9月某日、魔界統一トーナメント当日。
低く唸るような雷鳴が、遠くで何度も空を割っていた。
控室の天井に走る微かな振動を感じながら、蔵馬はひとり、窓際に立っていた。
外ではすでに多くの妖気が衝突し、渦を巻いている。
それらを隔てるように、この部屋は不自然なほど静かだった。
厚い曇天に視線を向けたまま、呼吸を整える。
長く生きてきた。
選択を誤らなかったとは言い切れない。だが、それでも――
(……よく、ここまで来たものだ)
この手で選び、進んできた道。
それでも、今この場所に立っているのは、決して己一人の力ではない。
思い浮かぶ顔はいくつもあったが、その中で、自然と最後に残るものがあった。
その時だった。
扉の向こう――間違えるはずのない気配が、空気をわずかに揺らす。
足音は控えめで、しかし迷いがない。
近づくにつれ、ほのかに、甘くやわらかな香りの濃度が上がる。
蔵馬の体は、思考より先に反応していた。
静寂を破るように、扉が開く。
「蔵馬」
潤いのある声に、彼は振り向いた。控室の入り口の前に、葵が立っていた。
「葵……。来ていたのか」
驚きを含みながらも、声は自然と柔らかくなる。
「ええ」
彼女は扉を閉めると、ゆっくりと歩み寄ってきた。
――同じ魔界で、同じ時に、同じ場所に存在している。
彼の呼吸が、静かに深くなっていく。
「試合、見ていくのか?」
「いいえ」
即答だった。彼は苦笑しながら頷いた。
「……そう言うと思ったよ」
葵はふっと笑った。風に揺れる花のような、淡く、しかし芯のある表情。
(あなたの生き様を、ここで見届けたい気持ちはあるけど……)
ほんの数秒、彼女は視線を伏せ、それからまっすぐに彼を見る。
星を宿したような瞳が、かすかに揺れる。
「見ると……きっと、ルールを無視して、あなたに加勢してしまいそうだから」
冗談めかした調子ではなかった。
淡々とした声の奥に、迷いのない意志があった。
(……君が、そう言うのか)
意外さと同時に、胸の奥が静かに満たされる。
理由を問う必要はなかった。その言葉だけで、十分だった。
葵が一歩、距離を詰める。
さらにもう一歩。
戦いの場に似つかわしくない、穏やかで柔らかい彼女の妖気が、蔵馬の皮膚を撫でた。
彼の前に立ち、確かめるように視線を合わせると、そっと腕を伸ばす。
「蔵馬」
名を呼ぶと同時に、彼女は静かに蔵馬を抱きしめた。
音もなく、温かな腕が彼の背に回る。
少し甘く、どこか懐かしい、乳香にも似た酔芙蓉の香り。
胸のもっと奥深くに触れるような感覚に、彼は一瞬、呼吸を忘れた。
「……お守りよ」
それだけ告げて、葵は何も言わない。
蔵馬もまた、言葉を探さず、そっと腕を回した。
目を閉じると、背中越しに、葵の気が流れ込んでくる。
花がゆっくりと開くような、繊細で穏やかな流れ。
彼女が指で印を結んでいるのが、触れずとも分かった。
「ありがとう、葵」
無意識に発した声。
別れの言葉でも、確かな約束でもない――その意図を彼女に預ける。
やがて、腕がほどかれる。
二人の間に、わずかな距離が戻る。
淡い感情を残しながらも、心までは離れない。
葵は、ふわっと花が綻ぶように微笑んだ。
「終わったら、人間界で会いましょう」
「……ああ。必ず行くよ」
一礼するように軽く頭を下げると、彼女は静かに控室を後にした。
その足音が耳から消えるまで、蔵馬はしばらくその場を動かなかった。
やがて彼は、部屋の片隅に置かれた通信端末を手に取る。
押し慣れた番号を呼び出すと、耳に当てて、ひとつ深呼吸した。
「……あ、母さん。元気でやってる?」
戦いの前。
彼は自分が守りたい場所すべてに、静かに手を伸ばしていた。
今の蔵馬で、この先も生きていくために。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
控室を出ると、葵はそのまま足を止めることなく、静かに歩き出した。
