4月初旬。冬の名残を完全に手放し、春爛漫の陽気が続いていた。
その日、蔵馬は理由を告げることなく、葵を外へ連れ出した。
「少しだけ、つきあって」
そう優しく微笑んで。
制服姿の二人は、並んでゆっくりと歩く。
舗道の端には、すでに散り始めた花びらが薄く敷き詰められ、足音を吸い込んでいた。
やがてたどり着いたのは、小高い丘の上。
人の気配はなく、視界いっぱいに広がるのは、静かに連なる桜並木だった。
春風に乗って、満開の花びらが空いっぱいに舞っている。
二人を待っていたように、降り注ぐ温かい雪に似た桜。
「……きれいね」
潤いのあるその声は、花吹雪の中に吸い込まれていく。
蔵馬はその隣に立ち、何も言わずに同じ景色を見上げる。
春風が、彼の赤みを帯びた黒髪を揺らし、頬を撫でていった。
柔らかな光に照らされた横顔は、どこか幻想的だった。
しばらくして、彼は静かに形の良い口を開いた。
「桜は……」
言葉を選ぶように、一瞬だけ間を置く。
「咲くときも、散るときも、こんなに静かで、美しい。……だけど、見ていると、少しだけ、胸が痛むこともある」
その声は、繊細で柔らかく、少し影が潜むような抑揚のあるものだった。
普段は感情の起伏を見せない彼が、珍しく視線を遠くに置いたまま話す。
その姿に、葵は何も言わず、そっと距離を詰めた。
(あなたは……美しいわね)
切なくたゆたう、桜の花びらに似たその人を見つめていた。
蔵馬は、ゆっくりと彼女の方へ振り向いた。
目が合った瞬間、彼はそっと手を伸ばし、葵の髪に絡んだ一片の花びらを、指先で摘み取る。
「葵にも、桜が降り積もってる」
指先で花びらを見せながら、彼はふっと微笑んだ。
その笑顔に、彼女の胸が温かく音を立てる。
気づけば、葵は小さな声で問いかけていた。
「……蔵馬は、どうして今日、ここに連れてきてくれたの?」
蔵馬はすぐに答えない。
花びらの舞う中で、静かに彼女を、深く澄んだ瞳で抱きしめ続けた。
そして。
「……言葉じゃ、うまく言えないんだ」
そう呟いて、彼女の手をそっと取った。
包み込むような温度。
ふと見ると、その指先も、花びらで濡れていた。
「だから……」
言葉の代わりに、蔵馬はそっと、葵の額に口唇を落とした。
ふわり、と。
その時、風が吹き抜け、無数の花びらが二人を包み込む。
春の雪のように、やさしく降り積もる。
「……オレの全てで、君を大切にしている」
その艶のある奥深い声は、春風に乗って、彼女の胸の奥まで沁み込んでいった。
葵は何も言わず、頷いた。もう、それ以上の言葉は必要なかった。
「ええ……。十分すぎるほど、伝わっているわ」
蔵馬はもう一度微笑んで、彼女を腕の中に包んだ。
ふたりの間を、桜の花びらがゆっくりと泳いでいった。
何度散っても、また咲く桜のように。 この想いも、きっと、時を越えて咲き続ける。
『生まれ変わっても、また共に』
そう想わなくてもいいほどに、この生涯で、今を深く、共に生きたい。
奥の奥にある、蔵馬の本音だった。
お互いが、花散る瞬間を迎えたとしても。
散っていっても、なお繋ぐものがある。
静かで、強く、変わらないものが。
「……少し、寄って行かないか?」
桜並木を離れた帰り道。
二人は南野家に来ていた。
玄関を上がり、葵はいつものようにリビングのソファーで待つ。
日中の陽射しをたっぷりと吸い込んだ部屋は、ほどよく温かく居心地が良い。
体が自然と緩んでいく。
すっと瞬きをして、少しだけ瞼が重くなるのを感じる。
(春は、眠たくなるって言うものね……)
ほどなくして、彼が戻ってきた。
小さな皿に、淡い色の和菓子と
ふわりと、ほのかに立ち上がる桜のような匂い。
初めて見る芳しいお菓子のおかげで、彼女の眠気は、遥か彼方に飛んでいった。
「はい。今日の桜にちなんで」
「蔵馬、これは……なにかしら?」
「あ、そうか。初めてだったんだね。桜餅と言って、この時期に食べる和菓子だよ」
説明を聞きながら、葵の目が好奇心できらきらと輝きだす。
その反応を逃さず、蔵馬はわずかに口元を緩めた。
「今日は、桜尽くしね」
ふたりで並んで座り、桜餅を口に運んだ。
もち米のやわらかさと、あんこの甘み。そこに、葉のほのかな塩気が重なる。
「……おいしい。香りと甘みが絶妙な余韻ね」
葵の率直な一言に、蔵馬は小さく肩を揺らした。
「そうだった。人間界では、この桜餅の葉を食べる派と、食べない派で分かれるんだよ」
「そうなのね。何も疑問に思わず、食べてしまったわ。塩気が効いていて美味しい。蔵馬は、どちら派なの?」
言われて、彼は少し考えるように視線を上げた。
「……オレは、その時の気分かな」
それを聞いて、葵がくすりと笑った。
鯛焼きを食べた時を思い出す。
この人は、こういうことに対して、はっきりとしたこだわりがない性格のようだ。
「オレらしいって思った?」
「ええ。とっても。前も同じようなこと言ってたから」
「葵が珍しく、思い出し笑いしてるね」
「あなたほどじゃないけど、こういうのも良いわね」
花がぱっと開くような笑顔と声だった。
その声と表情に、蔵馬は一瞬、言葉を失う。
胸の奥が、静かに波打つのを感じた。この人が笑っていると、ある感情が高まる。
彼は何も言わず、葵の頬にそっと手を伸ばし、指先で髪を軽くかき上げた。
その深い瞳で、彼女を見つめる。
優しい沈黙の中、しばらくお互いの息遣いで会話が進む。
その時、玄関のドアが開いて、蔵馬の母親が帰ってきた。
「ただいま。……あら。葵ちゃん、いらっしゃい」
リビングの扉が開き、二人は立ち上がって出迎える。
「おじゃましています」
「まあ。葵ちゃん、髪にお花を挿すなんて、風流ね」
「……え?」
言われて、思わず瞬きを数度繰り返した。
髪に花を挿した覚えはない。
志保利母の視線をたどり、葵はそっと自分の髪に触れる。
柔らかいしっとりとした、自分の髪と似た感触が指先に。
――桜の花。
それは、枝ごと自然に寄り添うように留められていた。
「……。」
考えられるのは、一つだけ。
ゆっくりと隣を見上げると、蔵馬がいた。
少年のように、どこか無邪気な笑みを浮かべている。
小さく驚く葵の表情を、嬉しそうに見ている。
――やっと気づいた?
