アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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久しぶりに、あのお方に登場していただきます。



第83話

9月某日、魔界統一トーナメント当日。

低く唸るような雷鳴が、遠くで何度も空を割っていた。

控室の天井に走る微かな振動を感じながら、蔵馬はひとり、窓際に立っていた。

 

外ではすでに多くの妖気が衝突し、渦を巻いている。

それらを隔てるように、この部屋は不自然なほど静かだった。

 

厚い曇天に視線を向けたまま、呼吸を整える。

長く生きてきた。

選択を誤らなかったとは言い切れない。だが、それでも――

 

(……よく、ここまで来たものだ)

 

この手で選び、進んできた道。

それでも、今この場所に立っているのは、決して己一人の力ではない。

思い浮かぶ顔はいくつもあったが、その中で、自然と最後に残るものがあった。

 

その時だった。

扉の向こう――間違えるはずのない気配が、空気をわずかに揺らす。

足音は控えめで、しかし迷いがない。

近づくにつれ、ほのかに、甘くやわらかな香りの濃度が上がる。

 

蔵馬の体は、思考より先に反応していた。

静寂を破るように、扉が開く。

 

「蔵馬」

 

潤いのある声に、彼は振り向いた。控室の入り口の前に、葵が立っていた。

 

 

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「葵……。来ていたのか」

 

驚きを含みながらも、声は自然と柔らかくなる。

 

「ええ」

 

彼女は扉を閉めると、ゆっくりと歩み寄ってきた。

――同じ魔界で、同じ時に、同じ場所に存在している。

彼の呼吸が、静かに深くなっていく。

 

「試合、見ていくのか?」

 

「いいえ」

 

即答だった。彼は苦笑しながら頷いた。

 

「……そう言うと思ったよ」

 

葵はふっと笑った。風に揺れる花のような、淡く、しかし芯のある表情。

 

(あなたの生き様を、ここで見届けたい気持ちはあるけど……)

 

ほんの数秒、彼女は視線を伏せ、それからまっすぐに彼を見る。

星を宿したような瞳が、かすかに揺れる。

 

「見ると……きっと、ルールを無視して、あなたに加勢してしまいそうだから」

 

冗談めかした調子ではなかった。

淡々とした声の奥に、迷いのない意志があった。

 

(……君が、そう言うのか)

 

意外さと同時に、胸の奥が静かに満たされる。

理由を問う必要はなかった。その言葉だけで、十分だった。

 

葵が一歩、距離を詰める。

さらにもう一歩。

戦いの場に似つかわしくない、穏やかで柔らかい彼女の妖気が、蔵馬の皮膚を撫でた。

彼の前に立ち、確かめるように視線を合わせると、そっと腕を伸ばす。

 

「蔵馬」

 

名を呼ぶと同時に、彼女は静かに蔵馬を抱きしめた。

音もなく、温かな腕が彼の背に回る。

少し甘く、どこか懐かしい、乳香にも似た酔芙蓉の香り。

胸のもっと奥深くに触れるような感覚に、彼は一瞬、呼吸を忘れた。

 

「……お守りよ」

 

それだけ告げて、葵は何も言わない。

 

蔵馬もまた、言葉を探さず、そっと腕を回した。

目を閉じると、背中越しに、葵の気が流れ込んでくる。

花がゆっくりと開くような、繊細で穏やかな流れ。

彼女が指で印を結んでいるのが、触れずとも分かった。

 

「ありがとう、葵」

 

無意識に発した声。

別れの言葉でも、確かな約束でもない――その意図を彼女に預ける。

 

やがて、腕がほどかれる。

二人の間に、わずかな距離が戻る。

 

淡い感情を残しながらも、心までは離れない。

葵は、ふわっと花が綻ぶように微笑んだ。

 

「終わったら、人間界で会いましょう」

 

「……ああ。必ず行くよ」

 

 

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一礼するように軽く頭を下げると、彼女は静かに控室を後にした。

その足音が耳から消えるまで、蔵馬はしばらくその場を動かなかった。

 

やがて彼は、部屋の片隅に置かれた通信端末を手に取る。

押し慣れた番号を呼び出すと、耳に当てて、ひとつ深呼吸した。

 

「……あ、母さん。元気でやってる?」

 

戦いの前。

彼は自分が守りたい場所すべてに、静かに手を伸ばしていた。

今の蔵馬で、この先も生きていくために。

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

控室を出ると、葵はそのまま足を止めることなく、静かに歩き出した。

通路に満ちる空気は、戦いの場特有の濃度を帯びている。

幾重にも折り重なった妖気が、見えない膜のように壁や天井に張りつき、耳鳴りにも似た圧を生んでいた。

 

