人間界での穏やかな休日。
弟の秀一は朝から部活へ出かけ、父と母は揃って外出している。
「たまには、二人で出かけてきたらどう?」
そうやんわりと父母を促すことに成功した蔵馬は、思惑通り、葵との二人の時間を過ごしていた。
「コーヒー淹れるけど、飲む?」
何気ない調子で問いかけると、ソファに座っていた葵が顔を上げる。
「いただくわ」
返ってきた言葉に、蔵馬は軽く返事をして立ち上がった。
キッチンへ向かう途中に、背後に感じる小さな足音。
振り返らずとも、そこに彼女がいるとわかった。
「どうやって淹れるの?」
肩越しに、すっと覗き込む声。
距離の取り方を気にしない無防備さに、蔵馬は一瞬だけ手を止める。
「……見てるといいよ」
そう言って、彼は湯を沸かし始めた。
葵は本当に「観る」ことに集中しているらしく、彼の指先、ケトルの傾き、湯気の立ち上がりを、興味深そうな眼差しで追っている。
吐息がかかるほど近いのに、彼女自身はまったく意識していない。
この距離感が、蔵馬の胸の奥の琴線に触れる。
(なんだろうな……)
――妹がいたら、こんなふうに後ろをついて来るんだろう。
葵は時に妹のようにあどけなく、時に姉のように落ち着き、時には母のように無条件に包み込む。
それでいて、確かに――愛する人として、こちらを見ている。
彼女の中で、自分は一貫して「蔵馬」なのに。
こちらの心が、追いつかなくなることがある。
もちろん葵自身は変わらない。
しかし、見せる顔が変わる。いや、変わるのは、己の受け取り方だ。
そのたびに、また何かが新たに動く。
「……いい匂いね」
ぽつりと漏れた声に、蔵馬は我に返った。
コーヒーの香りが部屋に広がり、葵は自然と目を細める。
花が、光を受けて開く瞬間のようだった。
「葵は、こういうところが本当に素直だね」
「まだ経験値が少ないから、色々と興味があるの」
「……もう少し、道具を使うのに慣れるといいね」
くすりと思い出しながら言う蔵馬に、葵も微笑み返す。
「これでも、努力しているのよ?」
「例えば?」
「指を切らずに、千切りができるようになったわ」
一瞬、蔵馬の動きが止まる。
「……練習してたの?」
「ええ。一度、お母さんを驚かせてしまったんだけど、だいぶ慣れてきたわよ」
その言い方が、かえって想像力を刺激する。
流し台で淡々と指を押さえる葵と、血相を変えた母が駆け寄る光景を。
母から何も聞かされてないことから、出血はそう多くないだろう。
「………そうか」
短く応じながら、胸の奥で何かがほどけていく。
葵が人間界に興味を持ち、ここでの暮らしに少しずつ触れている。
器用とは言えない彼女の一挙手一投足に、自然と反応してしまう。
――理屈では、説明できない。
出来上がったコーヒーをマグカップに注ぎ、彼は振り返る。
葵の前に差し出すと、自然と表情が緩んだ。
「オレの知らないところで、料理の練習をしてたんだね」
「お母さんが誘ってくれたの。あまり筋がいい方じゃないことは、ちゃんと伝えたわよ」
(……なるほど)
彼女が積極的に料理を習いたいと言い出す姿は、想像できなかった。
母のほうが、そっと手を引いたようだ。
同じ台所に立ち、同じ時間を過ごす二人の姿が、蔵馬の脳裏に浮かぶ。
「そのうち、作ってくれるの?」
軽い冗談のつもりだった。
いつもと変わらない穏やかな声色で、何気なく投げた言葉。
そこに葵は、何のてらいもなく、あっさりと衝撃的な言葉を返してきた。
「もう作って、食べてるはずよ」
「……え?」
予想外の方向から言葉の矢が返ってきて、蔵馬は一瞬止まった。
そしてフリーズをすぐに解除すると、疑問に思ったことが次々と出てきた。
「……いつの話?」
彼の記憶の中で、葵が作ったものを食べたのは、バナナのパウンドケーキだけ。
「ええと……。何度か作ったんだけど、最近では先週の金曜日。夕食の副菜ね」
金曜日。
脳裏に、母の声がよみがえる。
――今日は彩りがいいでしょう?
