アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

88 / 90
第88話

その時、葵の体がわずかに動いた。

寝返りを打とうとしたのだろう。背中が彼の胸に触れ、行き場を失う。

妖狐の逞しい体は、逃げ道を作らなかった。

 

小さく声が漏れる。

 

「……ん」

 

蔵馬は何も言わず、成り行きに任せることにした。

この姿を見て、彼女がどう反応するか——それも、受け止めるつもりだった。

 

寝起きの淡い意識のもと、葵は自分の体に回された腕に気づく。

瞼を持ち上げ、背後を確かめるように、ゆるやかに振り返った。

 

 

【挿絵表示】

 

 

青白い光の世界。

流れるような銀髪、月華の双眸。

冷徹で美しく、どこか遠いものを纏った妖狐の蔵馬の姿だった。

 

瞬きひとつで夢と現実の境を超えたような、静かな沈黙が訪れた。

そして、葵は驚かなかった。

いつものように、ふわりと花のように微笑んだ。

 

(やはり……お前は、面白い)

 

蔵馬は、夜と朝のはざまの光の中で、彼女の頬に指を這わせた。

陶器に触れるような繊細な動作。

その柔らかさに、彼の呼吸がひとつ深くなる。

 

「蔵馬………夢の続きのようね」

 

目を細めながら、葵が囁く。

 

「……夢?」

 

蔵馬の眉がわずかに動いた。

 

「ええ。私が見ていた夢のあなたは、妖狐の姿だった」

 

「……そうか」

 

いつもより低く、高潔で涼やかな声。

彼は内容を尋ねることはしなかった。

同じ夢を見ていたかどうかは、重要ではない。

今、彼女がここにいる。それが何よりも事実だった。

 

「オレも……葵の夢を見ていた。お前は、夢の中でも……変わらず、お前らしかった」

 

「それは、どういう意味?」

 

「……そのままの意味だ」

 

蔵馬は言葉を切り、距離を詰める。

朝の空気に溶けるように、葵の口唇に口づけた。

 

ひそやかで、温かく、深くなりかけて——ふっと、理性の手綱を引き戻す。

 

「……この姿では、自制が効きにくい」

 

口唇が離れても、頬に添えた手は放さない。

彼は小さく息を整える。

 

「今はこれで……とどめておく」

 

「ふふ。学校までにその姿、戻れそう?」

 

冗談めかした問いかけに、蔵馬はひと時の間、目を伏せた。

 

「………戻れなければ、休むまでだ」

 

その真顔に、葵がふわりと笑った。

朝露がこぼれるような、澄んだ顔。

 

「それじゃあ……今日は特別な朝ね」

 

彼は返事をせず、彼女の髪をそっと撫でた。

指の間をすり抜ける細い象牙色の髪に、花の香りの余韻が残る。

夢よりも確かで、現実よりも柔らかい。

彼女の存在そのものだった。

 

 

次の瞬間だった。不意に、葵の手が伸びてきた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

時間が引き伸ばされたように、ゆっくりと蔵馬の頬に触れる。

指先が輪郭をなぞる。

そのまま額へ、髪へ――銀の流れを梳くように。

 

やがて、その動きの途中で。

何の意図もなく、ただそこに在ったものに触れるように。

柔らかな指先が、獣の耳をかすめた。

 

ぴくり、と。

反射的に、蔵馬の耳がわずかに揺れた。

 

空気が、止まる。

彼は目を伏せ、呼吸をひとつ、深く落とした。

口唇を結び、内側で何かを押し留めるように。

 

(オレは………この姿で、なお理性を試されているのか)

 

目の前の人は、何も知らぬ顔で、いつものように微笑んでいる。

その瞳には、悪意も下心も一切ない。

ただ、愛おしいものに触れているだけの、無垢な手つき。

 

「あなたは、どのあなたも……気高くて、美しいわ」

 

「……。」

 

