アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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第78話

 

4月初旬。冬の名残を完全に手放し、春爛漫の陽気が続いていた。

その日、蔵馬は理由を告げることなく、葵を外へ連れ出した。

 

「少しだけ、つきあって」

 

そう優しく微笑んで。

 

制服姿の二人は、並んでゆっくりと歩く。

舗道の端には、すでに散り始めた花びらが薄く敷き詰められ、足音を吸い込んでいた。

 

やがてたどり着いたのは、小高い丘の上。

人の気配はなく、視界いっぱいに広がるのは、静かに連なる桜並木だった。

 

春風に乗って、満開の花びらが空いっぱいに舞っている。

二人を待っていたように、降り注ぐ温かい雪に似た桜。

 

「……きれいね」

 

潤いのあるその声は、花吹雪の中に吸い込まれていく。

 

蔵馬はその隣に立ち、何も言わずに同じ景色を見上げる。

春風が、彼の赤みを帯びた黒髪を揺らし、頬を撫でていった。

柔らかな光に照らされた横顔は、どこか幻想的だった。

 

しばらくして、彼は静かに形の良い口を開いた。

 

「桜は……」

 

言葉を選ぶように、一瞬だけ間を置く。

 

「咲くときも、散るときも、こんなに静かで、美しい。……だけど、見ていると、少しだけ、胸が痛むこともある」

 

その声は、繊細で柔らかく、少し影が潜むような抑揚のあるものだった。

普段は感情の起伏を見せない彼が、珍しく視線を遠くに置いたまま話す。

その姿に、葵は何も言わず、そっと距離を詰めた。

 

(あなたは……美しいわね)

 

 

【挿絵表示】

 

 

切なくたゆたう、桜の花びらに似たその人を見つめていた。

 

蔵馬は、ゆっくりと彼女の方へ振り向いた。

目が合った瞬間、彼はそっと手を伸ばし、葵の髪に絡んだ一片の花びらを、指先で摘み取る。

 

「葵にも、桜が降り積もってる」

 

指先で花びらを見せながら、彼はふっと微笑んだ。

その笑顔に、彼女の胸が温かく音を立てる。

気づけば、葵は小さな声で問いかけていた。

 

「……蔵馬は、どうして今日、ここに連れてきてくれたの?」

 

蔵馬はすぐに答えない。

花びらの舞う中で、静かに彼女を、深く澄んだ瞳で抱きしめ続けた。

そして。

 

「……言葉じゃ、うまく言えないんだ」

 

そう呟いて、彼女の手をそっと取った。

包み込むような温度。

ふと見ると、その指先も、花びらで濡れていた。

 

「だから……」

 

言葉の代わりに、蔵馬はそっと、葵の額に口唇を落とした。

ふわり、と。

その時、風が吹き抜け、無数の花びらが二人を包み込む。

春の雪のように、やさしく降り積もる。

 

「……オレの全てで、君を大切にしている」

 

その艶のある奥深い声は、春風に乗って、彼女の胸の奥まで沁み込んでいった。

葵は何も言わず、頷いた。もう、それ以上の言葉は必要なかった。

 

「ええ……。十分すぎるほど、伝わっているわ」

 

蔵馬はもう一度微笑んで、彼女を腕の中に包んだ。

ふたりの間を、桜の花びらがゆっくりと泳いでいった。

何度散っても、また咲く桜のように。 この想いも、きっと、時を越えて咲き続ける。

 

 

『生まれ変わっても、また共に』

 

そう想わなくてもいいほどに、この生涯で、今を深く、共に生きたい。

奥の奥にある、蔵馬の本音だった。

 

お互いが、花散る瞬間を迎えたとしても。

散っていっても、なお繋ぐものがある。

静かで、強く、変わらないものが。

 

 

 

 

「……少し、寄って行かないか?」

 

桜並木を離れた帰り道。

二人は南野家に来ていた。

 

