第9話
それは、幽助たちが霊界からの指令で、氷女という妖怪の救出に向かっている頃だった。
「葵。その花は?」
彼女が持つ、麻袋の中からする覚えのある匂いに、蔵馬は少し違和感を覚えた。
甘くて、独特の異質な花の香り。
確かこれは、扱いが難しい植物だった。
「霊界の依頼品よ」
「魔界のベラドンナの花粉は、幻覚妄想や狂暴性を誘発するんだ。霊界に持って行く分には大丈夫だろうが……。気を付けるといい」
「わかったわ。私自身、今のところ、なんともないから大丈夫よ。素早くコエンマに渡してくるわ」
葵は花の妖怪だ。
以前に、夢幻花の記憶の消去が効かなかったこともあり、ベラドンナにも耐性があるのだろう。気質的にも、影響が無さそうなのは、見てわかる。
しかし、妙に引っかかる。
「…ああ」
何かを感じ取ったが、すぐにそれを言葉にすることができなかった。
依頼品を受け取ると、彼は葵の後ろ姿を見送った。
この時感じた違和感を、蔵馬は後で後悔した。
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霊界に足を踏み入れた時、いつも感じる一種の静寂が辺りを包んでいる。
葵が生まれた魔界とも、人間界とも異なる世界。
依頼品の提出と報告のため、彼女は霊界の会議室で、ぼたんと待ち合わせをしていた。
通常コエンマとやりとりをしているが、多忙の様子。
依頼品を渡して、後日また報告に来る予定だった。
蔵馬の忠告どおり、花粉が飛ばないように通気性のない袋でベラドンナを包み、しっかりと封じた。
それでも微かに感じる花の香り。
待っている間、ふいに耳元に聞こえる声があった。
『気を付けて』と。
彼女以外誰もいない室内。
詳細は分からなかったが、霊界という特殊な場所で、見えざる者の言葉を葵は胸にとめた。
「遅れてすまないね!いつもご苦労様」
桃色の着物に水色の鮮やかな髪を揺らしながら、ぼたんが勢いよく入ってきた。
彼女は霊界案内人で、今は霊界探偵との連絡役も担っている。
「忙しそうね」
「どういうわけか、突然死人の数が増えちまってさ。一気に仕事が増えたんだよ。依頼品は…研究棟のほうに持って行くんだけど、あたしゃそれを持つのはおっかなくて!案内するのに、もう少し待っててもらってもいいかい?」
「わかったわ。図書館にいるわね」
ぼたんを気遣うように、視線を向ける。
彼女を待つ間、葵はそこで、調査報告書をまとめておくつもりだった。
その時、会議室の扉が予定外で開いた。
「私で良ければ、案内しようか?」
その声は男のもので、静かで、どこか計算高い響きがあった。
「参謀長!いいんですか?」
参謀長の
「花の採取を、コエンマ様に提案して、彼女に依頼したのは、私なんだ。今の実験に急ぎ必要なものでね」
「そうだったんですね。それでは、お言葉に甘えてもよろしいでしょうか?」
ぼたんと枉鵬がやりとりをして、彼の申し出通りとなった。
葵はその様子を、少し離れたところから観察していた。
しばらくして、男が彼女にギラリとした視線を向けた。
肌が、一瞬反応する。
「君が葵か。初めまして、霊界第2班参謀長の枉鵬だ。人間界と魔界を行き来できる能力をもつ妖怪が、我々に協力してくれていると聞き、一度会ってみたいと思っていたところだ。協力、感謝する」
その言葉は、表面的には礼儀正しく響いたが、どこか背筋を冷やすような鋭さが見え隠れしていると葵は感じた。
「いえ、こちらもそれに見合った報酬を頂いています」
「せっかくの機会だ。研究棟を案内しよう」
葵は慎重に、花を彼に渡した。
そのとき、さきほどの声がまた聞こえた。
『気を付けて』
もちろん、彼女にだけ。
依頼品を渡して、そのまま去ることも考えた。
しかし、半ば強引な彼の態度に、葵は注意を払いながら、従うことを選んだ。
ぼたんと別れて、研究棟へ続く廊下を移動しながら、枉鵬は研究棟で人間界や魔界の希少価値の高い資源の研究を進めていることを話した。
レアメタルや魔界にしかない資源を活用して、エネルギーの代用を進めているという。
流れるようなその内容を、葵は表情を変えず、静かに聞いていた。
研究棟奥の閑散とした廊下を歩いているとき、彼は突然足を止めて振り返った。
葵も、それにしたがって立ち止まった。
「さて、早速本題に入ろう。君には個人的に私の仕事を手伝ってもらいたい」
その言葉は、よく使われている刃のようにギラリと鋭かった。
やはり、この男は何かを企んでいた。
「それはどのような?」
「私は君のことは買っているが、妖怪は嫌いだ。特に人間界に、我が物顔で住んでいるやつらが気に入らないんだ」
「……。」
枉鵬の声は、明らかに嫌悪を込めて発せられた。彼の視線も鋭く彼女を貫く。
葵は確信した。彼は、霊界のただの参謀長ではないと。
「飛影や蔵馬という妖怪も、執行猶予つきの免罪となったが、私は信用していない。妖怪は悪の存在だ。我々霊界の住人は神から与えられた正義のもと、人間達を正して、妖怪どもから守る義務がある」
値踏みするように葵を見ながら、彼は意気揚々と講釈を垂れた。
