魔界にて。
空はどこまでも鉛色に沈み、途切れることのない雨が森一帯を覆っていた。
葉を叩く雨音が無数に重なり合い、深淵な世界をつくり出している。
濡れそぼつ木立の奥に、蔵馬はただ一人立っていた。
雨に流れる髪は、一本の銀色の河のように背筋を伝って真っすぐ落ちる。
その流れは、何世紀もの誇りを象徴していた。
息を吸い込むと、湿った土と雨が絡む魔界の森の匂いが肺を満たす。
急な黄泉からの呼び出しだった。
「……今回は、いつ人間界に戻れるかわからない」
そう告げて、蔵馬は葵の顔を深く目に焼き付けてきた。
魔界の三大勢力の一つ――雷禅が恐らく死に、均衡が大きく崩れようとしていた。
この流れで、黄泉は魔界を手中に収めるべく動くつもりでいた。
黄泉の国の軍事総長である蔵馬は、否応なくその渦の中心に巻き込まれていた。
この戦乱でどう立ち回るか、彼の明晰な頭脳は素早く二手三手先にたどり着いていた。
遠くない未来に、こうなることを予想して、いくつもの布石を準備していた。
(このまま行けば、幽助や飛影と戦うことになるだろう……)
風に混じる雨が枝を揺らし、小さく唸る。
自分の命さえも顧みず、戦いに身を投じる魔の血があるのも事実。
しかしその一方で、今の蔵馬は、人間としての感情も抱きしめ、生きて人間界に帰ることを望んでいた。
矛盾する事実が同居し、拮抗している。
妖狐の体を、冷えた雨がつたう。
――その時、一瞬だけ雨の気配が消えた。
鋭敏な嗅覚が、酔芙蓉の淡くほのかに甘い香りをとらえた。
「……。」
蔵馬はわずかに瞳を開き、音もなくあたりを見渡した。
深い森の中、ほかの妖怪はおろか、獣の気配はない。
香りは、記憶として蘇ったものだった。
(オレは……本能的に、葵を思い出しているのか)
嗅覚は、本能に直結した原始的な感覚。この体が、彼女を呼び起こす。
別れ際の葵の顔。
普段と変わらない瞳の奥に、わずかな哀愁の色が光っていた。
それは、彼女の感情だけでなく、己の胸の内の揺らぎを反射したものだった。
昔の自分なら、内面を悟られることなど考えられなかった。
それは、この世界では――隙というもの。
空からの雫は、蔵馬の長い銀髪に沁みこみ、白装束を肌にはりつかせる。
髪からつたう雨の流れが頬にでき、顎から落ちるたびに、まるで涙を流しているような軌跡を描く。
離れる直前、振り返り抱きしめた感触が鮮明に両腕に残っている。
葵の温もりは、声なき声を伝えていた。
蔵馬は、静かに空を仰いだ。
暗い天は果てなく続き、雨は止む気配を見せない。
胸の奥で、何かがゆっくりと軋む音がする。
(……この姿でいても、お前以上に、オレを揺さぶるものはない)
妖狐蔵馬としても、南野秀一としても、その想いは変わらなかった。
指先に微々たる痺れのような震え。
蔵馬は拳を軽く握った。
森は、彼の内心を守るように外界を拒んでいた。
雨の音だけがすべてを覆い隠し、他のすべてを遠ざける。
金色の双眸が、スローモーションのように閉じられる。
濡れた銀色のまつ毛がかすかに震える。
閉じた視界の先には、ただ一人の姿がある。
(……葵)
その名を胸に呼べば、彼の意識はまっすぐに、かの人に向かう。
(お前は……これほどに深く、オレの奥に根付いているのだな)
冷ややかな雨の中、たちまち蔵馬の体は熱くなる。
胸を焦がし、心臓が溶けていくような感覚。かつての自分にはないものだった。
あの日の別れは、ピリオドではない。
ただ一時の区切りにすぎない。
雨の森の中、孤高の妖狐は、天に涼やかな眼差しを向けていた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
6月に入って間もない頃。
蔵馬は湿地帯を抜けて、森をゆっくりと歩いていた。
随分と昔に、通った記憶のある場所だった。
森が開けて、乾いた風が、D地区郊外をゆるやかに流れていた。
