アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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黒の章 ――蔵馬と葵

 

7月某日、人間界にて。

 

「蔵馬は、黒の章を知ってるわよね?」

 

静かな問いだった。

良質なコーヒーの香りがする空間の中で、葵の声がすっと輪郭を持って浮かび上がる。

蔵馬はカップをテーブルに置き、わずかに視線を上げた。

 

「知ってるよ。それがどうかしたの?」

 

問い返しは穏やかだったが、声の奥がほんの少し引き締まる。

一年前の戦いが思い出された。

彼女と縁遠いものの名前を、今ここで聞くとは思わなかった。

 

「今、魔界で指折りのニュースなの」

 

 

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彼女はカップを両手で包み込みながら、視線を落とす。

よろず屋・赤星のもとに集まる噂話――黒の章が、密かにオークションにかけられているという話。

霊界の極秘記録という付加価値が値をつり上げ、法外に上映会を開催していると語る者もいる。

 

そんなある日、オークションにかけられる予定の黒の章が盗まれたそうだ。

 

「もともとは、霊界にあったものよね」

 

蔵馬は、ほんの一瞬だけ視線を横に流した。

考える、というより、記憶の棚を静かに撫でるような間だった。

 

「黒の章は……人間界と魔界との境界トンネルの発端となったものなんだ」

 

「そうだったのね」

 

境界トンネルの戦い後、蔵馬は彼の知人が黒の章を手にしていたのを知っていた。

霊界が血眼になって探したが、消息はわからなくなっていた。

それが密かに魔界で広がっていた。

 

 

「葵は、黒の章に興味はある?」

 

問いながら、答えはある程度予想していた。それでも、彼女自身の言葉で聞きたかった。

 

黒の章は、人間の影の部分を示した犯罪録。

今まで人間が行ってきた罪の中でも最も残酷で、非道なものが何万時間という量で記録されている。あまりにも内容が過激のため、霊界の中でも一部の者しかみることができないという極秘のビデオテープだった。

 

葵は少し間を置いた。考えている節はない。

自由な感性が、何かを感じ取っているようだった。

 

「内容は想像がつくから、見たいとは思わないわ」

 

それから、視線を蔵馬に戻す。

 

「ただ、どうしてそれがこの世に存在しているのか、少し気になるわ」

 

蔵馬の口元が、わずかに緩んだ。

 

「……君らしいな」

 

「あなたは、黒の章についてどう思う?」

 

真正面からの問い。

彼は背もたれに身を預け、一瞬目を伏せてから答えた。

 

「黒の章に収められているのは、あくまで人間の一面に過ぎない。もし人間というものが残酷で非道という側面のみをもった生き物だったら、オレはとっくに人間をやめていた」

 

その言葉には、経験がにじみでていた。

妖怪として長く人間を観察し、そして南野秀一として、人間の中で生きてきた者の実感。

酸いも甘いもわかったうえで、人間として、今生きている。

 

「……あなただからこその言葉ね。心に響くわ」

 

葵は軽く目を伏せた。

妖怪も人間も、霊界のものも、気質そのものは大きく違わない。

人間界をこの目でみてきて、尚且つ蔵馬を通して人間を知り、葵が感じてきたことだった。

 

蔵馬は彼女に視線を戻して、問いかけた。

 

「君は、黒の章がこの世に存在した理由について、どう思う?」

 

葵は彼を見上げた。

カフェの奥で、食器が触れ合う音が遠くに聞こえる。

 

「……忘れないため、かしら」

 

「忘れないため?」

 

「ええ」

 

彼女は静かに続ける。

 

「加害者も被害者も、傍観者も含めて……その事実があったことを忘れないためだと感じるわ」

 

「戒め、ということか?」

 

「それもあるけど……それ以上に、消さないためだと思う」

 

蔵馬は、彼女を見たまま動かなかった。

戒めではなく、善悪の判断を超えた「記録」として捉える感性。

彼女の言葉は、蔵馬の知的好奇心を、静かに満たしていく。

 

「……深いところを観ているね」

 

ふっと彼は息をついた。

手元にあるコーヒーの水面に、花髪の人が映っている。

 

「君と話すと、考えさせられる」

 

「カフェで、人間界の高校生が話す内容じゃないかもしれないけど」

 

「そうだね」

 

二人は視線を合わせ、くすりと笑った。

 

時々利用するカフェ&ダイニング北欧館。

人間の耳には届かないほどの小さな声で、彼らは世界の闇を語っている。

 

 

このとき以降、黒の章が魔界で売買されることは無くなった。

その消息は、結局わからないまま。

やがて噂も薄れ、世界の記憶の奥へと沈んでいった。

 

 

 

 

カフェの柔らかな照明が、木のテーブルの縁を淡く縁取っていた。

午後の喧騒がひと段落した時間帯で、軽く流れる音楽が流れている。

 

「そうだ。葵、手を見せて」

 

コーヒーカップを口に運ぼうとしていた葵は、蔵馬の唐突な言葉に動きをとめた。

数度瞬きをする。

 

「手?」

 

「うん。ちょっとね」

 

彼は優雅な所作で身を乗り出す。

その動きはさりげないため、葵も深く考えずにカップをソーサーへ戻した。

 

「どうぞ」

 

差し出された両手を、蔵馬は受け取る。

指先が触れた瞬間、ほんのわずかに自分の呼吸が変わるのを、感じ取っていた。

彼女の手をそっと裏返し、手のひらを眺める。

白く、やわらかな皮膚。思ったよりも温かい。やはり戦いの場に立つ手には見えない。

その皮膚には、彼女が歩んできた短くも濃い年月が刻まれている。

 

 

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「何をするの?」

 

「手相を見てあげるよ」

 

