アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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第86話

午前10時。

銭湯の余熱をまだ残したまま、二人は蔵馬の部屋に戻ってきた。

 

ローテーブルの前に座るよう、葵に促す。そして彼は、その後ろに腰を下ろした。

おもむろに彼女の髪に手を伸ばすと、指先にさらりとした感触が返ってきた。

 

(乾いているな……)

 

湯上がりの湿り気はすでになく、ほのかな石鹸の香りが、日の光と混じっている。

手櫛で静かに整え、銀と赤の糸が織り込まれた結い紐を取る。

片側に流した髪をまとめ、ゆっくりと巻きつけていく。

結うというよりも、確かめるような手つき。

花色の髪に銀と赤が映えて、蔵馬は無意識に目元を緩めた。

 

「あなたは、本当に器用ね」

 

彼の所作を背後の気配で追いながら、葵はふっと微笑む。

 

「なんでもそつなくできるでしょう?できないことを探す方が、難しそうね」

 

蔵馬は小さく息を吐き、口唇の端をわずかに上げる。

『器用』という単語に紐づけられて、色々なことを思い出す。

 

「……確かに、葵よりは器用かもしれないね」

 

「ええ、それは間違いなく」

 

「長く生きているしね。人間界で3歳といえば、やっと線や丸が書けるようになる頃だ。それに比べたら、君は十分器用な方だ」

 

「あら。そのように前向きに言ってくれるのね」

 

「うん。10年後の葵がどうなっているか、興味がある」

 

蔵馬は結い紐をきゅっと締めながら、仕上がった全体像を見る。

深い眼差しは、葵に向けられながら、どこか先を同時に捉えていた。

そして言葉を続けた。

 

「……でもね。オレとしては、今のままの君でいてもいいと、思ってる」

 

「それはどうして?」

 

彼女が振り返る。当然の投げかけだった。

髪が揺れ、彼の手からするりと離れていった。その動きが、ゆっくりと見える。

 

「オレは……葵をかまうのが好きなんだ。君が器用になると、そういう機会が減るだろう?」

 

軽い調子で言いながらも、視線は逸らさない。

葵は一瞬だけ目を伏せ、それからそっと見つめ返した。

少しの照れと嬉しさが、同時に揺れている。

 

「そういう理由も……面白いわね。でも、きっと器用になっても、あなたが私をかまうのは、変わらないと思うわ」

 

蔵馬は短く息を漏らす。

 

(……よく、わかってるじゃないか)

 

言葉は口にせず、澄んだ瞳で葵を抱きしめていた。

このように純粋な反応を返してくる一瞬一瞬が、彼をくすぐる。

 

 

しばらくの沈黙のあと、葵がぽつりとつぶやいた。

 

「蔵馬……さっきから、少し気になることがあるの」

 

声の響きは穏やかだったが、どこか迷いを含んでいる。

 

「どうしたの?」

 

「耳が……なんだかおかしいの」

 

葵は小さく首をかしげた。指先がそっと左の耳に触れている。

 

 

「耳?」

 

蔵馬は一瞬だけ瞬きをし、それから落ち着いた声で言った。

 

「……少し触るよ」

 

膝を寄せ、彼女の両耳にそっと触れた。

見たところ、傷や炎症もなく、痛みを訴える様子もない。

 

「今、蔵馬は左から話しかけているでしょう?あなたの声が聞こえにくいの」

 

「……ふむ」

 

言葉の奥で、蔵馬の胸がふっと揺れた。

 

(これだから君は……)

 

原因はすぐに察したが、表情には出さない。

それでも、この純粋無垢な困惑があまりにも葵らしくて、もう少しだけ様子を見たくなる。

そんな小さないたずら心が、芽を出す。

 

「痛みはないんだよね?」

 

声を柔らかく落として、彼女の左耳に顔を近づける。

反応は薄い。

 

「……ええ」

 

「耳が塞がっているような感じがする?」

 

「そうね。なんだか、ぼわんとして遠くに聞こえるの」

 

葵は首を傾げ、耳をそっと押し、そして少し首を振った。

その仕草に、彼の表情は緩んでいく。

 

「……なるほど。いつからそうだった?」

 

「そういえば、温泉に入った後からね」

 

「……。」

 

蔵馬は顔を伏せ、口元を抑えた。もう忍耐は、限界のようだった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「蔵馬?」

 

「いや、うん……大丈夫」

 

彼はすっと真顔に戻り、何でもないと手を前に出した。

ひとつ息を置いてから、口を開いた。

 

「……ごめん。ちょっとからかってしまった」

 

「え?」

 

葵がゆっくりと瞬きをする。

 

「その違和感はね、温泉に入った時に、耳に湯が入ったんだよ。そのうち治る」

 

「そうなの?」

 

「……うん」

 

彼女の頭に軽く手を置いた。彼の指先が、花色の髪に沈む。

経験がないということは、このように純粋なものなのか。

 

「原因には、すぐ気づいてたんだけどね……。君の反応が、あまりにも新鮮で。つい、ね」

 

「初めてだから、わからなくて」

 

蔵馬は、心の中で短く息を吐いた。

何千年も生きてきた彼の心臓を、こうして鷲掴みにする無防備さ。

触れれば壊れそうな儚さを持ちながら、彼女の存在感は揺るぎない。

 

