アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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第81話

人間界での穏やかな休日。

弟の秀一は朝から部活へ出かけ、父と母は揃って外出している。

 

「たまには、二人で出かけてきたらどう?」

 

そうやんわりと父母を促すことに成功した蔵馬は、思惑通り、葵との二人の時間を過ごしていた。

 

「コーヒー淹れるけど、飲む?」

 

何気ない調子で問いかけると、ソファに座っていた葵が顔を上げる。

 

「いただくわ」

 

返ってきた言葉に、蔵馬は軽く返事をして立ち上がった。

キッチンへ向かう途中に、背後に感じる小さな足音。

振り返らずとも、そこに彼女がいるとわかった。

 

「どうやって淹れるの?」

 

肩越しに、すっと覗き込む声。

距離の取り方を気にしない無防備さに、蔵馬は一瞬だけ手を止める。

 

「……見てるといいよ」

 

そう言って、彼は湯を沸かし始めた。

葵は本当に「観る」ことに集中しているらしく、彼の指先、ケトルの傾き、湯気の立ち上がりを、興味深そうな眼差しで追っている。

 

吐息がかかるほど近いのに、彼女自身はまったく意識していない。

この距離感が、蔵馬の胸の奥の琴線に触れる。

 

(なんだろうな……)

 

――妹がいたら、こんなふうに後ろをついて来るんだろう。

葵は時に妹のようにあどけなく、時に姉のように落ち着き、時には母のように無条件に包み込む。

それでいて、確かに――愛する人として、こちらを見ている。

 

彼女の中で、自分は一貫して「蔵馬」なのに。

こちらの心が、追いつかなくなることがある。

 

もちろん葵自身は変わらない。

しかし、見せる顔が変わる。いや、変わるのは、己の受け取り方だ。

そのたびに、また何かが新たに動く。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「……いい匂いね」

 

ぽつりと漏れた声に、蔵馬は我に返った。

コーヒーの香りが部屋に広がり、葵は自然と目を細める。

花が、光を受けて開く瞬間のようだった。

 

「葵は、こういうところが本当に素直だね」

 

「まだ経験値が少ないから、色々と興味があるの」

 

「……もう少し、道具を使うのに慣れるといいね」

 

くすりと思い出しながら言う蔵馬に、葵も微笑み返す。

 

「これでも、努力しているのよ?」

 

「例えば?」

 

「指を切らずに、千切りができるようになったわ」

 

一瞬、蔵馬の動きが止まる。

 

「……練習してたの?」

 

「ええ。一度、お母さんを驚かせてしまったんだけど、だいぶ慣れてきたわよ」

 

その言い方が、かえって想像力を刺激する。

流し台で淡々と指を押さえる葵と、血相を変えた母が駆け寄る光景を。

母から何も聞かされてないことから、出血はそう多くないだろう。

 

「………そうか」

 

短く応じながら、胸の奥で何かがほどけていく。

葵が人間界に興味を持ち、ここでの暮らしに少しずつ触れている。

器用とは言えない彼女の一挙手一投足に、自然と反応してしまう。

――理屈では、説明できない。

 

出来上がったコーヒーをマグカップに注ぎ、彼は振り返る。

葵の前に差し出すと、自然と表情が緩んだ。

 

「オレの知らないところで、料理の練習をしてたんだね」

 

「お母さんが誘ってくれたの。あまり筋がいい方じゃないことは、ちゃんと伝えたわよ」

 

(……なるほど)

 

彼女が積極的に料理を習いたいと言い出す姿は、想像できなかった。

母のほうが、そっと手を引いたようだ。

同じ台所に立ち、同じ時間を過ごす二人の姿が、蔵馬の脳裏に浮かぶ。

 

「そのうち、作ってくれるの?」

 

軽い冗談のつもりだった。

いつもと変わらない穏やかな声色で、何気なく投げた言葉。

そこに葵は、何のてらいもなく、あっさりと衝撃的な言葉を返してきた。

 

「もう作って、食べてるはずよ」

 

「……え?」

 

予想外の方向から言葉の矢が返ってきて、蔵馬は一瞬止まった。

そしてフリーズをすぐに解除すると、疑問に思ったことが次々と出てきた。

 

「……いつの話?」

 

彼の記憶の中で、葵が作ったものを食べたのは、バナナのパウンドケーキだけ。

 

「ええと……。何度か作ったんだけど、最近では先週の金曜日。夕食の副菜ね」

 

金曜日。

脳裏に、母の声がよみがえる。

 

――今日は彩りがいいでしょう?