あの時、確かにそう言って、笑っていた。
蔵馬は内心で息を吐く。
言わないのは葵らしい。
そして母も母で、自分の近くで黙って、内心では微笑ましく思っているのを考えると、複雑な胸中になった。
蔵馬はコーヒーを一口含み、ゆっくりと飲み下す。
いつもより、ほろ苦く、繊細な味がした。
「……今度、作ったら教えてね」
「わかったわ。……蔵馬、どうしたの?」
彼は顎に手を添えて、少し考え込むような表情をしていた。
葵や母が言わなかったことよりも、何度もその料理を口にしながら、気づかなかった自分自身に、妙な感情が芽生えていた。
面白くもあるが、もどかしくもある。
そして、正直に言えば――少し悔しい。
蔵馬は、まっすぐに葵を見つめた。
「次は……一緒に食べたいんだ」
マグカップに口をつけようとしていた葵の動きが、ぴたりと止まる。
彼女はしばらく考えて、ふわっと花が綻ぶように笑った。
その反応を見て、蔵馬の中にかすかな満足感と、別の感情が立ち上がる。
――やられっぱなしは、性に合わない。
そう思った彼は、自然な流れで次の一手を思いついた。
「そういえば……だいぶ、道具を使えるようになったって言ってたね?」
声音がわずかに弾む。
この切り返しの速さが、この男らしい。
「ええ。前よりは、良くなってると思うわ」
「それなら、簡単なゲームで試してみないか?」
「ゲーム?」
「うん。すごく簡単だから」
葵はカップをテーブルに置く。
直感で目の前の男の何かしらの思惑を感じつつも、少し考えてから頷いた。
「いいわよ」
「それじゃあ……葵。目を閉じて?」
突然の提案に、彼女は瞬きをした。
誰に対しても素直な葵だが、相手が蔵馬となると、わずかに警戒が混じる。
愛あるいたずらの前科が多い。
無意識に、彼女は尋ねた。
「……どうして?」
「楽しくするため、かな?」
ふっと笑う気配を含んだ声。
葵は少し戸惑いながらも、ゆっくりと瞼を下ろした。
視界が暗くなると同時に、世界の輪郭が変わる。
しばらくして、蔵馬の指先が、ふわりと彼女の目元に触れた。
(何をするのかしら?)
次の瞬間、絹のように柔らかな布が、そっと目の周りを覆う。
世界から、光がさらに遠ざかる。
「……これで、見えない?」
「ええ」
視界を失うと、聞こえる音や空気の動きに敏感になる。
耳元をかすめる蔵馬の息づかい、衣擦れの音。
五感を通して、いつもより近くに、鮮明に存在を感じた。
これは気配を探るゲームだろうか。
そんな純粋な想像を、胸に抱く。
葵の様子を見つめながら、蔵馬は何も言わず、ほんの一瞬だけ間を置いた。
その沈黙自体が、すでにこの小さなゲームの一部であるかのように。
「……。」
キッチンに差し込む午後の光は、彼の内面とは対照的で穏やかだった。
蔵馬は一歩踏み出しかけて、思いとどまる。
(なるほど……。これは、なかなかだな)
自分で仕掛けた遊びだというのに、想像以上に理性を試されている。
目隠しをされた葵は、椅子に腰かけ、背筋を伸ばして座っていた。
疑うことなく、ただ静かに、次の指示を待っている。
その姿は、自分の腕の中で眠っているときよりも、ある意味で無防備だった。
―――こちらの方がたちが悪い。
信頼が前提として置かれているからこそ、逃げ場がない。
そして素直なこの人は、自分の内面の葛藤を知らない。
蔵馬は、無意識に小さく息を吐いた。
「……蔵馬?」
沈黙が続いたのを、不思議に思ったのだろう。
葵は目隠しの向こうで、彼の気配を探すように、すっと顔を向けた。
「……オレは今、葵から理性の試練を受けているんだ」
――試しているのは、自分の方なのに、これだ。
正面からする彼の声――語尾は柔らかいが、わずかに切なさを含んでいた。
「私は何も試してないわよ?」
即座に返ってきたのは、真っ直ぐな言葉だった。
「……うん、そうだね」
蔵馬は小さく笑う。
その清らかさが、余計に胸に響くことを、彼女は知らない。
彼は気を取り直すように背筋を正すと、説明を始めた。