魔界の風は、人間界のそれと違う。
堆積した生命の記憶が眠る、深い腐葉土の香りだった。
露店が連なる通りは、思いのほか賑わっていた。
香辛料の甘く刺激的な匂い、薬草を煮詰めた苦み、鍛冶屋の金属が触れ合う乾いた音が、雑踏の奥で混ざり合っている。
蔵馬は歩調を落とし、周囲を眺めながら進んでいた。
葵から聞いていたのは、ほんの断片的な情報だけ。
それでも、不思議と足は迷わない。
盗賊として生きていた頃に染みついた感覚が、理由を告げることなく、彼を導いていく。
——探しものはすぐに見つかった。
人の往来が最も多い市場の中央。
その喧騒の中で、蔵馬の視線は、自然と一点に収束した。
花色の髪。
それを束ねる紐が、遠目からささやかに光っているのがわかる。
(こんなに、簡単に見つけられるなんてな……)
そんな自分に、内心でふっと息をつく。
探しものというより、最初から見失ってなかったかのようだ。
彼女は占断の仕事中だった。
相手の妖怪に軽く身を傾け、言葉を挟まず、ただ耳を澄ませている。
その表情は穏やかで、どこか深いところを見ている。
蔵馬は店の中へ足を踏み入れた。
天幕の下は外よりも涼しく、乾いた木の匂いがする。
「いらっしゃい!兄さん、買物かい?」
3mを超える大柄な一角の鬼が、朗らかに声をかけてくる。
「いえ」
短く答え、彼は視線をまっすぐ想い人に向けた。
「なるほど……。彼女だな?」
すぐに察したらしく、店主である鬼はにやりと笑う。
「少し待つけど、大丈夫かい?」
蔵馬は頷き、勧められるまま椅子に腰を下ろした。
店内を一瞥した後、暖簾の隙間から見える葵を、そっと見守った。
今まで共に過ごしてきて、思うことがあった。
彼女は、自分の知らない、どこか違う世界に生きているのではないかと。
同じ魔界に属しながら、彼女は不思議なほど清らかで、違う色彩を纏っていた。
——自分が知っている魔界とは、違うのか。
そんな疑問が、時折胸をよぎる。
しかし、今日彼はわかった。
(ここに来て、正解だったな)
葵は確かに魔界の空気を吸い、この地の土に足をつけて、生きている。
幻のように儚い存在ではない。
その事実に、蔵馬は無意識に肩の力を抜いた。
「葵。客じゃなさそうだが、小一時間ほどお前さんを待ってるもんがいるぞ。ありゃ、ただならぬ雰囲気の兄さんだな」
「え?」
店主に促され、葵が顔を上げる。
視線の先にいたのは――長い癖のある髪を風に揺らし、やや細身の男。
穏やかな眼差しと出会う。
「……あ」
彼女の声がふわりと零れる。
そのまま、引き寄せられるように、彼のもとへ歩き出していた。
「よく、ここがわかったわね」
「君から聞いた情報を頼りに、探してみたんだ。思ったより、簡単だったよ」
二人の間に、柔らかな時間が流れる。
魔界で同じ時間を、同じ場所で過ごす。
それが初めてだと気づいたとき、蔵馬の胸の奥に、言葉にできない感情が満ちた。
「結構、賑わってるじゃないか」
「おかげさまで」
蔵馬は店主に向き直り、軽く会釈をした。
「葵がいつも、お世話になってます」
「いやいや、こっちの方が客寄せしてくれて助かってるんだ。オレはこの店の赤星ってんだ。緑鬼だけどな」
赤星は、親指を自分に向ける。
「蔵馬です」
名を交わした後、赤星は二人を見比べ、楽しげに目を細めた。
「あんた……葵の亭主か?」
一瞬の間が空く。
葵が言葉を探すより先に、蔵馬は涼しい顔で答えた。
「……えっと」
「そんなところです」
ぴたりと重なった二人の声。
葵は大きな目を開いて、彼を見上げた。
対照的な二人の反応に、関係性が垣間見える。
赤星は大きくうなずき、安心したように言った。
「葵が男に興味がないのは、ちゃんと相手がいたからだったんだな!葵、この兄さんとても強そうだな。お前も安心だな」
蔵馬は、そっと視線を落とし、彼女に微笑みかけた。
その深い瞳が、言葉なく告げる。
——もう、良い頃合いだろ?