吐息に近い声。

花が朝露に触れたときのような、柔らかな響き。

蔵馬の内で、理性が音もなく崩れかける。

 

(もう、これ以上は……)

 

彼は無言のまま、葵の手首をそっと包み、そのまま体ごと引き寄せる。

抱擁は強くない。

ただし、胸の奥から湧き上がるものを、収めるように彼女ごと包む。

 

「……まだ朝には、早い」

 

荘厳で涼やかな声は、少し掠れていた。

自分に言い聞かせるようでもあり、彼女への宣言でもあった。

 

「もう少し……休む」

 

葵は一瞬、彼を見上げた。

瞼を閉じた蔵馬の冷徹な顔は、何かを語っているようで、もう何も語らなかった。

 

彼女はふっと息を漏らすと、彼の胸に額を預ける。

それは、沈黙の同意だった。

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

微かな寝息が、腕の中で整っていく。

葵は再びまどろみに沈み、体の重みをすべて預けてきた。

その温もりが、蔵馬の感覚を今へと引き戻す。

 

(……夢ではない、か)

 

彼は目を閉じたまま、呼吸を深く整えた。

妖気の流れを、内側から観測する。昂りはまだあるが、制御は可能だ。

意識を一段深める。

 

妖狐の姿は、蔵馬にとって「妖怪の本質」であると同時に、南野秀一としての肉体もまた、人間界で手にした「もう一つの現実」だった。

どちらも彼自身で、切り離せるものではない。

 

そして――腕の中に眠るこの存在が、彼に選ばせる。

 

(……戻る理由は、もう十分だ)

 

 

懐に収めていた体から腕を解くと、蔵馬は音を立てずに身を起こした。

一度彼女の寝顔に視線をとどめる。葵は安らかに眠ったまま。

ベッドの端に腰を下ろし、ゆっくりと瞼を閉じる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

意識の奥底で、妖気を収束させていく。一滴の水が、水面に落ちるように。

 

銀の髪がふわりと揺れ、風のない室内に小さな空気の渦が生まれた。

白銀の尾が霞のように溶け、耳の輪郭が徐々に人の形へ。

細胞が、骨格が、魔界の形を脱ぎ、人間の青年へと再構成されていく。

痛みはない。内と外が均衡を取り戻す感覚が馴染んでいく。

 

南野秀一としての姿を取り戻す頃、背後で布がかすかに擦れる音がした。

 

「ん……」

 

夢と現の境目にいるような声。

眠る前とどこか空気が違うと感じながら、葵はぼんやりと目を開ける。

 

「……蔵馬?」

 

呼び声に男は振り返り、微笑んだ。

身をかがめて、彼女の頬に手を添え、温度を確かめる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「……おはよう」

 

中性的で繊細な声が届く。

葵は彼の顔を見上げる。

そこには、先ほどまでの銀の輝きではなく、優しい青年の姿。

その奥には、同じ深淵を持つ。

 

ふっと花のように微笑むと、彼女は蔵馬の胸に手を置いた。

命の拍動が響き、伝わる。

 

「私は……いろんなあなたを知ってるのね」

 

蔵馬は一瞬、視線を逸らして。それから、彼女の髪を撫でた。

 

「ああ……。知ってくれる人がいるのは、良いものだね」

 

カーテンの隙間から、朝の陽光がほんのりと差し込む。

蔵馬は葵の目に映る光を見つめながら、胸の内に浮かぶ言葉を流した。

 

(この世界の中で、共に生きていく……)

 

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

 

魔界D地区郊外のよろず屋。

普段通りに仕事をしていた葵は、わずかな不調を覚えながら、深く息を吐いた。

 

――体の奥が、すっきりしない。

明確な症状はないのだが、自分の内側に何かが張り付いたような感覚が、ここ数日続いていた。

のども乾かず、時折気だるさが押し寄せてくる。

 

(疲れてるだけ……?)