「これから君の手のひらに、いろんなものを乗せる。それが何か、当てるゲームだ」
「わかったわ」
素直に返事をして、葵は右の手のひらを差し出す。
白い指先が、静かに中空に留まる。
最初に触れたのは、ひんやりと冷たい感触だった。
丸みがあり、手のひらの上でわずかに転がる。滑らかで、硬い楕円形のもの。
「まずはこれ、何だと思う?」
「……石のようなもの?」
「近いね。ヒントは、さっきご飯を食べた時にあったもの」
「箸置き?」
「正解」
くすっと蔵馬が微笑む音が、彼女の耳に聞こえた。
(思い付きで始めたが……予想通りだな)
次に置かれたものは、さらさらとした柔らかい感触だった。
指をそっと動かすと、細長く、ふわふわとしたものが絡まる。
同時に、清涼感のある穏やかな香りが鼻先をかすめた。
「これは……花?」
「うん、正解。ラベンダーだよ」
その後も、果物や小さな道具といった、人間界のありふれた品々が、順に彼女の手のひらを訪れた。
それは「当てるゲーム」というより、葵の反応を蔵馬が静かに味わう時間になっていた。
彼女は疑うことなく、ひとつひとつに意識を向け、真剣に答える。
そのあどけなさが、この男の例えようのない性格に拍車をかけるとも知らずに。
「それじゃあ……次が最後だよ」
「わかったわ」
葵は呼吸を整えて、手に意識を集中して待つ。
今度、手のひらに感じたのは——なにもない。
「……?」
不思議に思った、その刹那。
ふわり、と。
あたたかく、やわらかい感触が、そっと触れる。
湿り気を帯びた、呼吸の温度。
遅れて、理解が追いついた。
「……。」
手のひらに、優しく、口づけられている。
(さて……何と言うかな)
蔵馬は、そのまま口唇を離さず、瞳を上げた。
彼女を見つめる視線は、わずかに好戦的に光っている。
対して葵は、彼の思惑をものともせず、無垢な言葉で彼をいなすことになった。
そこには、反撃の意図も駆け引きも、決して無い。
「蔵馬。いつもと、する場所が違うわ」
その一言は、何気ない観察と指摘のようでいて、あまりにも正確だった。
「………。」
蔵馬は、すぐには言葉を返さなかった。
返せなかった、といったほうが近い。
今までの積み重ねから、彼女がどんな反応をするか、ある程度の予測はついていた。
少し首をかしげるか、素直に従うか、あるいは突飛な発言が飛んでくるか。
そうしたいくつもの可能性を、彼は無意識のうちに並べていた。
それなのに――。
(……ずるいよ、葵)
胸の奥に。大きなカウンターを食らう。
蔵馬は思わず口元に手を当て、小さく息を整えた。
自分が愛しているはずなのに。
気づけばこの人に、もっと深く惚れさせられている。
もう何度も降参しているけど、そのたびに心がほどけていく。
恋に落ちる、ではない。
――恋に、落ち続けるのだ。
そんな内面を、この人は知らない。
そして変わらず、素直に自分を待っている。
(……完敗だ)
蔵馬は、観念したようにふっと息を吐いた。
そっと手を伸ばし、目隠しの布に指をかける。
布が擦れる、かすかな音。
それと同時に、薄暗かった葵の世界に、やわらかな光が戻ってくる。
まぶたを少し動かし、ゆっくりと目を開いた。
見上げるその瞬間――。
先ほど、手のひらに触れたのと同じ温度が、今度は口唇に重なった。
蔵馬の柔らかい口唇が、確かめるように、優しく彼女を包む。
強くもなく、急ぎもせず。
ただ、そこに在ることを伝えるように。
蔵馬は、静かに彼女を抱き寄せた。
「……ここで、いい?」
ゆっくりと紡がれた吐息混じりの低い声が、葵の体に沁み込む。
熱を含みながらも、問いかけは柔らかい。
「ええ」
葵は、花が開くようにふわっと微笑んだ。
その表情は、また彼を落としていく。
(結局、オレは……君に)
それ以上言葉にはしなかった。
しかし彼女を見つめる目が、すべてを語っていた。
蔵馬は彼女にしか向けない微笑みを送り、もう一度、そっと彼女を抱きしめた。