二人は蔵馬の部屋に向かった。
秋の日差しが差し込む室内は、空気まで柔らかく穏やかだった。
彼はローテーブルを挟んで、葵の向かいに腰を下ろす。
彼女の手の甲を取り、指先でそっと角度を変えて観察する。黒い煤のような斑点が、白い肌の上で静かに広がっていた。
一瞬、目が伏せられる。
短く息を吐いてから、彼は結論を口にした。
「やはり、
淡々とした声に、葵は視線をあげる。
「黒い病斑が出る植物特有の感染症だ。植物以外の妖怪には移らないし、もちろん人間にも影響はない」
その言葉に、彼女は少しだけ肩の力を抜いた。
ふっと呼吸を整えると、改めて自分の手を観察する。
「出先で、植物から移ったのかもしれないね。魔界の黒星病は、症状が軽いうちに対処すれば簡単に治療できる。ただ、罹患して症状が進むと枯れてしまうんだ。オレの所に来たのは正解だったよ」
そう言って、蔵馬は彼女の手を離した。
次に彼女の髪に指を通す。指先に伝わる感触は、花がしおれたように軽い。
顔をのぞきこめば、口唇の縦の線が目立ち、目元も少しくぼんでいる。
「最近、水分をとってなかったんじゃないか?」
「……ええ。喉が乾くという感覚がなかったの」
倦怠感が思考と感覚を鈍らせ、練薬を飲むのも忘れていた。
「君の場合、水分が不足すると光合成の効率が落ちる。気を付けるといいよ」
蔵馬はグラスに水を注ぎ、彼女の前に差し出した。
葵は一口含んだ瞬間、はっとしたように目を瞬かせる。
体の奥から、忘れていた渇きが一気に蘇る。そのまま、ゆっくりと飲み干した。
「……おいしい」
ほんのりとする清涼感。
魔界の香草が溶け込んだ、彼特製の薬水だった。
その反応を確認すると、蔵馬はグラスを引き取り、次に紺色のパジャマを手渡した。
「はい、着替え」
「……?」
葵は手に取ったものを、無言で眺める。
「今日は、ゆっくり休んでいくように」
「え?」
見上げた目はやや潤んでいた。予想通り、体温がさらに上昇しているだろう。
やや誘導的だが、この人はここまでしないと体の状態に気づかないから。
蔵馬は涼しげな眼差しで、念を押した。
「主治医の判断に従うんだろう?」
「……わかったわ」
彼が1階で薬草の調合の準備をしている間、着替えを終えて、葵はその場に腰を下ろした。
途端に体の力が抜けて、ふっと瞼が下がってくる。
膝を立て、腕を枕のように組むと、そこに頭を預けた。
(私は、こうやって何度蔵馬に助けてもらっただろう……)
この空間も、香りも、空気の流れさえも、今の葵にとっては安堵そのものだった。
感謝の想いと体の熱が混ざり合い、意識を曖昧にしていく。
一方、蔵馬は薬草の準備を始めた。
根を洗い、葉を選別し、必要な分だけを取り分ける。
(進行は初期段階……間に合う)
支度を終えて、彼が部屋に戻ると――。ベッドの横。
葵は膝を抱えたまま、うとうとしていた。
頬はうっすらと紅を帯び、呼吸は穏やかに揺れている。
そのまま眺めていたい。
横になって休ませたい。
二つの気持ちが一瞬拮抗する。
(……素直だな)
張っていた気が緩んだのだろう。
少なくとも自分の前では、隙のある彼女でいることに目元がふっと和らぐ。
机の上に物品を置くと、蔵馬は静かに膝を折り、彼女の正面に座る。
(……)
無防備で無垢な姿に、言葉が出てこなかった。しかし、想いは確実に胸の奥の温度を立ち上がらせる。
音もなく、時間が流れていく。
しばらくして、彼は葵の肩に手を添えた――起きる気配は、ない。
(仕方がないか)
蔵馬は彼女の体を腕に包み込んだ。
肌の接触と涼やかな匂いに、ようやく体が反応した。
「………ん」
「……ごめん。起こしたね」
「………私、寝ていたのね」
間近でとろんとした瞳が、彼を見上げる。先ほどより、やはり体温が少し高い。
「今薬を作るから、横になっているといいよ」
「……このまま、待ってるわ。蔵馬が作業しているのを見ているの、好きなの」
「……。」
一瞬、言葉を続けようとして彼は舌の動きを止めた。
そして代わりの言葉を贈った。
「眠たくなったら、寝るんだよ」
「ええ」
彼女は自分の腕に顔を乗せたまま、彼の動きを静かに追った。
机上で根をすりつぶす低い音、葉を刻む乾いた音、慎重に薬草を合わせる正確な手つき。
全てが洗練されていた。
独特の土の香りに混ざって、草の青い匂いが鼻をくすぐる。
部屋の空気が、森のような静けさに包まれてゆく。
その匂いを心地よく感じられるのは、今の彼女の体がそれを求めている証だった。
葵は、斜め後ろから見える横顔に静かに見惚れていた。
造形美のような容姿よりも、蔵馬という男の生き様が動作や表情の一つ一つに表れていて、それが彼女にとって、深い美しさに映る。
その視線に気づいた蔵馬は、薬鉢を回す手を止めることなく、ほんのわずかに口元を緩めた。
葵が何を考えているのか、正確にはわからない。
だが、その眼差しに含まれる温度で、今の彼には十分だった。
(……こういう時間も、悪くない)
刻まれた草木の香りが、部屋の空気に静かに染み込んでいく。
