アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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14章 桜がつなげる時空
魔界の桜


 

淡く揺れる花影が、風に乗って視界の端をかすめた。

葵は、ふと足を止めて振り返る。

魔界の空の下では、場違いなほどに優しい色だった。

 

「……桜?」

 

声は、ほとんど息に近い。

人間界で見たそれと、よく似ている。けれど同じではない。

花びらはごく淡い色。透き通るような薄紅、霞のような白。

木の肌は、淡藤(あわふじ)色で、その全長は数十メートルもある。

 

(太古の昔にあった、大樹の伝説のようね)

 

魔界統一トーナメントの会場だった近くにある大木。

通りかかった店で耳にした噂が、静かに思い起こされる。

戦いの最中、忽然と現れ、今もなお消えることなく咲き続けているという奇妙な樹。

 

(……どうして、こんなところに)

 

答えを求めない問いは、宙にとけていく。

葵の足は、ゆっくりとその樹へ歩み寄った。

 

近づくにつれ、空気が変わる。

ひとひら、またひとひらと花びらが舞い落ちるたび、かすかな香りが流れた。

懐かしくも切ない、春の匂い。

胸の奥が、わずかに疼く。

 

 

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人間界を思わせるのに、どこか温度が違う。

異なる世界の気配が、ぎりぎりの均衡で混ざり合っていた。

 

 

トーナメントが終わって、すでに数週間。

それでもこの樹は衰えることなく、満開の花の奥に、まだ幼い蕾を抱いていた。

三分咲きの枝さえある。

 

(……時間が、ずれている)

 

そう感じた瞬間、葵は気づいた。

花の奥、幹の内側を流れる、微かな妖気――主張はなく、しなやかで涼やかで。

ひどく馴染みのある感触だった。

 

(……これは、蔵馬の気配)

 

胸の奥がすとんと静まり、安堵感が広がる。

 

魔界にあるはずのないその桜は、化石と化していた億年樹(おくねんじゅ)と融合したもの。

戦いの狭間で、彼の手が悠久の眠りについた命を新しい形で蘇らせた。

 

 

幹は太く、揺るぎなく深く大地に根を張っている。

枝は空へと広がり、花の間をすり抜ける風が、かすかな音を立てた。

それは歌とも、呼吸ともつかない、静かな響き。

 

魔界にあるとは思えないほど、優しい音だった。

ふわりと鼻をくすぐる香りから、葵は言葉を受け取った。

 

(……そう。あなたは、境界を越える人なのね)

 

彼の存在が、妖怪であり、人間であることが。

魔界の植物に、人間界の桜を融合させて蘇生したことが。

その証明となる。

 

 

ふと、根元の隙間に視線を落とす。

そこには、小さな泉が湧いていた。

澄んだ水面は、かすかに光を帯び、静かに揺れている。

数億年の時を経て、化石の内に封じられていた水分が、地表へと滲み出たもの。

 

葵はそっとしゃがみ込み、指先を水に浸した。

冷たい――けれど、それだけではない。

微細な振動が、指先から腕へ伝わってくる。

 

(……生きている)

 

水が、呼吸している。

記憶している。

 

太古の昔の霊界、魔界、人間界。

かつてそれらは一つであり、様々な種族が同じ大地の上で生きていた。

 

その記憶が、この小さな泉の中で、今も脈打っている。

葵は、静かに指を引き上げた。

 

(……命は、消えないのね)

 

形を変え、時を越え、誰かの手に触れて――また芽吹く。

 

風が吹き、葵の髪を揺らす。

花びらがひとひら、泉に落ち、淡い波紋を描いた。

その輪は広がり、やがて静かに消えていく。

透明な水に、一つの色が咲く。それを見つめながら、葵はふと思う。

 

(あなたはやはり……今も昔も、これからも、命を運び、命を吹き込む人ね)

 

 

時の境界が消えたような、不思議な静けさ。

そこには魔界も人間界も、過去も未来もなかった。

 

命の余韻が息づく場所だった。

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

 

9月末某日。

まもなく夜がほどける時刻だった。

空にはまだ深い藍が残り、湖面はそれを静かに映している。

 

蔵馬と葵は、人間界の山あいにある、ゆうつづ湖にいた。

以前にも訪れた場所だが、今は音という音が消え、世界が呼吸をひそめているようだった。

空と水の境目は曖昧で、どこまでが夜で、どこからが湖なのかわからない。

 

二人のほかに、誰もいなかった。

東の空に、ひときわ明るく瞬く星。

凛と澄んだその輝きに気づいたのか、蔵馬はゆっくりと顔を上げる。

 

言葉はなかった。

夜を見つめたまま、わずかに呼吸が深くなる。

湖面に映る星々が、さざ波に揺れている。

その揺らぎは、彼の胸の奥に沈んでいるものと、よく似ていた。

 

蔵馬は、バイオリズムの変化が強かったとき、妖怪と人間との間を行き来していたことを思い出していた。

 

——かつて妖狐として生きてきた時間。

——南野秀一として過ごした、人間の時間。

 

どちらも否定できない。

どちらも切り離せない。

 

今、ここに立っている自分は、そのどちらでもあり、どちらかでもない。

ただ「蔵馬」として在る。

 

視線は、天から湖へ。

一瞬、涼しげな横顔に切ないかげりが落ちる。それがわずかな光に照らされた。

 

 

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そこへ、草を踏むかすかな音。

振り向くより先に、香りが届く。どこか懐かしい、酔芙蓉の安息の匂い。

 