玄関を上がり、葵はいつものようにリビングのソファーで待つ。

日中の陽射しをたっぷりと吸い込んだ部屋は、ほどよく温かく居心地が良い。

体が自然と緩んでいく。

すっと瞬きをして、少しだけ瞼が重くなるのを感じる。

 

(春は、眠たくなるって言うものね……)

 

 

ほどなくして、彼が戻ってきた。

小さな皿に、淡い色の和菓子と黒文字楊枝(くろもじようじ)をのせ、テーブルの上にそっと置く。

ふわりと、ほのかに立ち上がる桜のような匂い。

初めて見る芳しいお菓子のおかげで、彼女の眠気は、遥か彼方に飛んでいった。

 

「はい。今日の桜にちなんで」

 

「蔵馬、これは……なにかしら?」

 

「あ、そうか。初めてだったんだね。桜餅と言って、この時期に食べる和菓子だよ」

 

説明を聞きながら、葵の目が好奇心できらきらと輝きだす。

その反応を逃さず、蔵馬はわずかに口元を緩めた。

 

「今日は、桜尽くしね」

 

ふたりで並んで座り、桜餅を口に運んだ。

もち米のやわらかさと、あんこの甘み。そこに、葉のほのかな塩気が重なる。

 

「……おいしい。香りと甘みが絶妙な余韻ね」

 

葵の率直な一言に、蔵馬は小さく肩を揺らした。

 

「そうだった。人間界では、この桜餅の葉を食べる派と、食べない派で分かれるんだよ」

 

「そうなのね。何も疑問に思わず、食べてしまったわ。塩気が効いていて美味しい。蔵馬は、どちら派なの?」

 

言われて、彼は少し考えるように視線を上げた。

 

「……オレは、その時の気分かな」

 

それを聞いて、葵がくすりと笑った。

鯛焼きを食べた時を思い出す。

この人は、こういうことに対して、はっきりとしたこだわりがない性格のようだ。

 

「オレらしいって思った?」

 

「ええ。とっても。前も同じようなこと言ってたから」

 

「葵が珍しく、思い出し笑いしてるね」

 

「あなたほどじゃないけど、こういうのも良いわね」

 

花がぱっと開くような笑顔と声だった。

その声と表情に、蔵馬は一瞬、言葉を失う。

胸の奥が、静かに波打つのを感じた。この人が笑っていると、ある感情が高まる。

 

彼は何も言わず、葵の頬にそっと手を伸ばし、指先で髪を軽くかき上げた。

その深い瞳で、彼女を見つめる。

優しい沈黙の中、しばらくお互いの息遣いで会話が進む。

 

 

その時、玄関のドアが開いて、蔵馬の母親が帰ってきた。

 

「ただいま。……あら。葵ちゃん、いらっしゃい」

 

リビングの扉が開き、二人は立ち上がって出迎える。

 

「おじゃましています」

 

「まあ。葵ちゃん、髪にお花を挿すなんて、風流ね」

 

「……え?」

 

言われて、思わず瞬きを数度繰り返した。

髪に花を挿した覚えはない。

 

志保利母の視線をたどり、葵はそっと自分の髪に触れる。

柔らかいしっとりとした、自分の髪と似た感触が指先に。

 

 

【挿絵表示】

 

 

――桜の花。

それは、枝ごと自然に寄り添うように留められていた。

 

「……。」

 

考えられるのは、一つだけ。

 

ゆっくりと隣を見上げると、蔵馬がいた。

少年のように、どこか無邪気な笑みを浮かべている。

小さく驚く葵の表情を、嬉しそうに見ている。

 

――やっと気づいた?