それでも、彼女の歩調は乱れない。

足音は軽く、床に触れては消え、風と共に通り抜けていく。

 

すれ違う数人の妖怪たちが、自然と彼女に視線を向ける。

透き通るような容貌。この場にそぐわないほど穏やかな気配。

そして、どこか輪郭の定まらない存在感。

 

 

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好奇や警戒の視線が向けられても、葵はそれを受け止めず、拒まず。

ただ柔らかな笑みを浮かべて、そっと視線を外す。

それだけで、妖怪たちは彼女を追う理由を失った。

 

 

会場の出口に近い、人気の少ない屋外通路。

遠くの喧騒がさらに薄れていき、彼女の視線の先には森が見える。

 

そのとき、葵はふっと足を止めた。

正面の空気が、わずかに張り詰めたのを感じ取った。

 

 

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「……お前が、葵か」

 

ゆっくりと深い低音が通路に落ちる。

反響もしない重みを伴って。

 

出口付近に突然、一人の男が立っていた。

長い黒髪を背に流し、閉じた瞼。

三つずつ並んだ両耳が、微かな気配すら逃すまいと、この場の環境すべてを捉えている。

 

その身から放たれる妖気は、鋭さよりも密度を感じさせた。

長く頂点に立っていた者の、静かな圧。

 

――待っていた。

その事実は、言葉にされなくとも明らかだった。

 

「ええ」

 

葵は短く答え、視線をまっすぐ向ける。

怯えも、探りもない。

 

「挨拶が遅れた。オレは黄泉。かつて癌陀羅を治めていた者だといえば、分かるだろう」

 

その名に、葵は小さく頷いた。

魔界に住むもので、その名を知らないものは恐らくいない。

 

黄泉は一歩、また一歩と距離を詰める。

光を失って耳と鼻が効く彼は、彼女の香りをすぐ嗅ぎ分けた。

 

(花の香り……これは、魔界の酔芙蓉か。どこか、心が和らぐ)

 

彼女の雰囲気に、彼の中の記憶の扉がそっと開いた。

遠い昔に感じた、安らぎと微かな痛み。それが、今この瞬間に重なっていく。

 

(なるほどな)

 

黄泉の中で、点と点が静かに繋がる。

 

 

(あの蔵馬が、心底守り抜いて大切にするのは、この女の持つ空気なのか……)

 

彼は足を止め、正面から言葉を向けた。

 

「国難の折、蔵馬の策の手助けをしてくれたこと、礼を言う」

 

「こちらこそ、ご丁寧にありがとう」

 

葵は、真っ直ぐに黄泉の言葉を受け止めた。

気圧されることもなく、無駄にへりくだることもない。

 

黄泉は、彼女の気配を測り続ける。

体温、脈、呼吸、妖気――どれも揺らぎがなく、静かに一定だ。

 

(……肝の据わった女だ)

 

「蔵馬が、ひた隠しにするほど守る存在が、どんなものか。それを確かめたかっただけだ」

 

黄泉の脳裏にある、かつての蔵馬と今の蔵馬がようやく混ざっていく。

自分が浦飯幽助と出会い変わったように、彼もまた同じだと腑に落ちる。

 

「もう、こちらから関わることはない。お前を見て、今の蔵馬がよくわかった」

 

「……私も、あなたに会えて良かった」

 

葵と黄泉は、互いに過剰な詮索もせず、踏み込みすぎることもない。

立ち位置を尊重する沈黙が続く。

 

黄泉はゆっくりと通路を歩き出す。会場に――彼女に向かって。

すれ違う瞬間、彼の鼻腔に、ふわりと花の香気が強くなった。

 

その刹那――

視えないはずの瞼の裏に、ぼんやりと柔らかな姿が映る。

淡い髪、凛とした眼差し、そして、触れれば消えてしまいそうな、掴みどころのない存在。

 

(……一瞬、見えたように感じたが。オレの錯覚か)

 

思わず立ち止まり、振り返る。

 

そこに、葵の姿はもうなかった。

通路には、淡い香りだけが、余韻のように残されている。

 

黄泉はその場にしばし立ち尽くし、ふっと息を吐いた。

その掴みどころのない存在は、彼の知っている者とよく似ていた。

 

彼は何も言わず、再び歩き出した。

戦いの喧騒が、ゆっくりと戻ってくる。

 




これで13章終了です。14章では短編を挟みつつ、本編が進行していきます。
今後ともアカシヤをよろしくお願いします。
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