あの時、確かにそう言って、笑っていた。

 

蔵馬は内心で息を吐く。

言わないのは葵らしい。

そして母も母で、自分の近くで黙って、内心では微笑ましく思っているのを考えると、複雑な胸中になった。

 

蔵馬はコーヒーを一口含み、ゆっくりと飲み下す。

いつもより、ほろ苦く、繊細な味がした。

 

「……今度、作ったら教えてね」

 

「わかったわ。……蔵馬、どうしたの?」

 

彼は顎に手を添えて、少し考え込むような表情をしていた。

葵や母が言わなかったことよりも、何度もその料理を口にしながら、気づかなかった自分自身に、妙な感情が芽生えていた。

 

面白くもあるが、もどかしくもある。

そして、正直に言えば――少し悔しい。

 

 

蔵馬は、まっすぐに葵を見つめた。

 

「次は……一緒に食べたいんだ」

 

マグカップに口をつけようとしていた葵の動きが、ぴたりと止まる。

彼女はしばらく考えて、ふわっと花が綻ぶように笑った。

 

その反応を見て、蔵馬の中にかすかな満足感と、別の感情が立ち上がる。

 

――やられっぱなしは、性に合わない。

そう思った彼は、自然な流れで次の一手を思いついた。

 

「そういえば……だいぶ、道具を使えるようになったって言ってたね?」

 

声音がわずかに弾む。

この切り返しの速さが、この男らしい。

 

「ええ。前よりは、良くなってると思うわ」

 

「それなら、簡単なゲームで試してみないか?」

 

「ゲーム?」

 

「うん。すごく簡単だから」

 

葵はカップをテーブルに置く。

直感で目の前の男の何かしらの思惑を感じつつも、少し考えてから頷いた。

 

「いいわよ」

 

「それじゃあ……葵。目を閉じて?」

 

突然の提案に、彼女は瞬きをした。

誰に対しても素直な葵だが、相手が蔵馬となると、わずかに警戒が混じる。

愛あるいたずらの前科が多い。

無意識に、彼女は尋ねた。

 

「……どうして?」

 

「楽しくするため、かな?」

 

ふっと笑う気配を含んだ声。

葵は少し戸惑いながらも、ゆっくりと瞼を下ろした。

 

視界が暗くなると同時に、世界の輪郭が変わる。

しばらくして、蔵馬の指先が、ふわりと彼女の目元に触れた。

 

(何をするのかしら?)

 

次の瞬間、絹のように柔らかな布が、そっと目の周りを覆う。

世界から、光がさらに遠ざかる。

 

「……これで、見えない?」

 

「ええ」

 

視界を失うと、聞こえる音や空気の動きに敏感になる。

耳元をかすめる蔵馬の息づかい、衣擦れの音。

五感を通して、いつもより近くに、鮮明に存在を感じた。

 

これは気配を探るゲームだろうか。

そんな純粋な想像を、胸に抱く。

葵の様子を見つめながら、蔵馬は何も言わず、ほんの一瞬だけ間を置いた。

その沈黙自体が、すでにこの小さなゲームの一部であるかのように。

 

「……。」

 

キッチンに差し込む午後の光は、彼の内面とは対照的で穏やかだった。

蔵馬は一歩踏み出しかけて、思いとどまる。

 

(なるほど……。これは、なかなかだな)

 

自分で仕掛けた遊びだというのに、想像以上に理性を試されている。

目隠しをされた葵は、椅子に腰かけ、背筋を伸ばして座っていた。

疑うことなく、ただ静かに、次の指示を待っている。

 

その姿は、自分の腕の中で眠っているときよりも、ある意味で無防備だった。

―――こちらの方がたちが悪い。

信頼が前提として置かれているからこそ、逃げ場がない。

そして素直なこの人は、自分の内面の葛藤を知らない。

 

蔵馬は、無意識に小さく息を吐いた。

 

「……蔵馬?」

 

沈黙が続いたのを、不思議に思ったのだろう。

葵は目隠しの向こうで、彼の気配を探すように、すっと顔を向けた。

 

「……オレは今、葵から理性の試練を受けているんだ」

 

――試しているのは、自分の方なのに、これだ。

 

正面からする彼の声――語尾は柔らかいが、わずかに切なさを含んでいた。

 

「私は何も試してないわよ?」

 

即座に返ってきたのは、真っ直ぐな言葉だった。

 

「……うん、そうだね」

 

蔵馬は小さく笑う。

その清らかさが、余計に胸に響くことを、彼女は知らない。

彼は気を取り直すように背筋を正すと、説明を始めた。

 

