も聞かなかった。その沈黙が心地よかった。
音のない無機質な空間は、葵がいるだけで違っていた。
静けさが、ただの冷たい沈黙ではなく、柔らかい静寂へと変わる。
(……まだ未解決の感情が残っていたということか)
恐れ、罪悪感、当時は理解しきれなかった愛情。
母の腕の傷の記憶よりも深く刻まれていたそれらが、葵という存在の前で少しずつ形を変えていく。
「はい」
不意に、視界の端から手が差し出された。
小さな包み紙に包まれたチョコレート。
「……ん?」
戸惑うように見上げると、葵が少し体を近づけていた。
「頂き物だけど」
そう言って、手のひらが彼の前で静止する。
少年の蔵馬は、今の自分よりもずっと大きなその手を見つめ、一瞬ためらってから、そっと指先で包みを受け取った。
「……ありがとう」
包み紙を開く音が、妙に鮮明に響く。
小さな口に含むと、甘さとほろ苦さが同時に広がった。
現実と変わらない味だった。
(……これは、オレが君に渡したものだったな)
視線が、わずかに揺れる。
夢だと気づいた自分が、夢の中で思い出す。
彼の表情は、ふっと柔らかくなった。
「蔵馬の心は、私が感じている以上に深くて広いのね」
いつもの何気ない調子で言う。唐突なのは、実に彼女らしい。
「……葵には、そう見えるんだね」
「ええ」
そう答えた彼女の横顔が、病院の白い光の中で、静かに映える。
柔らかいその輪郭を、彼は目で追った。
ふいに、衝動が胸を突いた。
蔵馬は、無性に隣にいる愛しい人を抱きしめたくなった。
腕に力を込めて、離さずに。
しかし、今のこんな形じゃない。
視線を落とし、自分の小さな手を見る。
「……この姿だと、オレは十分に、君を抱きしめることができなくて……もどかしい」
伏し目がちに切なく発した言葉に、葵はゆっくりと彼の方を向いた。
そして一歩近づく。
次の瞬間、少年の身体は、やわらかな腕の中に包み込まれた。
優しい酔芙蓉の香りに、彼の胸が密かに鳴った。
嬉しいと、愛おしいと、そしてどうしようもなく切ないと。
「私が抱きしめるのでは、だめ?」
「……これはこれで嬉しいけど」
彼女の背中に手が回らない。仕方がなく、葵の腕に手を添えることで我慢する。
「やっぱり……物足りないんだ」
(……この人の温もりを、全部、オレのものにしたい)
葵の胸元に顔を埋めると、淡い花の香りが濃くなる。
耳元で、やわらかな鼓動が聞こえる。
「夢の中でなら、いいんじゃない?」
その言葉に、やや長い沈黙が落ちた。
やがて、彼は小さく息を吐く。
「……今度は」
顔を上げずに、小さな口が動く。
「今の蔵馬で、子供時代の君を抱きしめる夢がいい」
その一言に、葵は花がほころぶように微笑んだ。
自分でも子供のようだなと思いながらも、蔵馬は彼女に全身を包み込まれる感覚を、心ゆくまで味わっていた。
その温もりの中で、過去の自分と和解した気がしていた。
「……。」
まぶたの奥に、まだ夢の名残が揺れていた。
ほんのりと朝の光がカーテンの隙間から差し込み、薄く室内を染めていた。
目を開けると、珍しく葵がこちらを見ていた。
星を宿したような瞳の輝きが、目覚めに優しい。
「……起きてたのか」
「あなたの寝顔を、見ていたの」
それは、いつも自分が言っていた台詞だった。
不意を突かれて、蔵馬は頬を緩めた。
「蔵馬。よく眠れた?」
「……うん」
葵は彼の頬に手を伸ばして、ひと撫でした。
そして、彼の髪の一房を指先ですくい上げる。
「寝ぐせが付いてるわ」
差し出された指先を見て、蔵馬もふっと笑った。
いつもと立場が逆だった。これも夢の続きなのかもしれない。
「君の夢を見てたんだ」
「どんな夢?」
「それは……また今度」
蔵馬は目を細めて、彼女の体を抱き寄せた。
夢よりも鮮やかな葵の温もり、匂い、そして声。
しばらく、体を合わせた無言の会話が続く。
二人の間に漂う朝の空気は、至福だった。
「……今日は、休み?」
「いや、学校行くよ。でも……」
蔵馬は目の前の花唇にそっと口唇を落として、続けた。
「こうしてると……行きたくなくなるのが、本音だな」
「それじゃあ、私があなたの代わりに行こうかしら?」
どうしてそうなるのかと、蔵馬はくすりと笑った。
この人は冗談で言っているのか、本気で言っているのか。
「……それだと、意味がなくなるよ」
柔らかく透明で、艶のある声がゆっくりと葵に向けられる。
――ずっと、こうして隣にいたいから。
その想いは、言葉にならないまま、朝の光の中に溶けていった。
後半は、蔵馬にとっていろんな意味で大切な出来事の追体験の話。
夢という非現実世界で、彼が当時どのように感じていたかを書いてみました。
一ファンとして、書けたことが嬉しいです。