「……蔵馬」

 

名を呼ばれて、ようやく彼は振り返る。

そこには、ためらいのない眼差しがあった。夜の色を映しながらも、温かく清らかな瞳。

 

「……すまない。少し、考え事をしていたんだ」

 

そう言って、再び湖へ視線を戻す。

星と水と、そして自身。

すべての気配が合わさるような、輪郭が無くなるような感覚に、身を投じていた。

 

しばらくして、頬にやわらかな温もりが触れた。

葵が、目の前に立っている。両手で、そっと彼の顔を包み込んだ。

星を宿したような双眸が、彼の深い瞳を出迎えた。

 

(もう、伝えてもいいわよね……)

 

穏やかな光に背中を押されながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

 

「……もう、一人で、心に血を流さなくてもいいのよ」

 

いつもより少し低い声が、ゆっくりと彼の世界を震わせる。

そして胸の奥深くまで、静かに降りていく。

 

「……っ」

 

彼の双眸が、ふっと見開かれる。

夜の冷気も、星空の光も、湖の気配も、その瞬間に遠のいた。

 

彼女は、隣で見てきた。

言葉にされなかった想いも、迷いも、選び続けてきた痛みも。

 

蔵馬は目を細めて、目の前の人を見つめた。

心の奥底から、想いがこみ上げる。

何かを言おうとして、喉の動きが止まる。

代わりに、自分の頬に添えられた彼女の手にそっと触れた。

 

重なった手が、スローモーションのように自然に下がる。

止まっていた時間が動き出したように、二人の宙の高い位置に、流れ星が降った。

 

顔を近づけると、互いの頬が触れる。

冷えた夜の空気の中で、体の中心が、静かに熱を帯びていく。

 

「君には……何もかも……」

 

先の言葉が続かない。

葵がふっと微笑むのが、肌越しで伝わった。

 

「それは、お互い様でしょう?」

 

彼女の囁きは、この湖のように静かで柔らかくて。

胸の隙間に、そっと沁みていく。

 

「葵の言葉は……」

 

低く抑えた声は、孤独の奥行を隠さなかった。

 

「オレの心を……魂を、癒してくれる」

 

気づけば、彼は葵の肩を抱いていた。

 

「私も……あなたのおかげで、今生きているわ。ずっと、あなたに命を救われてきた」

 

葵は、彼の胸に額を預ける。

静かな二人の時間が、夜空と共に流れる。

 

蔵馬は、そっと彼女の額に口づける。

次に頬へ、そして口唇へ。

熱を主張しない、確かめるような、いくつもの口づけ。

そこにある命を、在ると認めるための行為。

 

――もう、この人を離さない……。

 

頭上で、さすらう星が一筋、尾を引いた。

それから、もう一つ。

 

まるで、愛を受け取ることを、何かに祝福されているようだった。

 

夜明けはもうすぐ。

湖と空の境目が消えるように、光と影の境界が、ゆっくりとほどけていく。

 

 

 

再び、頬と頬をそっと寄せ合った。

吐息が混じり、夜明け前の冷えた空気が、二人の間で白く温められる。

 

葵の腕が、蔵馬の背へ回る。指先が、布越しに背中をなぞった。

確かめるようでいて、無意識に近い。

彼女の温もりが自分の表面を流れていく中で、蔵馬の胸の奥が、音を立てて波紋を広げた。

言葉にならない感情が、ふつふつと湧き上がってくる。

 

(この感覚は、いったい何なのだろう……)

 

彼は、ふっと頬を離した。目の前にある彼女の顔を、改めて見つめる。

答えは――すでに自分の内にあった。

 

 

指が、自然と彼女の頬に触れた。

なめらかな感触を確かめるように、ゆっくりと輪郭をなぞり、髪へと滑らせる。

象牙色の細い髪が、指の間をすり抜けた、そのとき——

 

「……少し、失礼するよ」

 

囁くように言って、そっと髪をかき分ける。

指先に、かすかな抵抗。淡い、薄桜色の花びらが一枚、留まっていた。

蔵馬は小さく息を吐き、わずかに口元を緩める。

 

「……やっぱり、行ってきたんだね」

 

指先で、花びらをそっと摘み取り、葵の前に差し出す。

問いではなく、確認。

彼女の視線が、優しく揺れる。

 

「ええ。あの億年樹……とても喜んでいたわ。長い眠りから目覚めて、美しい姿に生まれ変わったようだって」

 

「そうか……」

 

蔵馬は目を細め、静かに頷く。

 

「あなたは……植物たちに、愛されているのね」

 

 

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「……。」

 

一瞬、彼の手が宙に止まる。

けれど、すぐに何事もなかったかのように花びらを風に返した。

 

言われた言葉に、蔵馬は葵と出逢ったころを思い出していた。

 

——道端で声を上げていた小さな木。

——居場所を変え、今ではしっかりと根を張っている姿。

 

どこにでもある小さな木の声を聞いて、彼女は、本来育ちやすい場所に植え替えようとしていた。その木も今は大きく育ち、しっかりと根付いている。

 

蔵馬は視線を伏せ、彼女の肩に触れたまま、黙っていた。

 

(……植物に愛されているのは、君のほうだよ)

 

彼女がそこにいるだけで、草花の気配が変わることを彼は知っていた。

妖力でも、能力でもない。

もっと深い領域で、命そのものが呼応している。

 

そのことを、言葉にしなかった。

する必要はない。それで完結している。

 

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