アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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第85話

「蔵馬」

 

葵は少しだけ声を落とす。

 

「あなたは……人間で、妖怪で。でも、どちらかでもなくて……そのままのあなたで、ここにいるでしょう」

 

蔵馬は、答えずに彼女を見た。

深い瞳同士が再会する。

 

「億年樹が言ってたわ。あなたが、あなたとしてそこに在り続けたから……世界が、ほどけたんだと」

 

蔵馬の喉が、わずかに動く。

言葉の意味の深さに気づいたから。世界とは、人間界と魔界の狭間を指すのだと。

 

彼は、空を仰いだ。

藍色の奥に、朱が滲み始めている。

 

(……そんなふうに、見るのか)

 

胸の奥に満ちるものを、彼は行き場なく抱えたまま、静かに息を吐いた。

 

 

 

やがて二人は、草の上に並んで身を横たえた。

少し湿った葉の感触が背に伝わり、土の匂いが朝の気配を含んでいる。

 

東の空がほのかに朱を帯び、山の稜線を優しく染め始める。

夜の星たちが少しずつ姿を消し、太陽に場所を譲る準備をしていた。

橙と藍のグラデーションが天空を彩っていく。

 

「蔵馬……」

 

 

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空を見上げながら、葵の澄んだ声は広がる。

 

「あなたは、過去を超えたの」

 

「……。」

 

蔵馬は、そっと彼女の指先に、自分の指を重ねる。

 

朝の光が、二人を等しく照らし始める。

夜の名残は、音もなく洗い流されていった。

 

 

 

湖畔を渡る風が、草の先をわずかに揺らした。

水面に細かな波紋が生まれ、すぐに溶けて消える。

まもなく、完全に夜空が開く。

東の空に淡い白がにじみ、星の数がさらに減っていく。

 

葵は立ち上がり、湖を見つめたまま、ふっと息を吐いた。

それは意図したものではなく、無意識のうちにこぼれたもの。

無防備な子どものようで、包み込むような微笑み。

 

その横顔に視線を向けたまま、彼の胸の奥で小さな音がした。

 

長い間、蔵馬は心を凍り付かせて生きてきた。

冷酷であるため、だけではない。これ以上、内側から血を流さないために。

感情に触れれば、必ずどこかが裂けることを、彼は知っていたから。

しかし今は――。

 

 

「ねえ、蔵馬」

 

葵が、湖から視線を外さずに言う。

 

「もうすぐ、朝が来るわ」

 

「……ああ」

 

葵は一歩、前に出る。

湿った草を踏む音が、静けさの中に柔らかく温度を与える。

 

「行きましょう」

 

彼女の視線が湖から、太陽の出る方へ移る。

蔵馬は一瞬だけ間を置いた。それから、ゆっくりと立ち上がり、彼女の隣に並ぶ。

草の感触が靴底から伝わり、朝の匂いが空気に混じり始めている。

 

葵は歩きながら、何かに気づいたように空を仰いだ。

 

「夜って、不思議ね。消える前が、美しく見えるわ」

 

「……そうだね」

 

蔵馬は、視線を前に向けたまま答える。

昔なら、聞き流していた言葉。意味を測ることもせず、感情を挟むこともなかった。

けれど今は、その一言が胸の奥に触れ、静かに波紋を広げる。

 

(オレは……今のこの自分で、葵といられることが……嬉しい)

 

心の奥で、そう想う自分がいた。

彼は、ほんのわずか口元を緩めた。

誰かに見せるものではない、小さな変化。こんなふうに変わっていくのも、悪くない。

 

遠く、朝の光が湖面に差し込み始める。

夜の名残は、音もなく引いていった。

 

そして、ふたりは歩き出した。

言葉もなく、隣り合うその距離を頼りに。

 

 

数百年後――

桜を咲かせる億年樹が佇む場所には、人間の姿も見られるようになる。

 

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

 

夜明けの湖畔を離れ、二人は細い山道を越えた。

着いたのは、静かな谷間に広がる小さな村だった。

 

「ここよ」

 

葵の視線の先に、古い木造の建物があった。

軒先に下がる暖簾には、墨で書かれた「湯」の一文字。

朝の風に揺れ、わずかに湿り気を帯びた布が、かすかな音を立てる。

 

引き戸を開けた瞬間、湯気がふわりと流れ出した。

檜と土、そして源泉の匂いが混じり合い、胸の奥まで温めるように広がる。

どこか懐かしい匂いに、足取りも自然とゆるむ。

 