「これだから、オレは葵をかまうのが好きなんだ」

 

その言葉に、彼女は少し驚いたように目を見開き、それからふっと笑った。

 

「私にはよくわからないけど……。あなたが楽しそうにしているから、これでいいのよね」

 

返事の代わりに、蔵馬は彼女にしか見せない眼差しでふっと微笑んだ。

 

 

 

そのまま、部屋に静けさが戻る。秋の涼やかな風と、日の光が入る室内。

葵が口元を抑えて、小さなあくびをかみ殺した。

 

(そうだったな)

 

蔵馬は、彼女の瞼の重さと呼吸の深さに気づいていた。

夜明け前から湖畔にいて、銭湯へ寄り、ようやく家に戻ったのだ。

 

――彼女の体質を考えると、休ませたほうがいい。

ためらいなく目の前の体に腕を差し入れ、彼女を抱き上げた。

 

「え?」

 

突然視界が浮上する。

驚きの声は短く、抵抗はない。葵はそのまま、彼の胸元へ身を預けた。

ベッドの上にそっと下ろされ、スプリングがきしりと鳴った。

温泉上がりの火照った体を優しく受け止められ、彼女はほっと息を吐いた。

 

「休息の時間だよ」

 

穏やかで抑揚のある声が体に響き、葵は素直に体の力を抜く。

途端に眠気の合図がやってくる。

瞼が重たそうに下がり、彼女は蔵馬をわずかに見上げて微笑んだ。

 

「……ベッドから落ちないでね」

 

予想外の言葉に、彼女の下がりかけていたまつ毛が上を向く。

彼はいつも、壁側に葵を寝かせ、自分は反対側に眠っていた。

一応念のためにと。

――今は、理由があって蔵馬が壁側にいる。

 

「……私、寝相悪いの?」

 

「いや、深い意味はないよ」

 

そう答えながら、彼はそっと彼女を引き寄せた。

腕の中に収まる温もり。湯上がりの体は、まだほんのりと熱を帯びていて、いつもより彼女の香りが届く。

 

長い指先が、ゆっくりと髪を撫でる。大切なものを確かめるような、慎重な動き。

 

「……そう」

 

まどろみの中で、葵の声が漏れる。その音が、胸の奥に静かに落ちた。

蔵馬は彼女の肩を抱いた。頬が彼の胸元に触れ、呼吸が重なる。

 

葵の息が、次第に深くゆっくりと整っていく。

眠りへ落ちる、その境目。

蔵馬はその寝顔を見つめながら、短く内側で言葉を結ぶ。

 

(……どうしようもないな)

 

そっと額に口唇を落とす。

音も残らぬほど、静かに。今ここにある、重さと温度を感じるだけでいい。

 

蔵馬のまぶたも、静かに下りていく。その胸にあるのは、満ち足りた沈黙。

ただ隣にいる、それだけで。

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

おまけ♢

 

葵は、ゆっくりと目を開いた。

視界にまず差し込んだのは、白くやわらかな光だった。

カーテン越しの陽が、部屋の壁や床に淡く広がっている。

 

小さく瞬きをして、焦点を結び直す。すぐ隣に、蔵馬の気配があった。

彼は身動きひとつせず、静かに彼女を見守っていた。

癖のある長い髪が光を含み、伏せた睫毛の影が頬に落ちている。

 

目が合う――その瞬間、蔵馬は何も言わず、ほんのわずかに口元を緩めた。

 

「おはよう、葵」

 

声は中性的で透明感があり、起き抜けの空気を乱さない。

葵はその音に安心したように、小さく頷いた。

 

「……蔵馬」

 

寝起きの声のまま、彼女は首を傾げる。

そして、ふと自分の左耳に意識を向けた。膜が張ったようにぼんやりしていた感覚がない。

澄んだ音の世界が戻ってきた。

 

「耳が……治ってる……。もしかして、あなたが?」

 

葵は不思議そうに瞬きをしてから、彼を見る。

 

「いや、オレは何もしてない。時間が解決しただけだよ」

 

淡々とした口調。

その直後、蔵馬はそっと身を寄せ、彼女の肩に手を回した。

ゆっくりと、その体を引き寄せる。

葵の額が、彼の胸元に触れた。

 

布越しに伝わる体温。

そして、規則正しい心臓の声が澄んで聞こえる。

 

——とく、とく。

静かで、繊細で、温かい鼓動。

葵はしばらく、その音に耳を澄ませる。

 

「……あなたの音」

 

小さく呟いて、目を閉じる。

 

「聞いていると……また、眠ってしまいそうだわ」

 

蔵馬は目を細める。

そして一定の速度で、彼女の背をゆっくりと撫でる。

 

「眠っていいよ。今日は……きっとそういう日なんだ」

 

返事はない。

葵の呼吸が、再び少しずつ深くなっていく。

 

彼女を起こさぬよう、蔵馬は腕の角度をわずかに調整する。

花が横たわるような寝顔は、彼の意識を再びまどろみへと誘っていった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 




次回は短編を更新して、本編の更新に戻ってきます。14章より過去のお話になります。そちらもご覧いただければ嬉しいです。
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