商談を終えた赤星は、蔵馬と葵を交互に見た。
「そういや、兄さん。今日は何かの偵察かい?」
赤星の問いに、蔵馬は一度彼女に視線を向けた。
「……いや、帰るところなんだ」
その言葉に、葵は目を丸くした。
黄泉と躯の国家解散と魔界統一トーナメントの話は聞いていたが、こんなに早く彼の仕事が落ち着くとは思っていなかった。
「よし、葵!今日は店じまいだ!帰った帰った!」
赤星は急に声を張り上げる。
「あの、先月の場所代がまだ……」
「そんなもん、今度でいい!兄さんと帰んな!」
無邪気に笑って、赤星は葵と蔵馬の背中をずいっと押した。
二人は半ば強引に、店の外へ出る形となった。
途端に市場の賑やかな音がする。
振り返ると、赤星は満足そうに手を振っている。
顔を見合わせ、自然と微笑みがこぼれた。
そして肩を並べて歩き出す。
雑踏を抜けると、空が頭上に広がっていた。
蔵馬は歩調を少しだけ落とし、そっと彼女を見る。
ほんのわずかに、表情が緩む。
「一度……君が働いているところを、見てみたかったんだ」
(ありがとう……)
葵は胸の奥がぽっと温かくなった。
彼が自分の日常に目を向けてくれたことが、嬉しかった。
魔界の空は、どこまでも
人間界の空のように色鮮やかでもなく、霊界のようにどこまでも高くもない。
それでも――。
葵はこの空を後ろ向きに思ったことは一度もなかった。
今、同じ空の下で隣を歩いていることに、彼女は花笑む顔を彼に贈る。
歩く歩幅をわずかに揃えながら、蔵馬はゆっくりと口を開いた。
足元の岩肌を踏む音は控えめで、この地域特有の乾いた大地の感触が靴底を通して伝わってくる。
彼の声は余分な感情を削ぎ落とした静けさがあったが、冷たくはなかった。
「……国家が解散するまでの流れは、君も聞いたと思うけど……。要因の大半は、幽助の行動にある」
前方を見据えたまま、彼は言葉を選ぶように続ける。
「黄泉との対談で、魔界統一トーナメントを提案した。あれが、すべての引き金になった」
友人の幽助と黄泉との対談に居合わせた蔵馬は、それらを誇張せず、ただ「見てきた事実」として運んでくる。
内容は整理されていて、経緯と今後の展望が想像しやすかった。
「このトーナメントは、魔界のすべてを巻き込むだろう。 霊界も、人間界も、静観できる状況じゃない。勝者によって、魔界の統治形態が大きく変わる」
葵は歩みを緩めることなく、静かに頷いた。岩陰を抜ける風が、彼女の髪を揺らしている。
「でも……あなたはどこか、楽しそうね」
唐突なのはいつものこと。そして不思議と的を外さない言葉だった。
「……そう見える?」
蔵馬は一瞬だけ、横目で彼女を見た。
「ええ」
短い肯定。
蔵馬の口唇が、ほんのわずかに緩んだ。
それは自嘲でも皮肉でもなく、世界の歪みすら観察対象として受け入れている者の、静かな好奇心だった。
「国家が解散されたことで、あなたは自由になったのよね?」
葵にとっては、ごく自然な質問。
しかし蔵馬にとっては、心の奥底を撫でられるような言葉だった。
「……ああ」
彼はさらに歩調を落とす。
黄泉の国の軍事参謀長という肩書きも、過去の義務もすでに手放した。
今はただの蔵馬だ。
彼の手に残っているのは――自分がどうありたいか、という問いだけだった。
葵はふと、隣を見上げた。
彼は前を向いたままだったが、その横顔はどこか穏やかで、計算高い気配が薄れている。
「あなたは、あなたの好きな所で……大切な人と生きたらいい。そう思ってた」
静かで柔らかな声。
