「蔵馬」
葵は少しだけ声を落とす。
「あなたは……人間で、妖怪で。でも、どちらかでもなくて……そのままのあなたで、ここにいるでしょう」
蔵馬は、答えずに彼女を見た。
深い瞳同士が再会する。
「億年樹が言ってたわ。あなたが、あなたとしてそこに在り続けたから……世界が、ほどけたんだと」
蔵馬の喉が、わずかに動く。
言葉の意味の深さに気づいたから。世界とは、人間界と魔界の狭間を指すのだと。
彼は、空を仰いだ。
藍色の奥に、朱が滲み始めている。
(……そんなふうに、見るのか)
胸の奥に満ちるものを、彼は行き場なく抱えたまま、静かに息を吐いた。
やがて二人は、草の上に並んで身を横たえた。
少し湿った葉の感触が背に伝わり、土の匂いが朝の気配を含んでいる。
東の空がほのかに朱を帯び、山の稜線を優しく染め始める。
夜の星たちが少しずつ姿を消し、太陽に場所を譲る準備をしていた。
橙と藍のグラデーションが天空を彩っていく。
「蔵馬……」
空を見上げながら、葵の澄んだ声は広がる。
「あなたは、過去を超えたの」
「……。」
蔵馬は、そっと彼女の指先に、自分の指を重ねる。
朝の光が、二人を等しく照らし始める。
夜の名残は、音もなく洗い流されていった。
湖畔を渡る風が、草の先をわずかに揺らした。
水面に細かな波紋が生まれ、すぐに溶けて消える。
まもなく、完全に夜空が開く。
東の空に淡い白がにじみ、星の数がさらに減っていく。
葵は立ち上がり、湖を見つめたまま、ふっと息を吐いた。
それは意図したものではなく、無意識のうちにこぼれたもの。
無防備な子どものようで、包み込むような微笑み。
その横顔に視線を向けたまま、彼の胸の奥で小さな音がした。
長い間、蔵馬は心を凍り付かせて生きてきた。
冷酷であるため、だけではない。これ以上、内側から血を流さないために。
感情に触れれば、必ずどこかが裂けることを、彼は知っていたから。
しかし今は――。
「ねえ、蔵馬」
葵が、湖から視線を外さずに言う。
「もうすぐ、朝が来るわ」
「……ああ」
葵は一歩、前に出る。
湿った草を踏む音が、静けさの中に柔らかく温度を与える。
「行きましょう」
彼女の視線が湖から、太陽の出る方へ移る。
蔵馬は一瞬だけ間を置いた。それから、ゆっくりと立ち上がり、彼女の隣に並ぶ。
草の感触が靴底から伝わり、朝の匂いが空気に混じり始めている。
葵は歩きながら、何かに気づいたように空を仰いだ。
「夜って、不思議ね。消える前が、美しく見えるわ」
「……そうだね」
蔵馬は、視線を前に向けたまま答える。
昔なら、聞き流していた言葉。意味を測ることもせず、感情を挟むこともなかった。
けれど今は、その一言が胸の奥に触れ、静かに波紋を広げる。
(オレは……今のこの自分で、葵といられることが……嬉しい)
心の奥で、そう想う自分がいた。
彼は、ほんのわずか口元を緩めた。
誰かに見せるものではない、小さな変化。こんなふうに変わっていくのも、悪くない。
遠く、朝の光が湖面に差し込み始める。
夜の名残は、音もなく引いていった。
そして、ふたりは歩き出した。
言葉もなく、隣り合うその距離を頼りに。
数百年後――
桜を咲かせる億年樹が佇む場所には、人間の姿も見られるようになる。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
夜明けの湖畔を離れ、二人は細い山道を越えた。
着いたのは、静かな谷間に広がる小さな村だった。
「ここよ」
葵の視線の先に、古い木造の建物があった。
軒先に下がる暖簾には、墨で書かれた「湯」の一文字。
朝の風に揺れ、わずかに湿り気を帯びた布が、かすかな音を立てる。
引き戸を開けた瞬間、湯気がふわりと流れ出した。
