午前10時。
銭湯の余熱をまだ残したまま、二人は蔵馬の部屋に戻ってきた。
ローテーブルの前に座るよう、葵に促す。そして彼は、その後ろに腰を下ろした。
おもむろに彼女の髪に手を伸ばすと、指先にさらりとした感触が返ってきた。
(乾いているな……)
湯上がりの湿り気はすでになく、ほのかな石鹸の香りが、日の光と混じっている。
手櫛で静かに整え、銀と赤の糸が織り込まれた結い紐を取る。
片側に流した髪をまとめ、ゆっくりと巻きつけていく。
結うというよりも、確かめるような手つき。
花色の髪に銀と赤が映えて、蔵馬は無意識に目元を緩めた。
「あなたは、本当に器用ね」
彼の所作を背後の気配で追いながら、葵はふっと微笑む。
「なんでもそつなくできるでしょう?できないことを探す方が、難しそうね」
蔵馬は小さく息を吐き、口唇の端をわずかに上げる。
『器用』という単語に紐づけられて、色々なことを思い出す。
「……確かに、葵よりは器用かもしれないね」
「ええ、それは間違いなく」
「長く生きているしね。人間界で3歳といえば、やっと線や丸が書けるようになる頃だ。それに比べたら、君は十分器用な方だ」
「あら。そのように前向きに言ってくれるのね」
「うん。10年後の葵がどうなっているか、興味がある」
蔵馬は結い紐をきゅっと締めながら、仕上がった全体像を見る。
深い眼差しは、葵に向けられながら、どこか先を同時に捉えていた。
そして言葉を続けた。
「……でもね。オレとしては、今のままの君でいてもいいと、思ってる」
「それはどうして?」
彼女が振り返る。当然の投げかけだった。
髪が揺れ、彼の手からするりと離れていった。その動きが、ゆっくりと見える。
「オレは……葵をかまうのが好きなんだ。君が器用になると、そういう機会が減るだろう?」
軽い調子で言いながらも、視線は逸らさない。
葵は一瞬だけ目を伏せ、それからそっと見つめ返した。
少しの照れと嬉しさが、同時に揺れている。
「そういう理由も……面白いわね。でも、きっと器用になっても、あなたが私をかまうのは、変わらないと思うわ」
蔵馬は短く息を漏らす。
(……よく、わかってるじゃないか)
言葉は口にせず、澄んだ瞳で葵を抱きしめていた。
このように純粋な反応を返してくる一瞬一瞬が、彼をくすぐる。
しばらくの沈黙のあと、葵がぽつりとつぶやいた。
「蔵馬……さっきから、少し気になることがあるの」
声の響きは穏やかだったが、どこか迷いを含んでいる。
「どうしたの?」
「耳が……なんだかおかしいの」
葵は小さく首をかしげた。指先がそっと左の耳に触れている。
「耳?」
蔵馬は一瞬だけ瞬きをし、それから落ち着いた声で言った。
「……少し触るよ」
膝を寄せ、彼女の両耳にそっと触れた。
見たところ、傷や炎症もなく、痛みを訴える様子もない。
「今、蔵馬は左から話しかけているでしょう?あなたの声が聞こえにくいの」
「……ふむ」
言葉の奥で、蔵馬の胸がふっと揺れた。
(これだから君は……)
原因はすぐに察したが、表情には出さない。
それでも、この純粋無垢な困惑があまりにも葵らしくて、もう少しだけ様子を見たくなる。
そんな小さないたずら心が、芽を出す。
「痛みはないんだよね?」
声を柔らかく落として、彼女の左耳に顔を近づける。
反応は薄い。
「……ええ」
「耳が塞がっているような感じがする?」
「そうね。なんだか、ぼわんとして遠くに聞こえるの」
葵は首を傾げ、耳をそっと押し、そして少し首を振った。
その仕草に、彼の表情は緩んでいく。
「……なるほど。いつからそうだった?」
「そういえば、温泉に入った後からね」
「……。」
蔵馬は顔を伏せ、口元を抑えた。もう忍耐は、限界のようだった。
「蔵馬?」
「いや、うん……大丈夫」
彼はすっと真顔に戻り、何でもないと手を前に出した。
ひとつ息を置いてから、口を開いた。
「……ごめん。ちょっとからかってしまった」
「え?」
葵がゆっくりと瞬きをする。
「その違和感はね、温泉に入った時に、耳に湯が入ったんだよ。そのうち治る」
「そうなの?」
「……うん」
彼女の頭に軽く手を置いた。彼の指先が、花色の髪に沈む。
経験がないということは、このように純粋なものなのか。
「原因には、すぐ気づいてたんだけどね……。君の反応が、あまりにも新鮮で。つい、ね」
「初めてだから、わからなくて」
蔵馬は、心の中で短く息を吐いた。
何千年も生きてきた彼の心臓を、こうして鷲掴みにする無防備さ。
