蔵馬は夢を見ていた。
遥か幾千年も昔。
まだ獣の本能と理性の境界を渡り歩いていた記憶。
それは、原始的な魔界の銀ぎつねから、妖狐に進化した頃のことだった。
漆黒の森。
光はほとんど届かず、湿った土の匂いが満ちている。
風すら息をひそめた魔界の奥地で、彼は初めて植物が「応える」感覚に目覚めた。
草木がざわめく。
葉擦れの音が、まるで意思を持つかのように彼の五感に触れてくる。
それは
植物そのものが、この男を受け入れようとしていた。
蔵馬は、静かに息を吐く。
(……これが、オレの能力か……)
彼は幾つもの植物に触れた。
鋭利な竹、毒を宿した蔓、花びらすら刃となる草花。
いずれも利便性があり、一瞬で形を変え、彼の意志に応えて武器と化した。
だが、どれも決定的ではなかった。
腑に落ちるまでが、どこか遠い。
――もう少し、手に吸い付くほど馴染むものがあるはずだ。
感覚の延長になるものが。
そして、ある日。
風化した岩陰に、それはあった。
ひと房の野生の薔薇。
深紅。
ただの赤ではない、暗闇に溶けるような紅色。
鋭く伸びた茨と、わずかに震える花びら。強さと儚さが、奇妙な均衡で同居している。
蔵馬は足を止めた。風が立ち込め、長い銀髪を流す。
それは「共鳴した」としか言いようがない。
彼の中の何かが、静かにその花へ手を伸ばすようにと。
その瞬間、茨がざわめいた。
蠢きながら、彼の手に絡みつくように茎が伸びる。
――鞭の形を成していた。
空気を裂くほどの緊張を宿した棘。
蔵馬は目を細め、その感触を確かめる。
(……お前とは、相性がいい)
鋭さを内包しながらも、優美で。
他を寄せつけぬ孤高さを持ちながら、強く、しなやかで、ただ「そうある」存在。
それは、蔵馬自身の生き方そのものだった。
そのとき、ふわりと風が揺れ、彼の背後に突然気配が現れる。
魔界の腐葉土に混じる、清らかな花の香気。
「……蔵馬」
瑞々しく、柔らかい声が、彼の名を呼んだ。
眉一つ動かさず、男はゆっくりと振り向いた。
曖昧な世界に、彩が増す。
淡い光を宿すような花色の髪、透き通るような瞳、そして柔らかい佇まい。
この場所には、あまりに異質な存在だった。
「葵か……」
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「ということは、またオレは夢を見ているんだな」
「ええ。あなたに会いに来たの」
彼女はそう言って、躊躇いなく近づいてくる。
蔵馬は警戒せず、涼やかな目で受け止めた。
互いの距離は、手を伸ばせばすぐに捕まえられるほど。
「ここが……あなたの記憶?」
「そうだ。お前の記憶とは違う。これは……オレがオレになる前の遠い時間だ」
葵は周囲を見回し、小さく息を吸う。
「……不思議ね。静かで、少し涼しいのに……どこか温かいわ」
彼女は足元の土にそっと膝をつき、指先で岩陰から伸びた一輪の小さな薔薇に触れる。
棘のある茨が彼女に皮膚を裂くことはなく、ただ静かにそこに在る。
「こんなに鋭いのに……痛くないわ」
「それは、お前が傷つけようとしないからだ」
その言葉は、風に紛れるような静けさの中をたゆたう。
荘厳な存在感と気品のある声は、空間を震わせる。
葵は顔を上げて、蔵馬を見つめる。
その瞳の奥にある彼の孤独と、選んだ道が映りこむのを感じた。
「ここは、オレの始まりだ」
一歩彼女に近づき、蔵馬は言葉を続ける。
「誰にも縛られず、己の意志に従い、ただ生き抜くだけの時間だった」
「それは……今も、そう?」
「……。」
真っすぐ彼を見上げる問いは、純粋で柔らかい。そして核心を突いていた。
蔵馬は答えなかった。
ただ、自らの指先を見下ろして、ふっと目を細めた。
(……今は)
この薔薇のように鋭く、孤高でありながらも。
触れてくる意志があれば、静かに応えることもできるのだと。
彼は、葵によって知ってしまったのだ。目を背ける必要がないほどに。
「蔵馬。あなたは……ずっと、ひとりだったの?」
葵の声は、風のざわめきとともに届いた。
彼の胸の奥深くを、そっと撫でる。
風が茨を撫で、遠くの木々が微かにざわめく。その静けさに、彼の答えがにじむ。
「……そうかもしれないな」
低く整った声が落ちる。
「誰かと「ある」より、誰にも染まらず、「在る」ことを選んできた」
魔界の乾いた風が彼の銀髪をなぞり、白装束が揺れる。
葵は立ち上がり、歩み寄った。
足元の薔薇の花びらが柔らかく沈み、かすかな香りが立つ。
「寂しくはなかった?」
葵は、まっすぐに彼を見つめた。
逃げ場を与えないが、責める色もない。彼女にしかできない聞き方だった。
蔵馬は息を整えた。
「感情を感じるような心を持つには、少し時間がかかった」
皮肉でも誇張でもなく、それは事実だった。
その語尾に、ほんのわずかな余白が残る。
「今は……感じる?」