番台には、白髪をきれいにまとめた年配の女性が腰掛けていた。

編み針を動かしていた手を止め、葵を見つけると、目じりを下げる。

 

「お嬢ちゃん、今朝も早いねぇ。寒くなってきたから、しっかり温まっていきな」

 

「ありがとう」

 

葵は微笑み返し、隣にいる蔵馬の方へ視線を向ける。

 

「ここのお湯、とても気持ちいいの。朝だと空いてるし、光の入り方がとてもきれいなの」

 

蔵馬はふっと息を吐き、目を細める。

こういう隠れた場所を直感的に探し当てるのは、実に彼女らしい。

 

「よく見つけたね」

 

「散歩の途中で発見したのよ」

 

葵に釣銭を渡しながら、番台の女性は二人の会話を聞いていた。

ふと、まじまじと蔵馬を眺めた。

目じりのしわが増える。

 

「今日はお連れさんも一緒かい?いい青年だね」

 

彼は軽く会釈し、柔らかな微笑みを返した。

靴を脱ぎ、下足箱に収めたところで、葵が思い出したように立ち止まる。

 

「あ、そうだわ」

 

 

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ポケットから取り出したのは、小さなヘアゴムだった。

淡い紅藤色。装飾のない、ごく簡素なもの。

 

「これ、使って」

 

蔵馬は受け取り、手のひらにしばらく置いてから、静かに頷く。

 

「……使わせてもらうよ」

 

歩きながら、さりげなく髪をまとめる彼女の姿は、どこか静かで美しい。

肩に落ちていた髪が整えられていくのを、蔵馬は何も言わずに見ていた。

 

(いつの間にか、人間界になじんでいるんだな)

 

そう思いながら、彼も暖簾をくぐる。

分厚く年季の入った木の床板が、低くきしむ音を立てた。

 

 

 

湯けむりの中、蔵馬は男湯の湯船に身を沈めていた。

肌を包む湯は柔らかく、体の深部まで染み渡る。

湿った静寂のなかに、時折、桶を置く音や湯が流れる音がやわらかく響く。

すぐ近くには、地元の常連らしき老人たちが数人。

湯に浸かりながら、昔話をぽつぽつ交わしている。

 

蔵馬は静かに瞳を閉じた。

壁の向こうから、微かに葵の気配が届く。言葉はなくとも、分かる。

彼女もまた、今この時間を大切にしているのだと。

 

彼は、ほんのわずかに口唇を動かした。

人の耳には届かぬほどの、穏やかで透明な声で。

 

「……葵、のぼせないようにね」

 

彼の音が、湯気の中を伝っていく。

返事はなかったが、気配が揺れて、彼女が微笑んだのを感じた。

 

壁越しに交わされる沈黙の会話。 妖怪の二人ならではの楽しみ方だった。

 

 

 

 

湯気の名残がまだ薄く漂う脱衣所を抜け、蔵馬が引き戸に指をかけ、そっと開ける。

かすかな木の軋みとともに現れたのは、柔らかな朝の光が射し込む休憩処。

そこに葵の姿があった。

畳敷きの小上がりにちょこんと腰を下ろし、ゆるやかに目を閉じていた。

湯上がりの熱をそのまま閉じ込めたように、頬はぽうっと赤く、呼吸はまだ少しだけ深い。

 

 

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額からこめかみにかけ、うっすらと汗がにじみ、花びらのような口唇は、わずかに開かれたまま。

耳まで染まった赤と、肩に貼りついた湿った髪が、無防備で。

近づくのを忘れるほどだった。

 

蔵馬は、止めていた一刹那を動かした。

 

(……やっぱり、のぼせてる)

 

思わず苦笑しながら、小さく息をつく。

音を立てぬよう、彼は隣に腰を下ろした。

畳がかすかに沈む。

その気配に気づいたのか、葵のまぶたが微かに揺れたが、まだ開かない。

 

蔵馬は手を伸ばし、花色の髪をひと房すくい上げる。

指先に残る、しっとりとした温もり。

湯の名残と、彼女自身の気配が混ざった感触に、思わず息が浅くなる。

 

(さて、どうしたものか……)

 

穏やかな眼差しで彼女を見守っていると、小さな笑い声が番台から飛んできた。

 

「ああ!またあの嬢ちゃん、のぼせてるわ」

 