触れれば壊れそうな儚さを持ちながら、彼女の存在感は揺るぎない。
「これだから、オレは葵をかまうのが好きなんだ」
その言葉に、彼女は少し驚いたように目を見開き、それからふっと笑った。
「私にはよくわからないけど……。あなたが楽しそうにしているから、これでいいのよね」
返事の代わりに、蔵馬は彼女にしか見せない眼差しでふっと微笑んだ。
そのまま、部屋に静けさが戻る。秋の涼やかな風と、日の光が入る室内。
葵が口元を抑えて、小さなあくびをかみ殺した。
(そうだったな)
蔵馬は、彼女の瞼の重さと呼吸の深さに気づいていた。
夜明け前から湖畔にいて、銭湯へ寄り、ようやく家に戻ったのだ。
――彼女の体質を考えると、休ませたほうがいい。
ためらいなく目の前の体に腕を差し入れ、彼女を抱き上げた。
「え?」
突然視界が浮上する。
驚きの声は短く、抵抗はない。葵はそのまま、彼の胸元へ身を預けた。
ベッドの上にそっと下ろされ、スプリングがきしりと鳴った。
温泉上がりの火照った体を優しく受け止められ、彼女はほっと息を吐いた。
「休息の時間だよ」
穏やかで抑揚のある声が体に響き、葵は素直に体の力を抜く。
途端に眠気の合図がやってくる。
瞼が重たそうに下がり、彼女は蔵馬をわずかに見上げて微笑んだ。
「……ベッドから落ちないでね」
予想外の言葉に、彼女の下がりかけていたまつ毛が上を向く。
彼はいつも、壁側に葵を寝かせ、自分は反対側に眠っていた。
一応念のためにと。
――今は、理由があって蔵馬が壁側にいる。
「……私、寝相悪いの?」
「いや、深い意味はないよ」
そう答えながら、彼はそっと彼女を引き寄せた。
腕の中に収まる温もり。湯上がりの体は、まだほんのりと熱を帯びていて、いつもより彼女の香りが届く。
長い指先が、ゆっくりと髪を撫でる。大切なものを確かめるような、慎重な動き。
「……そう」
まどろみの中で、葵の声が漏れる。その音が、胸の奥に静かに落ちた。
蔵馬は彼女の肩を抱いた。頬が彼の胸元に触れ、呼吸が重なる。
葵の息が、次第に深くゆっくりと整っていく。
眠りへ落ちる、その境目。
蔵馬はその寝顔を見つめながら、短く内側で言葉を結ぶ。
(……どうしようもないな)
そっと額に口唇を落とす。
音も残らぬほど、静かに。今ここにある、重さと温度を感じるだけでいい。
蔵馬のまぶたも、静かに下りていく。その胸にあるのは、満ち足りた沈黙。
ただ隣にいる、それだけで。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
おまけ♢
葵は、ゆっくりと目を開いた。
視界にまず差し込んだのは、白くやわらかな光だった。
カーテン越しの陽が、部屋の壁や床に淡く広がっている。
小さく瞬きをして、焦点を結び直す。すぐ隣に、蔵馬の気配があった。
彼は身動きひとつせず、静かに彼女を見守っていた。
癖のある長い髪が光を含み、伏せた睫毛の影が頬に落ちている。
目が合う――その瞬間、蔵馬は何も言わず、ほんのわずかに口元を緩めた。
「おはよう、葵」
声は中性的で透明感があり、起き抜けの空気を乱さない。
葵はその音に安心したように、小さく頷いた。
「……蔵馬」
寝起きの声のまま、彼女は首を傾げる。
そして、ふと自分の左耳に意識を向けた。膜が張ったようにぼんやりしていた感覚がない。
澄んだ音の世界が戻ってきた。
「耳が……治ってる……。もしかして、あなたが?」
葵は不思議そうに瞬きをしてから、彼を見る。
「いや、オレは何もしてない。時間が解決しただけだよ」
淡々とした口調。
その直後、蔵馬はそっと身を寄せ、彼女の肩に手を回した。
ゆっくりと、その体を引き寄せる。
葵の額が、彼の胸元に触れた。
布越しに伝わる体温。
そして、規則正しい心臓の声が澄んで聞こえる。
——とく、とく。
静かで、繊細で、温かい鼓動。
葵はしばらく、その音に耳を澄ませる。
「……あなたの音」
小さく呟いて、目を閉じる。
「聞いていると……また、眠ってしまいそうだわ」
蔵馬は目を細める。
そして一定の速度で、彼女の背をゆっくりと撫でる。
「眠っていいよ。今日は……きっとそういう日なんだ」
返事はない。
葵の呼吸が、再び少しずつ深くなっていく。
彼女を起こさぬよう、蔵馬は腕の角度をわずかに調整する。
花が横たわるような寝顔は、彼の意識を再びまどろみへと誘っていった。
次回は短編を更新して、本編の更新に戻ってきます。14章より過去のお話になります。そちらもご覧いただければ嬉しいです。