そんな声が聞こえそうだった。
「……ありがとう」
小さくそう言うと、蔵馬は何も言わず、いつもの表情で深い眼差しを送った。
その沈黙が、何より雄弁だった。
(この人のさりげない愛情表現は、優しくて、温かく包んでくれる)
そしてそのさりげなさを楽しみつつ、蔵馬は彼女と共にある。
その想いは、とても繊細で気高く、言葉では言い表せない。
(私は、あなたとこうしていることが、仕合わせよ……)
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
初夏の風が、静かに枝葉を揺らすある日。
夕暮れの林は、金色と藍色が溶け合う境目の光に包まれている。
境目の時間。
昼でも夜でもない、そのわずかなひと時に、葵は小道の上で立ち止まっていた。
彼女の視線の先には、蔵馬がいる。
魔界からの急報を受け、彼は再びあちらへ向かうこととなった。
どれほどの時間がかかるのか、何が起こっているのか、それは彼自身にも読めていない。
その背後には、渦巻くように不穏な気配が漂っていた。
「行ってくるよ……」
蔵馬はいつもと変わらず、柔らかく、穏やかだった。
だが、言葉のあとに置かれた短い間が、彼の胸の内を物語っていた。
葵は答えなかった。
小さく息を吸い、彼の表情をまっすぐに受け止める。
彼の深い瞳の奥に宿る微細な緊張、わずかに張りつめた肩の線。
それらを感じ取りながら、彼女は静かな微笑みを贈る。
言葉を超えたところで、伝えていた。
――あなたの選択を信じている、と。
蔵馬は一瞬、視線を伏せる。
それから背を向け、歩き出した。
足取りは風のように軽やかだが、その背中の線には、ほんのかすかな躊躇いが残っている。
彼の姿が木立の間へと遠ざかるにつれ、葵の胸の奥に、透明な雫が落ちる。
音もなく、静かに、水面を波立たせるような淡い刺激だった。
その時だった。
蔵馬の歩みが、ふいに止まる。
そして、ゆっくりと振り返った。
乾いた風が吹き抜け、長い髪がほどけるように揺れる。
薄暮の光がその横顔を淡く縁取り、真摯な眼差しが、まっすぐに葵を捉えた。
言葉は、ない。
しかし、その一瞬に込められたものはあまりに多かった。
言葉にできることじゃない。
けれど、君にだけは伝わってほしい。
(……必ず、戻る)
祈るように、誓いのように、蔵馬はその深い瞳で彼女を抱きしめた。
葵の胸が、ふわりと熱を帯びた。
彼の手が彼女の胸の内に触れているようで。
その感覚は、言葉を超えた確信となって伝わってくる。
だから彼女も、ただもう一度、花笑む表情を贈った。
それが何よりの応えになることを、知っていたから。
蔵馬の目がわずかに揺れ、小さく息をのむ。
数度の呼吸の後、再び彼女のもとへ一歩、また一歩と歩み寄った。
迷いの影が、ほんの一瞬だけその背に差す。
だが次の瞬間、彼はその影を振り切るように、葵を柔らかく、確かに抱きしめた。
清らかな香りが、蔵馬の胸に満ちる。
彼の曲線を描く髪先が葵の頬をかすめ、冷たい夕風と混じり合う。
心臓の鼓動が互いに伝わり、時の流れが一瞬止んだように感じられた。
「……これで、行ける」
低く囁くように、言葉を落とす。
彼は名残惜しげにその温もりを手放し、背を向けた。
何事もなかったかのように歩き出した姿は、冷静でしなやかだった。
その胸の奥に、彼女の体温を刻んだまま。
葵は動かず、その背を見送る。
林に溶け込む影が見えなくなるまで、ただ静かに。
胸の奥で、一つの想いが芽吹いていた。
(私たちは、たとえ離れても……心は傍にあるわ)
風が吹き抜け、白いハナミズキの花びらが一枚、ふわりと葵の足元に舞い落ちた。
彼女はそれを見つめ、そっと瞳を閉じた。
桜餅のところで、「道明寺か長命寺か」と蔵馬に言わせる内容も考えましたが、葵の性格上桜の葉の方に落ち着きました。
皆さんは、道明寺か長命寺、どちらがお好きですか?