「君には魔界での近況を調査し、私に報告してほしい。もちろん、君の望む以上の報酬を約束しよう」
葵はしばらく無言だった。
自分の答えは決まっているが、言い方によってはどう転ぶかわからない状況だった。
慎重に、言葉を選ぶ必要があった。
「おそらく、私のような妖力の低い妖怪では役不足でしょう」
その言葉を言った瞬間、彼の顔にわずかな笑みが浮かぶ。それは彼女を試すような、薄ら寒い笑みだった。
「妖力など、我々の技術をもってすれば、いくらでも増強可能だ」
「……。」
予想していた通り、霊界の一部の中には、妖怪と共同したり、妖怪を利用しているようだった。
先日、霊界で見かけた妖怪が連行されているのを思い出した。
彼もおそらく利用されたのだろう。
葵は再度、胸に響くあの声を思い出しながら、冷静に答えた。
「……お受けしかねます。依頼は果たしました。私は、これで失礼します」
静かに会釈すると、葵は来た道を戻っていった。
数十歩進んだ時、それは起こった。
不意に飛んできた何かを、葵は直感的に身を引いてかわした。体勢を整える間もなく、背中に衝撃が走る。長い廊下の一角にある無機質な扉の中へと、無理やり押し込まれた。
閉ざされた部屋の中、枉鵬の形相が変わった。吊り上がった目、歪む口元。先ほどまでの冷静な面影は消え、狂気に満ちた獣のようだった。
「思い通りにならないのが一番いらつく!この話を聞いて、のうのうと帰れるわけがあるまい!」
怒号とともに突き飛ばされ、葵の体は床に叩きつけられた。
次の瞬間、男は馬乗りになり、大きく湿った手が喉元に伸び、首を絞め上げてくる。
「……っ!?」
息がつまる。声が出ない。
めきっと嫌な音をたてて、首に爪が食い込む。
葵は衝撃波を作りあげ、どうにか枉鵬との間合いを取った。
咳き込みが止まらない。
荒く息を吐きながら、身を起こす。
「…っは、っは」
喉を押さえる手に、じわりと血がにじむ。爪の跡が赤く皮膚に刻まれていた。
視界の片隅に落ちた袋、ベラドンナが見える。
葵は蔵馬の忠告を思い出した。
(こんなにも、豹変するなんて…)
息が詰まるような密室。二人の距離はわずか数歩。
相手が容易く攻撃ができる範囲内だった。
「飛影と蔵馬について、知っていることを何でも話せ」
男の声が体に響く。その声も、視線も、生傷を刺すような、冷たく威圧的な力を持っていた。
「霊界が…持っている以上の、情報を…持っていないわ」
葵は意識を集中して、亜空間に入り込もうとするが、霊体ではできないことに気づいた。
目の前の相手との力の差は歴然。
なんとかこの場から逃げる方法を探さなくては、命の保証はなかった。
(このままでは、やられてしまう…)
「どうやって、奴らに取り入ったのかは知らんが、お前が奴らとそれなりの交流があることは、調査済みだ。特にあの蔵馬は、妖怪の分際で人間に潜んで暮らしているなんぞ、あってはならないことだ!神は私に、奴を裁くよう宣旨を下したのだ」
「……。」
唾を飛ばしながら、語気を強める枉鵬。
その目は狂信的で、ギラギラと異様な光を放っていた。
(……これは、個人の狂気だけじゃない。霊界の中に根深くある信仰心のようなもの…)
彼の発言から、霊界の中にも、何かしらの強い信仰があることを葵は知った。
妖怪が悪、霊界が正義とすれば、霊界側が人間界を統治する真っ当な理由になる。
今の自分のように、脅迫されて霊界の都合で働いたり、中には自らの意志で、加担する妖怪もいただろう。
男が饒舌に話す間に、葵は回復のために気を集中していた。
その時、一瞬で相手の姿が見えなくなり、左頬に衝撃が走った。
視界が白く揺れる。男の拳を受けて、強く壁に体を打ち付ける。
「あっ…!」
「お前のような低級妖怪、殺すことなど簡単だ。だがお前には利用価値がある!」
言葉にならない叫びが漏れる。
拳が、蹴りが、容赦なく葵の身体を打つ。繰り返される容赦のない攻撃に、戦闘向きではない体は宙を舞い、床を転がった。
髪を結んでいた紐がちぎれ、散らばった髪が血に濡れる。
体を打ち付けられて、裂けた皮膚から赤い血が広がる。じわじわと服の半分が赤く染まる。
「飛影と蔵馬について話せっ」
枉鵬は葵の髪を掴み、無理やり引き上げた。そして顔を執拗に近づけてきた。
「…はっ…っは…」
(…まだ、まだ倒れてはいけないっ)
呼吸をするので精一杯の葵は、薄く目を開けて、男を見ることしかできなかった。
口の中に、鉄の味が広がる。殴られた衝撃で、目も見えにくい。
全身の痛みと頭部の殴打から、意識が朦朧として、視界が揺れている。
「まぁ、いい。後でいくらでも、自白させる手段はある。お前を洗脳し、我らの操り人形となってもらおう」
拳の衝撃で裂けた襟元を掴まれ、足が宙に浮く。再び呼吸がしにくくなる。
首に枉鵬の右手がかかり、ぎりぎりと締め付けられる。
さらに気が遠くなる。
(もう、だめかもしれないっ…)
目の前が白く染まりかけたその時。
ピピッ……!
機械的な音が、室内に反響した。
無線だった。枉鵬の腰につけられた、通信機が光を放っている。
遠くなる意識の中、枉鵬の手が僅かに緩んだのを感じた。
AI画像生成で作ったら、出血は反映されませんでした。