その時、葵の体がわずかに動いた。
寝返りを打とうとしたのだろう。背中が彼の胸に触れ、行き場を失う。
妖狐の逞しい体は、逃げ道を作らなかった。
小さく声が漏れる。
「……ん」
蔵馬は何も言わず、成り行きに任せることにした。
この姿を見て、彼女がどう反応するか——それも、受け止めるつもりだった。
寝起きの淡い意識のもと、葵は自分の体に回された腕に気づく。
瞼を持ち上げ、背後を確かめるように、ゆるやかに振り返った。
青白い光の世界。
流れるような銀髪、月華の双眸。
冷徹で美しく、どこか遠いものを纏った妖狐の蔵馬の姿だった。
瞬きひとつで夢と現実の境を超えたような、静かな沈黙が訪れた。
そして、葵は驚かなかった。
いつものように、ふわりと花のように微笑んだ。
(やはり……お前は、面白い)
蔵馬は、夜と朝のはざまの光の中で、彼女の頬に指を這わせた。
陶器に触れるような繊細な動作。
その柔らかさに、彼の呼吸がひとつ深くなる。
「蔵馬………夢の続きのようね」
目を細めながら、葵が囁く。
「……夢?」
蔵馬の眉がわずかに動いた。
「ええ。私が見ていた夢のあなたは、妖狐の姿だった」
「……そうか」
いつもより低く、高潔で涼やかな声。
彼は内容を尋ねることはしなかった。
同じ夢を見ていたかどうかは、重要ではない。
今、彼女がここにいる。それが何よりも事実だった。
「オレも……葵の夢を見ていた。お前は、夢の中でも……変わらず、お前らしかった」
「それは、どういう意味?」
「……そのままの意味だ」
蔵馬は言葉を切り、距離を詰める。
朝の空気に溶けるように、葵の口唇に口づけた。
ひそやかで、温かく、深くなりかけて——ふっと、理性の手綱を引き戻す。
「……この姿では、自制が効きにくい」
口唇が離れても、頬に添えた手は放さない。
彼は小さく息を整える。
「今はこれで……とどめておく」
「ふふ。学校までにその姿、戻れそう?」
冗談めかした問いかけに、蔵馬はひと時の間、目を伏せた。
「………戻れなければ、休むまでだ」
その真顔に、葵がふわりと笑った。
朝露がこぼれるような、澄んだ顔。
「それじゃあ……今日は特別な朝ね」
彼は返事をせず、彼女の髪をそっと撫でた。
指の間をすり抜ける細い象牙色の髪に、花の香りの余韻が残る。
夢よりも確かで、現実よりも柔らかい。
彼女の存在そのものだった。
次の瞬間だった。不意に、葵の手が伸びてきた。
時間が引き伸ばされたように、ゆっくりと蔵馬の頬に触れる。
指先が輪郭をなぞる。
そのまま額へ、髪へ――銀の流れを梳くように。
やがて、その動きの途中で。
何の意図もなく、ただそこに在ったものに触れるように。
柔らかな指先が、獣の耳をかすめた。
ぴくり、と。
反射的に、蔵馬の耳がわずかに揺れた。
空気が、止まる。
彼は目を伏せ、呼吸をひとつ、深く落とした。
口唇を結び、内側で何かを押し留めるように。
(オレは………この姿で、なお理性を試されているのか)
目の前の人は、何も知らぬ顔で、いつものように微笑んでいる。
その瞳には、悪意も下心も一切ない。
ただ、愛おしいものに触れているだけの、無垢な手つき。
「あなたは、どのあなたも……気高くて、美しいわ」
「……。」
吐息に近い声。
花が朝露に触れたときのような、柔らかな響き。
蔵馬の内で、理性が音もなく崩れかける。
(もう、これ以上は……)
彼は無言のまま、葵の手首をそっと包み、そのまま体ごと引き寄せる。
抱擁は強くない。
ただし、胸の奥から湧き上がるものを、収めるように彼女ごと包む。
「……まだ朝には、早い」
荘厳で涼やかな声は、少し掠れていた。
自分に言い聞かせるようでもあり、彼女への宣言でもあった。
「もう少し……休む」
葵は一瞬、彼を見上げた。
瞼を閉じた蔵馬の冷徹な顔は、何かを語っているようで、もう何も語らなかった。
彼女はふっと息を漏らすと、彼の胸に額を預ける。
それは、沈黙の同意だった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
微かな寝息が、腕の中で整っていく。
葵は再びまどろみに沈み、体の重みをすべて預けてきた。
その温もりが、蔵馬の感覚を今へと引き戻す。
(……夢ではない、か)
彼は目を閉じたまま、呼吸を深く整えた。
妖気の流れを、内側から観測する。昂りはまだあるが、制御は可能だ。
意識を一段深める。
妖狐の姿は、蔵馬にとって「妖怪の本質」であると同時に、南野秀一としての肉体もまた、人間界で手にした「もう一つの現実」だった。
どちらも彼自身で、切り離せるものではない。
そして――腕の中に眠るこの存在が、彼に選ばせる。
(……戻る理由は、もう十分だ)
懐に収めていた体から腕を解くと、蔵馬は音を立てずに身を起こした。
一度彼女の寝顔に視線をとどめる。葵は安らかに眠ったまま。
ベッドの端に腰を下ろし、ゆっくりと瞼を閉じる。
意識の奥底で、妖気を収束させていく。一滴の水が、水面に落ちるように。