蔵馬の月華の双眸が、まっすぐ彼女に向けられた。
そこに映る彼女自身を、どこまでも大切に抱くように。
「……お前がいる」
明確な短い言葉。その一言で十分だった。
「夢の中でさえ、心が揺れる。それが答えだ」
葵の花色のまつ毛がふるりと震え、瞳の奥に光が滲む。
涙になる前に、彼女は微笑んだ。花がひらくような、柔らかな笑み。
「じゃあ、もっと揺らしてもいいかしら?」
「……お手柔らかにな」
二人の間に、微笑みが生まれる。
夢の中なのに、その穏やかな温もりは確かだった。
葵の視線が、彼の手元へ移る。
絡みつく薔薇の茨。静かな熱と麗しさを帯びている。
彼女の星を宿したような瞳が、暗い空の下で煌めく。
「私も……武器にできるのかしら?」
その瞬間、蔵馬の指先がわずかに動いた。
茨に触れた皮膚に、かすかな痛みが走るようだった。
「……お前に、それはしたくない」
即答だった。
「そう?」
「理論上はできる」
蔵馬は一度、視線を落とす。
右手に馴染む茨がかすかに震えていた。
「だが……オレは、それを望まない。そして、できない。お前を操ることは、オレの妖気で無理やり咲かせることは……」
(……それでいい)
かつて、葵に触れた瞬間に悟った感覚が、胸の奥で静かに息づく。
――この花は、自分の妖気でコントロールできないと。
初めて、自分の力が及ばなかった花。
沈黙が空間を支配する。
しばらくして、その支配が柔らかく散った。
「ふふ……。そうね、忘れてたわ」
葵は肩をすくめるように、小さく笑った。
「私、戦いに向いてないんだったわ。あなたが武器にできないのは、当然ね」
蔵馬は目を細め、口の端をわずかに引き上げた。
否定も肯定もせず、ただその言葉を受け取る。
「……夢の中でも、葵は変わらないんだな」
「蔵馬。今、思い出し笑いしてるでしょ?」
「……フ。南野秀一の時ほどじゃない」
そのやり取りが、妙に心地よかった。
葵はくすくすと笑いながら近づき、彼の間合いに自然と入る。
蔵馬の胸の奥に、緩やかな熱が差し込む。
「ねぇ、蔵馬」
名を呼ぶ声は、深い森の静寂と同じ気配。
彼は言葉無く、そっと腕を伸ばした。
抱き寄せ、その肩に顔をうずめ、深く息を吸い込む。
甘く、温かく、どこか懐かしい香り。
「……あなたが、薔薇と相性が良かった理由が、わかったわ」
「……そうか。なら、教えてくれ。お前の言葉で」
波紋が広がるように囁く声。
葵は目を細め、彼の手元を見る。
茨がほどけ、赤い薔薇へと戻っていく。
「あなたは、美しさと同時に、痛みを超えることを知っているからよ」
「……。」
その言葉に、蔵馬の胸が静かに震えた。
何も言わず、彼女を抱く腕に、わずかに力を込めた。
(……なるほど。オレはこの姿でも、お前にかなわない)
たとえこの場所が、夢の層であっても。
彼女がそこに在る限り、彼は在り続ける。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
夜がほどけ、東の空にわずかな青白い気配がにじみ始めた頃。
蔵馬は静かに目を開けた。
人間界のいつもの部屋。薄明の光が、視界にやわらかく差し込む。
夢の残り香が漂っている中、数度瞬きをするうちに、意識が現実へと整っていった。
深い眠りから覚めたその瞬間、彼の中にあったのは、研ぎ澄まされた妖狐の感覚だった。
空気の温度、微かな匂い、遠くで鳴く鳥の声、磁力の流れ。
そして、体内を巡る妖気が、冴えて均一だ。
その静かな違和に気づきながら、蔵馬はゆるやかに首を巡らせた。
隣には、背を丸めて眠る葵の姿がある。
規則正しい寝息の音が、彼の脳髄の奥にまで届くようだった。
彼は、そっと体を傾ける。
彼女の温もりを確かめるように、腕を伸ばしたそのとき。
視界の端に、ゆるやかに流れる銀の髪が映り込んだ。
(……そういうことか)
昨夜は――南野秀一の姿だった。
バイオリズム的にもそろそろだと思っていたが、眠っている間に変化していたのは初めてだった。
これも夢の余韻か、続きなのか。
(……)
理由を探るのはやめた。
今は、洞察よりも優先したいものがある。
蔵馬は静かに、葵を腕の中へと引き寄せた。
小さな体が胸元に収まり、ほのかに体温を伝えてくる。
首筋に、口唇が触れる。
ひやりとした肌の奥に、命の熱があった。
——生きている。
この花が、間違いなくこの世界に根ざしている。
どこか懐かしい安息の香りが、呼吸に混じる。
夢の中でも現実でも、葵は彼の奥深くに触れてくる。
意図も策もなく、ただ自然に。
それが何度目かは、もう数えなかった。
(お前は……面白い存在だな)
書いてみたかった蔵馬の武器がどうして薔薇なのかという話し。夢の中なので、妖狐の蔵馬に少し多く語らせてみました。原作当日は、妖狐の蔵馬がいまいちピンとこなかったのですが、今は妖狐あっての蔵馬が実に蔵馬らしいと思っています。