蔵馬は視線だけで会釈し、立ち上がる。

 

「冷たい飲み物を、頂けますか?」

 

数分後。

瓶入りの炭酸水を手に、戻ってきた。

朝の光を受けて、透明な瓶の中で泡が細かく弾けている。

 

再び腰を下ろすと、彼は何も言わずに、瓶の冷たい側面をそっと彼女のうなじに当てた。

 

「……っん?」

 

小さく息を吸う音。

ゆっくりと、葵のまぶたが開く。

まだ半分夢の中にいるような、焦点の定まらない瞳が、少しずつ、蔵馬を捉えていく。

 

「……冷たい……でも、気持ちいい……」

 

ほっとしたように長い吐息をこぼし、彼女は肩の力を抜いた。

 

「いつものぼせてるって、本当なんだね」

 

「……これって、のぼせてるの?」

 

目を伏せて、不思議そうに首を傾げる。

 

「のぼせてる」

 

「……前に、熱を出したときよりは、大丈夫だと思ったんだけど」

 

「感染症にかかったときは高熱だったから、それと比較するのはちょっとね」

 

その声は静かで優しい。そしてお約束のように少し微笑んでいる。

蔵馬は栓を抜き、瓶を差し出す。

 

「飲んでみる?炭酸だけど、すっきりするよ」

 

「……炭酸?」

 

思考がまともに働かないまま、葵は促された通りに、瓶を両手で受け取って口をつける。

その数秒後。

 

「……っ!」

 

急に顔をしかめ、慌てて鼻を押さえた。

 

「……鼻が、痛いわ」

 

予想通りの反応に、蔵馬は口元に手を置いて少し笑った。

この状況下で、わかっていて注意をしないのもこの男らしい。

 

「初めて飲んだ?」

 

「……初めて」

 

鼻をつまみ、少ししゃがれた声。

その様子に、蔵馬はもう一度、息を漏らす。

 

(この人は、本当に……)

 

どこまでも素直で、飾らない。

それが彼女の強さであり、危うさであり――愛おしさだった。

 

「……わかってて、言わなかったでしょう?」

 

「ごめんごめん」

 

声色だけは反省しているが、その目元はまるで悪戯を成功させた子どものようだ。

 

(本当に、例えようのない性格をしているわ)

 

葵は鼻をつまんでいた手をおろすと、ふうと息を吐く。

ひと騒動のおかげなのか、体のほてりは和らいできた。

 

このやり取りの中でも、蔵馬は彼女の状態の観察を怠らない。

そっと彼女の髪に手を伸ばし、濡れた花びらを撫でるように、指先でやわらかく髪を梳いた。

 

「……もう少し、ここで休んでいこうか」

 

その声は、葵にだけ向けられた優しい音だった。

静かに見つめ合う二人。

彼女が何か言おうとしたとき、番台から声が飛んできた。

 

「男前には、サービスだよ」

 

とびきりの笑顔とともに、手渡されたのは、ぬるめのオレンジジュース。

蔵馬はそれを軽く受け取り、すぐに葵の前へ差し出した。

 

「これは炭酸じゃないから、大丈夫だよ」

 

「……ありがとう」

 

素直に手に取ると、瓶の口に軽く口唇に添える。

果汁の香りが、湯上がりの喉に心地よく広がった。体が、ほっと緩む。

 

二人は並んで、しばらく座っていた。

脱衣所から流れてくる湯気の匂い。古い木の香り。天井に響く柔らかな水音。

時間がゆるやかに溶けていく。

 

 

蔵馬は、そっと彼女の手に触れた。

湯で温まった葵の指先は、ふんわりとやわらかく、ほんの少し震えていた。

その手を包みこむように握り、彼は静かに言った。

 

「葵」

 

名前を抱くような響きだった。

ほんの一瞬、周囲の気配が途切れた隙に、彼は彼女の手の甲に口唇を落とした。

 

「オレは、ここにいる……。もう、どこにも行かないよ」

 

誓いを立てるというよりも、揺るがない意志の表明だった。

 

葵は少しだけ目を見開き、そして、深く息を吸い込む。

長い長い旅から帰ってきた人を、迎えるように。

 

「………おかえりなさい。蔵馬」

 

酔芙蓉の花がゆっくりと色づいていくように、蔵馬の前にふわっと笑顔が咲いた。

 




ずっと書きたかった銭湯シーンです。炭酸のくだりは、書いていて楽しかった。
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