通路に満ちる空気は、戦いの場特有の濃度を帯びている。
幾重にも折り重なった妖気が、見えない膜のように壁や天井に張りつき、耳鳴りにも似た圧を生んでいた。
それでも、彼女の歩調は乱れない。
足音は軽く、床に触れては消え、風と共に通り抜けていく。
すれ違う数人の妖怪たちが、自然と彼女に視線を向ける。
透き通るような容貌。この場にそぐわないほど穏やかな気配。
そして、どこか輪郭の定まらない存在感。
好奇や警戒の視線が向けられても、葵はそれを受け止めず、拒まず。
ただ柔らかな笑みを浮かべて、そっと視線を外す。
それだけで、妖怪たちは彼女を追う理由を失った。
会場の出口に近い、人気の少ない屋外通路。
遠くの喧騒がさらに薄れていき、彼女の視線の先には森が見える。
そのとき、葵はふっと足を止めた。
正面の空気が、わずかに張り詰めたのを感じ取った。
「……お前が、葵か」
ゆっくりと深い低音が通路に落ちる。
反響もしない重みを伴って。
出口付近に突然、一人の男が立っていた。
長い黒髪を背に流し、閉じた瞼。
三つずつ並んだ両耳が、微かな気配すら逃すまいと、この場の環境すべてを捉えている。
その身から放たれる妖気は、鋭さよりも密度を感じさせた。
長く頂点に立っていた者の、静かな圧。
――待っていた。
その事実は、言葉にされなくとも明らかだった。
「ええ」
葵は短く答え、視線をまっすぐ向ける。
怯えも、探りもない。
「挨拶が遅れた。オレは黄泉。かつて癌陀羅を治めていた者だといえば、分かるだろう」
その名に、葵は小さく頷いた。
魔界に住むもので、その名を知らないものは恐らくいない。
黄泉は一歩、また一歩と距離を詰める。
光を失って耳と鼻が効く彼は、彼女の香りをすぐ嗅ぎ分けた。
(花の香り……これは、魔界の酔芙蓉か。どこか、心が和らぐ)
彼女の雰囲気に、彼の中の記憶の扉がそっと開いた。
遠い昔に感じた、安らぎと微かな痛み。それが、今この瞬間に重なっていく。
(なるほどな)
黄泉の中で、点と点が静かに繋がる。
(あの蔵馬が、心底守り抜いて大切にするのは、この女の持つ空気なのか……)
彼は足を止め、正面から言葉を向けた。
「国難の折、蔵馬の策の手助けをしてくれたこと、礼を言う」
「こちらこそ、ご丁寧にありがとう」
葵は、真っ直ぐに黄泉の言葉を受け止めた。
気圧されることもなく、無駄にへりくだることもない。
黄泉は、彼女の気配を測り続ける。
体温、脈、呼吸、妖気――どれも揺らぎがなく、静かに一定だ。
(……肝の据わった女だ)
「蔵馬が、ひた隠しにするほど守る存在が、どんなものか。それを確かめたかっただけだ」
黄泉の脳裏にある、かつての蔵馬と今の蔵馬がようやく混ざっていく。
自分が浦飯幽助と出会い変わったように、彼もまた同じだと腑に落ちる。
「もう、こちらから関わることはない。お前を見て、今の蔵馬がよくわかった」
「……私も、あなたに会えて良かった」
葵と黄泉は、互いに過剰な詮索もせず、踏み込みすぎることもない。
立ち位置を尊重する沈黙が続く。
黄泉はゆっくりと通路を歩き出す。会場に――彼女に向かって。
すれ違う瞬間、彼の鼻腔に、ふわりと花の香気が強くなった。
その刹那――
視えないはずの瞼の裏に、ぼんやりと柔らかな姿が映る。
淡い髪、凛とした眼差し、そして、触れれば消えてしまいそうな、掴みどころのない存在。
(……一瞬、見えたように感じたが。オレの錯覚か)
思わず立ち止まり、振り返る。
そこに、葵の姿はもうなかった。
通路には、淡い香りだけが、余韻のように残されている。
黄泉はその場にしばし立ち尽くし、ふっと息を吐いた。
その掴みどころのない存在は、彼の知っている者とよく似ていた。
彼は何も言わず、再び歩き出した。
戦いの喧騒が、ゆっくりと戻ってくる。
これで13章終了です。14章では短編を挟みつつ、本編が進行していきます。
今後ともアカシヤをよろしくお願いします。