檜と土、そして源泉の匂いが混じり合い、胸の奥まで温めるように広がる。
どこか懐かしい匂いに、足取りも自然とゆるむ。
番台には、白髪をきれいにまとめた年配の女性が腰掛けていた。
編み針を動かしていた手を止め、葵を見つけると、目じりを下げる。
「お嬢ちゃん、今朝も早いねぇ。寒くなってきたから、しっかり温まっていきな」
「ありがとう」
葵は微笑み返し、隣にいる蔵馬の方へ視線を向ける。
「ここのお湯、とても気持ちいいの。朝だと空いてるし、光の入り方がとてもきれいなの」
蔵馬はふっと息を吐き、目を細める。
こういう隠れた場所を直感的に探し当てるのは、実に彼女らしい。
「よく見つけたね」
「散歩の途中で発見したのよ」
葵に釣銭を渡しながら、番台の女性は二人の会話を聞いていた。
ふと、まじまじと蔵馬を眺めた。
目じりのしわが増える。
「今日はお連れさんも一緒かい?いい青年だね」
彼は軽く会釈し、柔らかな微笑みを返した。
靴を脱ぎ、下足箱に収めたところで、葵が思い出したように立ち止まる。
「あ、そうだわ」
ポケットから取り出したのは、小さなヘアゴムだった。
淡い紅藤色。装飾のない、ごく簡素なもの。
「これ、使って」
蔵馬は受け取り、手のひらにしばらく置いてから、静かに頷く。
「……使わせてもらうよ」
歩きながら、さりげなく髪をまとめる彼女の姿は、どこか静かで美しい。
肩に落ちていた髪が整えられていくのを、蔵馬は何も言わずに見ていた。
(いつの間にか、人間界になじんでいるんだな)
そう思いながら、彼も暖簾をくぐる。
分厚く年季の入った木の床板が、低くきしむ音を立てた。
湯けむりの中、蔵馬は男湯の湯船に身を沈めていた。
肌を包む湯は柔らかく、体の深部まで染み渡る。
湿った静寂のなかに、時折、桶を置く音や湯が流れる音がやわらかく響く。
すぐ近くには、地元の常連らしき老人たちが数人。
湯に浸かりながら、昔話をぽつぽつ交わしている。
蔵馬は静かに瞳を閉じた。
壁の向こうから、微かに葵の気配が届く。言葉はなくとも、分かる。
彼女もまた、今この時間を大切にしているのだと。
彼は、ほんのわずかに口唇を動かした。
人の耳には届かぬほどの、穏やかで透明な声で。
「……葵、のぼせないようにね」
彼の音が、湯気の中を伝っていく。
返事はなかったが、気配が揺れて、彼女が微笑んだのを感じた。
壁越しに交わされる沈黙の会話。 妖怪の二人ならではの楽しみ方だった。
湯気の名残がまだ薄く漂う脱衣所を抜け、蔵馬が引き戸に指をかけ、そっと開ける。
かすかな木の軋みとともに現れたのは、柔らかな朝の光が射し込む休憩処。
そこに葵の姿があった。
畳敷きの小上がりにちょこんと腰を下ろし、ゆるやかに目を閉じていた。
湯上がりの熱をそのまま閉じ込めたように、頬はぽうっと赤く、呼吸はまだ少しだけ深い。
額からこめかみにかけ、うっすらと汗がにじみ、花びらのような口唇は、わずかに開かれたまま。
耳まで染まった赤と、肩に貼りついた湿った髪が、無防備で。
近づくのを忘れるほどだった。
蔵馬は、止めていた一刹那を動かした。
(……やっぱり、のぼせてる)
思わず苦笑しながら、小さく息をつく。
音を立てぬよう、彼は隣に腰を下ろした。
畳がかすかに沈む。
その気配に気づいたのか、葵のまぶたが微かに揺れたが、まだ開かない。
蔵馬は手を伸ばし、花色の髪をひと房すくい上げる。
指先に残る、しっとりとした温もり。
湯の名残と、彼女自身の気配が混ざった感触に、思わず息が浅くなる。
(さて、どうしたものか……)
穏やかな眼差しで彼女を見守っていると、小さな笑い声が番台から飛んできた。
「ああ!またあの嬢ちゃん、のぼせてるわ」