澄んだ水が、石の隙間にゆっくりと染み込むように、その言葉は蔵馬の内側に届いた。
彼は何も言わなかった。
ただ、呼吸が一つ、深くなる。
――この人は、言葉にしない部分まで見ている。
「だから、それを聞いて……私は嬉しいわ」
葵の言葉に、蔵馬の瞳がわずかに動いた。確かに受け取った、という小さな反応。
その『大切な人』には、人間界の家族も含まれているが――。
「……葵」
名前を呼んで、蔵馬は歩みを止めた。
魔界の乾いた風が吹き抜けて、二人の髪と服を揺らしている。
「オレは、魔界統一トーナメントに出るつもりだ」
彼女から視線を逸らさず、静かに告げる。
「今のオレで、どこまでできるか……試してみたい。そして、区切りのような意味もある」
ゆっくりと言葉を締めくくる語尾は柔らかく、その声は繊細でいて芯の強さを持っていた。
星を宿したような葵の瞳が、その決意をまっすぐ受け止め、ほのかに煌めいた。
彼女の持つ、安息のような香りが、風と共に届く。
「もう少し……オレのわがままに、付き合ってくれる?」
蔵馬は、葵にそっと近づいた。
まっすぐ見つめる彼の眼差しに、かすかな弱さと、隠さない意志を携えて。
葵は、その言葉を胸の奥にそっとしまい込む。
そして、ふわっと花がほどけるように微笑んだ。
「あなたのわがままは、わがままとは思わないわ。……もちろんよ」
蔵馬は、静かに目を細めた。
迷いなく一歩踏み出し、万感の想いを込めて、葵を抱きしめた。
「……ありがとう」
その声には、ほんのわずかな揺らぎが混ざっていた。
感謝なのか、安堵なのか、それとも――
蔵馬自身も、正確な名を与えていない感情だった。
やがて、二人は別れの気配を察し合い、自然に距離を取った。
葵は亜空間移動で。
蔵馬は、魔界から人間界への一方通行の転移装置の場所へと向かう。
振り返ることなく、それぞれ人間界に戻ってきた。
夕暮れの風が、街路樹の葉を静かに鳴らしている。
魔界とは違い、人間界の空はどこまでも澄んで穏やかだった。
茜色に染まりかけた雲が、ゆっくりと流れていく。
歩みを進める途中、蔵馬はふと感じた馴染みのある香りに、思わず足を止めた。
柔らかく、透明で、ほんのりと甘く、そしてどこか懐かしい。
胸の奥が、自然とほどけていく。
(……葵)
考えるより先に、確信が芽吹く。
彼は無意識のうちに歩調を速め、家路を急いだ。
玄関に入るより先に、視界の端に白い気配が映る。
蔵馬は静かに立ち止まった。
庭先の木。
その枝に、見慣れた姿があった。
夕映えを受けて、象牙色の髪が淡く光り、ふわりと風に揺れている。
葵は枝に腰かけるようにして、静かにそこにいた。
まるで、最初からそこにいるのが当たり前だったかのように。
「……おかえりなさい、蔵馬」
その声は、人間界の風の音に柔らかく溶けながら、彼の耳に届いた。
蔵馬は目を細め、小さく息をついた。
「ただいま」
言葉はたったそれだけだったのに、胸の奥は反応する。
魔界と人間界――。
異なる世界を行き来する中で、ここに戻り、彼女がいる。
それが全てだった。
(……この人は、オレと同じ世界で生きている)
葵は枝から軽やかに降りてきて、彼の前に立った。
言葉はいらなかった。
季節の風と、彼女の香りと、二人の沈黙が、時空をつないでいた。
蔵馬は、穏やかに微笑みながら、葵を見つめる。
愛しさが静かに胸を満たし、そっと手を伸ばした。
指先が触れ、絡み合う。
彼女の温度がここにある。
彼は視線を逸らさず、ほんの一瞬だけ指に力を込めた。