銀の髪がふわりと揺れ、風のない室内に小さな空気の渦が生まれた。
白銀の尾が霞のように溶け、耳の輪郭が徐々に人の形へ。
細胞が、骨格が、魔界の形を脱ぎ、人間の青年へと再構成されていく。
痛みはない。内と外が均衡を取り戻す感覚が馴染んでいく。
南野秀一としての姿を取り戻す頃、背後で布がかすかに擦れる音がした。
「ん……」
夢と現の境目にいるような声。
眠る前とどこか空気が違うと感じながら、葵はぼんやりと目を開ける。
「……蔵馬?」
呼び声に男は振り返り、微笑んだ。
身をかがめて、彼女の頬に手を添え、温度を確かめる。
「……おはよう」
中性的で繊細な声が届く。
葵は彼の顔を見上げる。
そこには、先ほどまでの銀の輝きではなく、優しい青年の姿。
その奥には、同じ深淵を持つ。
ふっと花のように微笑むと、彼女は蔵馬の胸に手を置いた。
命の拍動が響き、伝わる。
「私は……いろんなあなたを知ってるのね」
蔵馬は一瞬、視線を逸らして。それから、彼女の髪を撫でた。
「ああ……。知ってくれる人がいるのは、良いものだね」
カーテンの隙間から、朝の陽光がほんのりと差し込む。
蔵馬は葵の目に映る光を見つめながら、胸の内に浮かぶ言葉を流した。
(この世界の中で、共に生きていく……)
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
魔界D地区郊外のよろず屋。
普段通りに仕事をしていた葵は、わずかな不調を覚えながら、深く息を吐いた。
――体の奥が、すっきりしない。
明確な症状はないのだが、自分の内側に何かが張り付いたような感覚が、ここ数日続いていた。
のども乾かず、時折気だるさが押し寄せてくる。
(疲れてるだけ……?)
そう思いながら、数日が過ぎていった。
しかし、回復の兆しはなかった。
むしろ、日ごとに体の内側が鈍く曇っていく感覚が強まっていった。
週が明け、人間界へ足を向けたその時だった。
移動の途中、ふと視界に入った自分の手の甲。
白い皮膚の上に、煤を落としたような黒い斑点が浮かんでいる。
「………これは」
思わず、指先でなぞる。
感覚はある。痛みはないが――これは、今までにない症状。
その瞬間、頭に浮かんだのは、かの人の顔だった。
誰かに移すかもしれない。でも、彼ならきっと、何か分かるはず。
葵は人目を避け、並木道の奥へ入った。
高い枝の上に身を潜め、静かに体を預ける。
風が葉を揺らし、柔らかな影が肌の上を流れた。
ぼんやりとした意識の中、彼の言葉がよみがえる。
――花の妖怪である君は、おそらく免疫機能が弱い。
――だから、体の変化には敏感でいたほうがいい。
(蔵馬の知識は、奥深くて的確ね……)
昼下がりの陽が枝葉の隙間から差し込み、視界が白く滲む。
瞼が下がり、そのまま意識が沈みかけたときだった。
「こんなところで、昼寝してるの?」
聞きなれた理知的で柔らかい声。
「……っ?」
目を開けると、すぐ隣の枝に気配もなく蔵馬が姿勢よく腰を下ろしていた。
人当たりの良い微笑みを携えた、いつもの彼。
「やあ」
葵は一瞬、言葉を探し――すぐに首を振った。
「……蔵馬。急ぎで、聞きたいことがあるの。その前に……もしかしたら感染症かもしれないから、少し離れたほうが」
「ん?」
言葉の途中で口をはさみ、彼の視線が葵の首元に留まる。
襟の隙間から覗く、黒い煤状の斑点。
蔵馬の表情が、わずかに引き締まった。
「葵……。どうしたんだ、これは」
「何かできてる?」
「首に、黒い点状の皮膚症状がある。どこか他にも?」
「……今、現れ出したの」
そう言って、手の甲を見せた。
黒い模様は、静かに、服の下で広がりつつあった。
蔵馬は無言で彼女の手を取り、籠手を外す。
その指は冷静で、迷いがない。
(広がっているな)
腕にも同じ影が散っているのを確認すると、彼は短く息を吐いた。
「他に症状はある?」
「少しだるいのが、1週間前から続いていたわ」
蔵馬は指先で、そっと彼女の首筋に触れた。
案の定、いつもの彼女の温度よりも明らかに高い。
「……熱もあるね。最近、今まで行ったことのない森に入った覚えは?」
葵は一瞬考え、頷いた。
「……ええ。だるさが出る直前に行ったわ」
蔵馬は口元に手をやりながら、思考の淵へ沈む。
その間、ほんの数秒。風が葉を鳴らす音が流れた。
やがて、ふっと微笑みながら葵を見た。
「なるほど。オレの見立てだと、これは一般的な感染症じゃない。ただ君特有の体質で起こるものだから、しっかり治さないとね」
「ほかの人に、移らない?」
「心配いらないよ」
葵は少し長めに息をつき、肩の力を抜いた。
「治療は必要だ。今日は無理をしないほうがいい」
「……主治医の判断に従います」
「賢明だ」
枝の間を抜ける光が、二人の間に静かに落ちる。
蔵馬はもう一度、彼女の手を見つめた。
(……間に合ったな)
言葉にはせず、そう結論づける。
そして、彼は彼女の肩に手を添えた。
「移動しながら説明するよ」
AI画像生成では、籠手ありだとバランスが崩れるので、籠手なしで作っております。