 

そんな声が聞こえそうだった。

 

「……ありがとう」

 

小さくそう言うと、蔵馬は何も言わず、いつもの表情で深い眼差しを送った。

その沈黙が、何より雄弁だった。

 

(この人のさりげない愛情表現は、優しくて、温かく包んでくれる)

 

そしてそのさりげなさを楽しみつつ、蔵馬は彼女と共にある。

その想いは、とても繊細で気高く、言葉では言い表せない。

 

(私は、あなたとこうしていることが、仕合わせよ……)

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

 

初夏の風が、静かに枝葉を揺らすある日。

夕暮れの林は、金色と藍色が溶け合う境目の光に包まれている。

 

境目の時間。

昼でも夜でもない、そのわずかなひと時に、葵は小道の上で立ち止まっていた。

 

彼女の視線の先には、蔵馬がいる。

魔界からの急報を受け、彼は再びあちらへ向かうこととなった。

どれほどの時間がかかるのか、何が起こっているのか、それは彼自身にも読めていない。

その背後には、渦巻くように不穏な気配が漂っていた。

 

「行ってくるよ……」

 

蔵馬はいつもと変わらず、柔らかく、穏やかだった。

だが、言葉のあとに置かれた短い間が、彼の胸の内を物語っていた。

 

葵は答えなかった。

小さく息を吸い、彼の表情をまっすぐに受け止める。

彼の深い瞳の奥に宿る微細な緊張、わずかに張りつめた肩の線。

それらを感じ取りながら、彼女は静かな微笑みを贈る。

 

言葉を超えたところで、伝えていた。

――あなたの選択を信じている、と。

 

 

蔵馬は一瞬、視線を伏せる。

それから背を向け、歩き出した。

足取りは風のように軽やかだが、その背中の線には、ほんのかすかな躊躇いが残っている。

 

彼の姿が木立の間へと遠ざかるにつれ、葵の胸の奥に、透明な雫が落ちる。

音もなく、静かに、水面を波立たせるような淡い刺激だった。

 

その時だった。

蔵馬の歩みが、ふいに止まる。

そして、ゆっくりと振り返った。

 

乾いた風が吹き抜け、長い髪がほどけるように揺れる。

薄暮の光がその横顔を淡く縁取り、真摯な眼差しが、まっすぐに葵を捉えた。

 

言葉は、ない。

しかし、その一瞬に込められたものはあまりに多かった。

 

言葉にできることじゃない。

けれど、君にだけは伝わってほしい。

 

(……必ず、戻る)

 

 

祈るように、誓いのように、蔵馬はその深い瞳で彼女を抱きしめた。

葵の胸が、ふわりと熱を帯びた。

彼の手が彼女の胸の内に触れているようで。

その感覚は、言葉を超えた確信となって伝わってくる。

 

だから彼女も、ただもう一度、花笑む表情を贈った。

それが何よりの応えになることを、知っていたから。

 

 

蔵馬の目がわずかに揺れ、小さく息をのむ。

数度の呼吸の後、再び彼女のもとへ一歩、また一歩と歩み寄った。

迷いの影が、ほんの一瞬だけその背に差す。

だが次の瞬間、彼はその影を振り切るように、葵を柔らかく、確かに抱きしめた。

 

清らかな香りが、蔵馬の胸に満ちる。

彼の曲線を描く髪先が葵の頬をかすめ、冷たい夕風と混じり合う。

心臓の鼓動が互いに伝わり、時の流れが一瞬止んだように感じられた。

 

「……これで、行ける」

 

低く囁くように、言葉を落とす。

彼は名残惜しげにその温もりを手放し、背を向けた。

 

何事もなかったかのように歩き出した姿は、冷静でしなやかだった。

その胸の奥に、彼女の体温を刻んだまま。

 

 

葵は動かず、その背を見送る。

林に溶け込む影が見えなくなるまで、ただ静かに。

胸の奥で、一つの想いが芽吹いていた。

 

(私たちは、たとえ離れても……心は傍にあるわ)

 

風が吹き抜け、白いハナミズキの花びらが一枚、ふわりと葵の足元に舞い落ちた。

彼女はそれを見つめ、そっと瞳を閉じた。

 




桜餅のところで、「道明寺か長命寺か」と蔵馬に言わせる内容も考えましたが、葵の性格上桜の葉の方に落ち着きました。
皆さんは、道明寺か長命寺、どちらがお好きですか?
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