蔵馬は視線だけで会釈し、立ち上がる。
「冷たい飲み物を、頂けますか?」
数分後。
瓶入りの炭酸水を手に、戻ってきた。
朝の光を受けて、透明な瓶の中で泡が細かく弾けている。
再び腰を下ろすと、彼は何も言わずに、瓶の冷たい側面をそっと彼女のうなじに当てた。
「……っん?」
小さく息を吸う音。
ゆっくりと、葵のまぶたが開く。
まだ半分夢の中にいるような、焦点の定まらない瞳が、少しずつ、蔵馬を捉えていく。
「……冷たい……でも、気持ちいい……」
ほっとしたように長い吐息をこぼし、彼女は肩の力を抜いた。
「いつものぼせてるって、本当なんだね」
「……これって、のぼせてるの?」
目を伏せて、不思議そうに首を傾げる。
「のぼせてる」
「……前に、熱を出したときよりは、大丈夫だと思ったんだけど」
「感染症にかかったときは高熱だったから、それと比較するのはちょっとね」
その声は静かで優しい。そしてお約束のように少し微笑んでいる。
蔵馬は栓を抜き、瓶を差し出す。
「飲んでみる?炭酸だけど、すっきりするよ」
「……炭酸?」
思考がまともに働かないまま、葵は促された通りに、瓶を両手で受け取って口をつける。
その数秒後。
「……っ!」
急に顔をしかめ、慌てて鼻を押さえた。
「……鼻が、痛いわ」
予想通りの反応に、蔵馬は口元に手を置いて少し笑った。
この状況下で、わかっていて注意をしないのもこの男らしい。
「初めて飲んだ?」
「……初めて」
鼻をつまみ、少ししゃがれた声。
その様子に、蔵馬はもう一度、息を漏らす。
(この人は、本当に……)
どこまでも素直で、飾らない。
それが彼女の強さであり、危うさであり――愛おしさだった。
「……わかってて、言わなかったでしょう?」
「ごめんごめん」
声色だけは反省しているが、その目元はまるで悪戯を成功させた子どものようだ。
(本当に、例えようのない性格をしているわ)
葵は鼻をつまんでいた手をおろすと、ふうと息を吐く。
ひと騒動のおかげなのか、体のほてりは和らいできた。
このやり取りの中でも、蔵馬は彼女の状態の観察を怠らない。
そっと彼女の髪に手を伸ばし、濡れた花びらを撫でるように、指先でやわらかく髪を梳いた。
「……もう少し、ここで休んでいこうか」
その声は、葵にだけ向けられた優しい音だった。
静かに見つめ合う二人。
彼女が何か言おうとしたとき、番台から声が飛んできた。
「男前には、サービスだよ」
とびきりの笑顔とともに、手渡されたのは、ぬるめのオレンジジュース。
蔵馬はそれを軽く受け取り、すぐに葵の前へ差し出した。
「これは炭酸じゃないから、大丈夫だよ」
「……ありがとう」
素直に手に取ると、瓶の口に軽く口唇に添える。
果汁の香りが、湯上がりの喉に心地よく広がった。体が、ほっと緩む。
二人は並んで、しばらく座っていた。
脱衣所から流れてくる湯気の匂い。古い木の香り。天井に響く柔らかな水音。
時間がゆるやかに溶けていく。
蔵馬は、そっと彼女の手に触れた。
湯で温まった葵の指先は、ふんわりとやわらかく、ほんの少し震えていた。
その手を包みこむように握り、彼は静かに言った。
「葵」
名前を抱くような響きだった。
ほんの一瞬、周囲の気配が途切れた隙に、彼は彼女の手の甲に口唇を落とした。
「オレは、ここにいる……。もう、どこにも行かないよ」
誓いを立てるというよりも、揺るがない意志の表明だった。
葵は少しだけ目を見開き、そして、深く息を吸い込む。
長い長い旅から帰ってきた人を、迎えるように。
「………おかえりなさい。蔵馬」
酔芙蓉の花がゆっくりと色づいていくように、蔵馬の前にふわっと笑顔が咲いた。
ずっと書きたかった銭湯シーンです。炭酸のくだりは、書いていて楽しかった。