不思議なことに、その言葉は彼女にそのまま届いた。
胸の奥にふわりと灯る温かいものを乗せて、彼女はゆっくりとうなずいた。
「ええ、とても強いわよ。彼が薬を作ってくれたの」
赤星は一瞬きょとんとした後、すぐに目を輝かせる。
「へえ……兄さん、やるじゃねえか!」
彼は身を乗り出し、蔵馬をまじまじと見つめた。
雑踏のざわめきの中で、蔵馬は半歩だけ前に出た。
「兄さん、どうだい!ここで商売しねえか?」
その問いに、蔵馬は即答しなかった。顎に指を添え、思案するような間を置く。
人間界が生活拠点の彼は、ここで生計を立てるつもりはなかった。
だが、隣に立つ彼女の存在が、別の選択肢を静かに示していた。
「……そうだな」
声色が知性を感じさせるものに変わる。
蔵馬は赤星に視線を戻す。
「条件がある。オレの取り分は、全て彼女に渡してくれ」
あまりにもさらりと流した言葉に、空気が一瞬止まった。
葵は思わず彼の横顔を見上げる。
蔵馬は、一度彼女に視線を向け、ほんのわずかに目を細めた。
――大丈夫だ。
そう言われた気がして、葵は口を開きかけた言葉を飲み込む。
そして静かに一歩引き、彼の背に任せることにした。
蔵馬は赤星と向き直り、淡々と商談を進めていく。
値段、流通量、表記、そして運搬の手間賃など。
そのやり取りを横で聞きながら、葵は胸の奥でくすりと笑った。
(人間界で販売したら、もっと高値が付きそうね)
彼の商才を目の当たりにしながら、心の中でそんな思いが浮かんだ。
「人気があるのは、薬効の高いものと……惚れ薬だな!」
赤星がさらに身を乗り出し、声を潜める。
「ときに兄さん……。惚れ薬は作れるかい?」
蔵馬はわずかに首を傾け、考える素振りを見せた。
「そうだなぁ。作れないこともないけど……」
言葉を切り、意味深長に微笑む。
「効果が凄まじいからな。正気に戻った時に、取り返しのつかない状況になる可能性が高い。あまり勧めないが」
独特の抑揚の物言いに、赤星は飛びついた。
「……つまり、効くってことだな!?」
「責任は取れませんよ?」
くすりと笑いながら釘を刺すと、赤星は豪快に頷いた。
「問題ねえ!『自己責任』と表記して、毒薬扱いで売る!危険なものほど、みんな欲しがるもんだ!」
交渉は、驚くほど早くまとまった。
蔵馬の提示した条件はすべて通り、赤星は満足げに腕を組む。
今後は、葵が薬の運搬をすることになる。
その手間賃まで上乗せして、赤星に出させているところが抜け目ない。
葵はそっと彼の横顔を見つめた。
(やっぱりあなたは、途方もない才があるのね)
相手の思考や感情を読むだけでなく、惹きつける魅力がある。
静かな喜びが、彼女の胸に満ちていった。
AIで妖狐を作ってみました。なんとなく楽しかった。
イメージに合う挿絵になっていれば嬉しいです。