そう言ってから、蔵馬は少し間を置いた。

これを口実にするのが、いま触れている理由として一番都合がいい。

 

「あなた、手相もできるのね。器用ね」

 

「少しだけね。君が前に、占断でみてくれたお礼だよ」

 

それは霊界で葵が負傷して、眠る前に話した時のことだった。

遠いようで、指先にはまだ残っている記憶だった。

 

蔵馬の人差し指と中指が揃い、彼女の手のひらをなぞる。

生命線を辿る動きは慎重で、壊れやすいものを扱うかのようだった。

 

「君の生命線は……長いね」

 

穏やかな声が落ちる。

 

「無理がない。ちゃんと、君のリズムで続いてる」

 

そう言いながら、彼女の反応をそっと観察する。

 

「そう?」

 

葵は首を傾げる。仕草には、疑いよりも純粋な興味が浮かんでいる。

彼の指は、感情線へと移る。

なぞる速度が、わずかに緩む。

 

彼女がふと笑う瞬間、あるいは少し困惑する眼差しを向けてくるとき。

自分の中にあった静かな水面がわずかに揺れ、それが面白いのだ。

触れ合いの中で生まれる微かな変化を、彼は今、純粋に味わっている。

 

「うん。感情線は……素直だね。曲がってない」

 

「曲がってると、素直じゃないのかしら?」

 

問いかける視線が、まっすぐ彼の瞳に向かう。

蔵馬は一瞬だけ視線を上げ、それから自分の手を差し出した。

 

「オレのは、ほら」

 

左手で触れている彼女の手はそのままで――二つの手のひらが並ぶ。

彼女よりも二回り以上大きな手に、複雑に分かれた線。

 

「途中で迷って、分岐してる。どうやら、扱いづらいらしい」

 

「ええ……それは、よくわかるわ」

 

葵の小さな笑みがこぼれる。

その反応に、蔵馬の目がわずかに細まった。

 

「葵の場合は……」

 

彼は再び、彼女の手に視線を落とす。

 

「指も、整ってる。触わり心地がいい」

 

ほとんど独り言のように、それは呟かれた。

言葉に甘さはなく、ただ事実を述べているだけの響きだった。

指の付け根を押される感触に、葵はちらっと彼を見つめた。

 

「……蔵馬。それ、診断と関係あるのかしら?」

 

「ん?あるよ」

 

彼は即答する。

 

「感触も、情報だから」

 

まるで実験装置を扱う科学者のように、彼は葵の手のひらを軽く押し上げ、指を曲げ、関節の柔らかさや反応を確かめる。

これも彼流の遊び心の発露だった。

 

「……あなた、本当に楽しそうね」

 

半分苦笑に近い微笑みだった。

 

「うん。わかる?」

 

蔵馬は、指を絡めたまま、ほんの少しだけ距離を詰める。

そのまま、彼女の指先を自分の頬に軽く当てた。

 

「こうした時間が、気に入ってるんだ」

 

柔らかく微笑み、涼しい声で言われると、何でも許してしまうような魅力がある。

葵はそれ以上何も言わず、ただ自分の手が蔵馬の手のひらの中にあることを感じていた。

 

沈黙で成り立つ会話。

カップの中のコーヒーが冷めていく音なき時間が、静かに流れていた。

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

おまけ♢

 

8月某日の霊界にて。

重厚な執務机の前に腰掛けたコエンマは、ふうっと短く息を吐いた。

机の上には、分厚い報告書が数冊、几帳面に揃えられている。

 

「……まったく」

 

小さく呟き、視線を上げる。

正面に立つ男は、いつもと変わらぬ佇まいだった。

背筋は自然に伸び、表情は柔らかいが、余計な感情は読み取れない。

長い癖のある髪が肩口に静かに落ち、霊界の硬質な空気の中でも、彼だけはどこか別の気配をまとっている。

 

「お前にも、借りが増えるばかりだな。蔵馬」

 

その言葉に、彼は小さく口元を緩めた。

反論も謙遜もなく、ただ穏やかに。

 

「結果的に、そうなっただけですよ」

 

蔵馬は、魔界で起きた国家解散の経緯と、その後の魔界統一トーナメントについて簡潔に説明した。

幽助の武勇伝と、それに振り回されながらも収束していった流れを、必要最低限の情報だけに削ぎ落とし、淡々と。

 

そして話題は、別件へと移る。

コエンマが直々に依頼した、極秘案件。

表に出すことも、記録として残すことも許されない処理について、蔵馬は事実だけを述べた。

 

コエンマは相槌を打ち、ふうっと大きなため息をついた。

 

「いずれ、何か望みがあれば言うといい」

 

視線を上げ、蔵馬を見据える。

 

「お前ほどの経歴なら、金にも力にも困っていないのは分かっている。それでも、霊界として返せるものはあるはずだ。さすがに、妖狐蔵馬の犯罪歴を消せと言われれば、考えるがな」

 

冗談めかした口調だったが、その目は真剣だった。

 

「それは望みませんよ」

 

はっきりと迷いなく、中性的な声が響く。

 

「いずれお願いすることがあれば、その時に返してください」

 

条件も、理由も付け加えない。

まるで、その「いつか」が、すでに自分の中で決まっているかのような言い方だった。

コエンマは、短く息を吐いた。

 

「……相変わらずだな」

 

蔵馬は踵を返し、静かに執務室を後にした。

扉が閉まる音は、なかった。

 

 

「伝説の極悪盗賊、妖狐蔵馬か……」

 

人間界にも、霊界にも、本来なら脅威となる存在。

その男が、今は普通の高校生として、人間界で穏やかに暮らしているとは。

コエンマは苦笑した。

 

「……時代は、変わっていくものだな」

 




次のお話で、長い長い13章終了です。
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