「これから君の手のひらに、いろんなものを乗せる。それが何か、当てるゲームだ」

 

「わかったわ」

 

素直に返事をして、葵は右の手のひらを差し出す。

白い指先が、静かに中空に留まる。

 

最初に触れたのは、ひんやりと冷たい感触だった。

丸みがあり、手のひらの上でわずかに転がる。滑らかで、硬い楕円形のもの。

 

「まずはこれ、何だと思う?」

 

「……石のようなもの?」

 

「近いね。ヒントは、さっきご飯を食べた時にあったもの」

 

「箸置き?」

 

「正解」

 

くすっと蔵馬が微笑む音が、彼女の耳に聞こえた。

 

(思い付きで始めたが……予想通りだな)

 

次に置かれたものは、さらさらとした柔らかい感触だった。

指をそっと動かすと、細長く、ふわふわとしたものが絡まる。

同時に、清涼感のある穏やかな香りが鼻先をかすめた。

 

「これは……花?」

 

「うん、正解。ラベンダーだよ」

 

その後も、果物や小さな道具といった、人間界のありふれた品々が、順に彼女の手のひらを訪れた。

それは「当てるゲーム」というより、葵の反応を蔵馬が静かに味わう時間になっていた。

 

彼女は疑うことなく、ひとつひとつに意識を向け、真剣に答える。

そのあどけなさが、この男の例えようのない性格に拍車をかけるとも知らずに。

 

「それじゃあ……次が最後だよ」

 

「わかったわ」

 

葵は呼吸を整えて、手に意識を集中して待つ。

今度、手のひらに感じたのは——なにもない。

 

「……?」

 

不思議に思った、その刹那。

ふわり、と。

あたたかく、やわらかい感触が、そっと触れる。

 

湿り気を帯びた、呼吸の温度。

遅れて、理解が追いついた。

 

「……。」

 

手のひらに、優しく、口づけられている。

 

(さて……何と言うかな)

 

蔵馬は、そのまま口唇を離さず、瞳を上げた。

彼女を見つめる視線は、わずかに好戦的に光っている。

 

 

対して葵は、彼の思惑をものともせず、無垢な言葉で彼をいなすことになった。

そこには、反撃の意図も駆け引きも、決して無い。

 

 

「蔵馬。いつもと、する場所が違うわ」

 

その一言は、何気ない観察と指摘のようでいて、あまりにも正確だった。

 

「………。」

 

蔵馬は、すぐには言葉を返さなかった。

返せなかった、といったほうが近い。

 

今までの積み重ねから、彼女がどんな反応をするか、ある程度の予測はついていた。

少し首をかしげるか、素直に従うか、あるいは突飛な発言が飛んでくるか。

そうしたいくつもの可能性を、彼は無意識のうちに並べていた。

 

それなのに――。

 

(……ずるいよ、葵)

 

胸の奥に。大きなカウンターを食らう。

蔵馬は思わず口元に手を当て、小さく息を整えた。

 

自分が愛しているはずなのに。

気づけばこの人に、もっと深く惚れさせられている。

もう何度も降参しているけど、そのたびに心がほどけていく。

 

恋に落ちる、ではない。

――恋に、落ち続けるのだ。

 

そんな内面を、この人は知らない。

そして変わらず、素直に自分を待っている。

 

(……完敗だ)

 

蔵馬は、観念したようにふっと息を吐いた。

そっと手を伸ばし、目隠しの布に指をかける。

布が擦れる、かすかな音。

 

それと同時に、薄暗かった葵の世界に、やわらかな光が戻ってくる。

まぶたを少し動かし、ゆっくりと目を開いた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

見上げるその瞬間――。

先ほど、手のひらに触れたのと同じ温度が、今度は口唇に重なった。

蔵馬の柔らかい口唇が、確かめるように、優しく彼女を包む。

 

強くもなく、急ぎもせず。

ただ、そこに在ることを伝えるように。

蔵馬は、静かに彼女を抱き寄せた。

 

 

「……ここで、いい?」

 

ゆっくりと紡がれた吐息混じりの低い声が、葵の体に沁み込む。

熱を含みながらも、問いかけは柔らかい。

 

「ええ」

 

葵は、花が開くようにふわっと微笑んだ。

その表情は、また彼を落としていく。

 

(結局、オレは……君に)

 

それ以上言葉にはしなかった。

しかし彼女を見つめる目が、すべてを語っていた。

 

蔵馬は彼女にしか向けない微笑みを送り、もう一度、そっと彼女を抱きしめた。

 

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