 

そう思いながら、数日が過ぎていった。

しかし、回復の兆しはなかった。

むしろ、日ごとに体の内側が鈍く曇っていく感覚が強まっていった。

 

週が明け、人間界へ足を向けたその時だった。

移動の途中、ふと視界に入った自分の手の甲。

白い皮膚の上に、煤を落としたような黒い斑点が浮かんでいる。

 

「………これは」

 

思わず、指先でなぞる。

感覚はある。痛みはないが――これは、今までにない症状。

 

その瞬間、頭に浮かんだのは、かの人の顔だった。

 

誰かに移すかもしれない。でも、彼ならきっと、何か分かるはず。

 

葵は人目を避け、並木道の奥へ入った。

高い枝の上に身を潜め、静かに体を預ける。

風が葉を揺らし、柔らかな影が肌の上を流れた。

 

ぼんやりとした意識の中、彼の言葉がよみがえる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

――花の妖怪である君は、おそらく免疫機能が弱い。

――だから、体の変化には敏感でいたほうがいい。

 

(蔵馬の知識は、奥深くて的確ね……)

 

昼下がりの陽が枝葉の隙間から差し込み、視界が白く滲む。

瞼が下がり、そのまま意識が沈みかけたときだった。

 

「こんなところで、昼寝してるの?」

 

聞きなれた理知的で柔らかい声。

 

「……っ?」

 

目を開けると、すぐ隣の枝に気配もなく蔵馬が姿勢よく腰を下ろしていた。

人当たりの良い微笑みを携えた、いつもの彼。

 

「やあ」

 

 

【挿絵表示】

 

 

葵は一瞬、言葉を探し――すぐに首を振った。

 

「……蔵馬。急ぎで、聞きたいことがあるの。その前に……もしかしたら感染症かもしれないから、少し離れたほうが」

 

「ん?」

 

言葉の途中で口をはさみ、彼の視線が葵の首元に留まる。

襟の隙間から覗く、黒い煤状の斑点。

蔵馬の表情が、わずかに引き締まった。

 

「葵……。どうしたんだ、これは」

 

「何かできてる?」

 

「首に、黒い点状の皮膚症状がある。どこか他にも?」

 

「……今、現れ出したの」

 

そう言って、手の甲を見せた。

黒い模様は、静かに、服の下で広がりつつあった。

蔵馬は無言で彼女の手を取り、籠手を外す。

その指は冷静で、迷いがない。

 

(広がっているな)

 

腕にも同じ影が散っているのを確認すると、彼は短く息を吐いた。

 

「他に症状はある?」

 

「少しだるいのが、1週間前から続いていたわ」

 

蔵馬は指先で、そっと彼女の首筋に触れた。

案の定、いつもの彼女の温度よりも明らかに高い。

 

「……熱もあるね。最近、今まで行ったことのない森に入った覚えは?」

 

葵は一瞬考え、頷いた。

 

「……ええ。だるさが出る直前に行ったわ」

 

蔵馬は口元に手をやりながら、思考の淵へ沈む。

その間、ほんの数秒。風が葉を鳴らす音が流れた。

やがて、ふっと微笑みながら葵を見た。

 

「なるほど。オレの見立てだと、これは一般的な感染症じゃない。ただ君特有の体質で起こるものだから、しっかり治さないとね」

 

「ほかの人に、移らない?」

 

「心配いらないよ」

 

葵は少し長めに息をつき、肩の力を抜いた。

 

「治療は必要だ。今日は無理をしないほうがいい」

 

「……主治医の判断に従います」

 

「賢明だ」

 

枝の間を抜ける光が、二人の間に静かに落ちる。

蔵馬はもう一度、彼女の手を見つめた。

 

(……間に合ったな)

 

言葉にはせず、そう結論づける。

そして、彼は彼女の肩に手を添えた。

 

「移動しながら説明するよ」

 

 




AI画像生成では、籠手ありだとバランスが崩れるので、籠手なしで作っております。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。