外の風の音さえ遠く感じられるほど、穏やかな静けさが二人の間に満ちていた。
蔵馬は薬鉢を回す手を緩め、振り返る。
「葵。症状に変化は?」
「そうね……」
彼女はゆっくりと首を上げ、自分の手の甲に視線を落とした。
「黒い斑点が出ているところが、少しピリピリと感じるわ」
そのとき、パジャマの裾がずれ、素足にまで煤のような斑点が広がっているのが見えた。
蔵馬はそれを一瞥し、静かに頷いた。
「……ふむ。炎症が進んでいるな」
机の上に並べた薬草に、指先がしなやかに滑る。
「処方を少し変える。いくつか生薬を足そう」
淡々と言いながら、作業を再開する。
その背中を見つめながら、葵の瞼は、重力に引かれるようにゆっくりと下がりはじめていた。
蔵馬は背中越しに、その気配を察した。ふっと静かに息が漏れる。
そして数分後。
「葵」
名前を呼ばれ、彼女はゆっくりと目を開いた。
視界に飛び込んできたものに、まどろみから一気に覚醒した。
「……いつもと違うすごい色ね。ぐつぐつ言ってるわ」
蔵馬が手にしている器の中は、赤紫色の泥状の液体が、煮えたぎっているように気泡が出ている。どこか生き物めいた動き。匂いは、意外にも強くない。
だが、白い椀を差し出されても、葵の手はなかなか伸びない。
「まるで古の魔女が作った秘伝の薬みたいね」
「見た目はね」
彼らしい涼しい顔で答える。
「ああ。ちなみにこれは、マンドラゴラが溶けて、断末魔をあげているからだよ」
「……。」
葵の視線が、器の中の泡に釘づけになる。
魔界のマンドラゴラは、悲鳴をあげて餌をおびき寄せる。
(今、何て叫んでるのかしら……)
一瞬、想像が膨らむ。
「冗談だよ」
間髪入れずに続けられ、葵は息を吐いた。
この男は、本当に例えようのない多面的な性格をしている。
「入れてないから、安心して」
「あなたの冗談は、冗談に聞こえないわ」
ふっと口元を緩めながら、再び蔵馬は椀を差し出す。
「調合の過程で発泡するんだ。オレも飲んだことがないから、味は……保証しない。薬だから、諦めて飲んでくれ」
「……はい」
観念して葵は器を受け取った。
ゆっくりと口に含む。――思っていたよりも、刺激がない。
喉を通る感覚も、穏やかだった。
「……あ、美味しいわ」
「それは良かった。どんな味?」
「生姜湯を薄めたような、ほんのり甘くて優しい味ね。少し飲んでみる?」
差し出された椀を、蔵馬はためらいなく受け取る。
そして一口。
「………っ」
次の瞬間、顔をしかめ、思わず口元を押さえた。
「……葵。これを、飲めるのか……?」
舌に走る痺れ。
苦味、青臭さ、えぐみが複雑に絡み合い、容赦なく口内を責め立てる。
ハーモニーというより、不協和音の味だ。
「ええ」
「舌が……痛いくらい強烈なんだが……」
水をあおりながら、蔵馬は息を整える。
今まで数え切れないほどの薬を作ってきたが、これは別格だった。
次元の違う味に、言葉の表現が追い付かない。
(……体質の差か。いや、葵の今の状態だから、か)
思考で処理をしている途中で、柔らかい声がかかる。
「大丈夫?」
「……ああ」
ようやく痺れが引き顔を上げると、頬をわずかに紅潮させた葵が、楽しそうに微笑んでいた。
「ふふ。そんな顔をするあなた、初めて見たわ。新鮮ね」
その表情に、蔵馬は小さく息を吐く。
(……まぁ、たまには、こういうのもいいか)
葵が薬を飲み終えるのを見届けると、蔵馬は隣に腰を下ろした。
何気ない動作の中で、彼女の皮膚病変を観察するのを怠らない。
首元、腕、足に細かく広がっているが、色はまだ薄い。感染症状は、中等度より低い。
「……君の味覚は、どうやら特殊らしいな」
軽く肩をすくめるような調子だった。
冗談の形をとっているが、声の奥にわずかな安堵が含まれている。
「そうかもしれないわね」
葵は小さく笑うと、首を傾けた。わずかに二人の距離が狭まる。
その仕草に、蔵馬の口元もほんの少し緩む。
「……まぁ、主治医としては、君が元気でいてくれれば、それで十分だ」
言い終えると、何事もなかったように指先を組む。
言葉の重みを、自分で打ち消すように。
葵は、その横顔を静かに見上げる。
「蔵馬」
「ん?」
「何か嬉しいことでもあったの?」
彼はすぐには答えなかった。
窓から差し込む夕刻の光が、癖のある長い髪を薄く透かしている。
やがて視線を伏せたまま、ふっと息を吐いた。
「……うん。少しね」
それ以上は語らない。
ただ、口元に残った微かな笑みが消えなかった――葵にしか見せない蔵馬の顔だった。
(すぐに、来てくれた)
それが、十分すぎるほどだった。
蔵馬は手を伸ばし、そっと葵の頬に触れた。指先に伝わる体温が、ほんのわずか高い。
「……まだ熱が上がってる」
手を離さず、少しだけ眉を寄せる。
「今日はしっかり休むんだよ」
「……ありがとう」
葵は素直に頷いた。
そのまま彼の手の温度を頬に感じながら、目を細める。
(私は……この手に、寄り掛かってもいいのね)
蔵馬の画像を作るのが楽しかったです。めったに見れない彼の少しコミカルな画像に仕上がりました。