――オレは……この人に、手が届く自分でありたい。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
おまけ♢
魔界統一トーナメントを、1か月後に控えた頃。
魔界D地区の市場は、いつにも増して熱を帯びていた。
通りの一角にあるよろず屋の前だけ、妙に人だかりが絶えない。
賑やかな呼び声、ざわめく妖気、行き交う視線。
その中心に掲げられた木札には、筆太でこう記されている。
《入荷待ち御免! 惚れ薬・
ほんの一滴で、世界が甘く色づく !鎮静・多幸感・限定微幻作用つき(※自己責任で)≫
棚に並ぶ瓶は、青紫の蓮をそのまま封じ込めたような造形で、光を受けるたび、ゆらりと色を変えた。
蓋を開けた瞬間、ふわりと立ち上る香りは、柔らかく、どこか妖艶だ。
鼻先をかすめるだけで、胸の奥に溜まっていたものが、すっとほどけていくような錯覚を覚える。
「……確かに、これは危険だな」
「一滴で、ここまでくるとはな……」
噂は瞬く間に広がった。
服用した妖怪たちは、強烈な陶酔感を口々に語る。
――目に映るものすべてが、愛おしくなった。
――気づいたら、ずっと同じ相手を見つめていた。
――訳もなく、膝をついてしまった。
中には、より奇妙な体験を口にする者もいる。
「青い睡蓮が、視界いっぱいに咲いた」
「昔の恋人が、名前を呼んだ気がした」
「声だけが、耳元に残った」
効能には個体差があり、誰にどんな作用が出るのかはわからない。
それがまた、恐れと好奇心を煽り、《瑠璃睡蓮》はいつしか伝説として語られ始めていた。
「葵の亭主が作ったって?……どんな魔術師だよ」
「オレ、一生分の金使ってもいいから手に入れたい」
噂は噂を呼び、よろず屋といえば《瑠璃睡蓮》、と言われるほどになっていた。
表舞台の立役者である店主・赤星は、今日も豪快に笑っていた。
「いやぁ、仕入れのたびに即完売だよ!あれがまた、毒薬扱いで販売できるギリギリのラインを攻めててさ。クセになる連中があとを絶たねぇ!蔵馬の旦那は、いい性格してるぜ!」
棚の前では、葵が淡々と商品を整えていた。
瓶の向きを揃え、欠けや汚れがないかを確かめながら、淡々と手を動かす。
「葵、お前はすげえ亭主に見染められたもんだな!将来安泰だな!」
冗談めかした声に、葵は手を止めて振り返る。
顔が、ほんの少しだけ苦笑している。
「……そうね」
需要があるから売れるわけで。商売としては、確かに成り立っている。
けれど胸の奥には、言葉にならない違和感が、小さく残っていた。
占断師としては、心を惑わすものが果たしていいのかと思う反面、心が迷うからこそどうにかしたいという気持ちも理解できる。
(人間も妖怪も……心は、永遠のテーマなのね)
ふと、記憶に浮かぶのは、調合台に向かう蔵馬の横顔だった。
「危険だから……推奨はしない」
冷静に言いながら、正確に薬液を混ぜていく蔵馬は―――。
真顔で、けれどどこか楽しそうで。
(それにしても、蔵馬は本当に器用で多才ね)
妖怪として生まれて、まだ数年の自分。
対して、数千年を生きてきた蔵馬は、自分の知らない世界をあまりにも多く知っている。
葵は瓶を全て棚におさめ、静かに息をついた。
市場の喧騒の中で、《瑠璃睡蓮》の淡い不可思議な香りが、漂っていた。
瑠璃睡蓮の話は、書いててけっこうおもしろかったです。
蔵馬ならきっとどんな薬も作れてしまいそうです。
人間界で需要がありそうなのは、やせ薬、筋肉増強剤、育毛剤、睡眠薬などでしょうか。