アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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第90話

翌日。東の窓から差し込む朝の光が、レースカーテンをやわらかく透かしていた。

ベッドの端に腰掛けた蔵馬は、隣の葵の手首を軽く取っていた。

指先で皮膚を確かめる。

昨夜まで広がっていた煤状の斑点は、すでに輪郭を曖昧にしながら肌の奥に沈みつつある。

 

(回復しているな)

 

短く息を吐く。

それから何事もない顔で立ち上がり、机の上のグラスを手に取った。

濃い翡翠色の液体が、朝の光を受けてゆらりと揺れる。

葉野菜、果物、水を撹拌して作った飲み物だ。

彼は、葵の前にそれを差し出した。

 

「これを先に」

 

グラスの中から、緑の淡く甘い香りが立った。

 

「飲んだら、例の薬湯を。君には、合っているようだからね」

 

葵は頷き、グラスを口に運ぶ。

ひんやりとした液体が喉を滑り、体の奥にゆっくり染みていく。

そのあとで、白い椀を持ち上げた。昨日と同じ赤紫の薬湯。

一口飲むと――少し眉が動いた。

 

「……舌が、ピリピリするわ」

 

 

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昨日とは違う味だった。口の奥に、細い電気のような痺れが残る。

ふと、昨夜の蔵馬の顔が脳裏によぎる。

 

(昨日美味しく飲んでいたのが、不思議ね)

 

口元に手を当てて呟く葵に、目の前の男は小さく笑った。予想していた反応を見るように。

 

「体が治ってきている証拠だよ」

 

落ち着いた声と客観的根拠に、葵も自然と肩の力が抜けていった。

もう、これで大丈夫と。

 

しばらくして、蔵馬は制服に着替えた。部屋を出る前に、一度全体を見渡す。

机の上の薬湯、窓の光の具合、ベッドに座る葵。

確認するように、静かに視線を巡らせる。

そして彼女に声をかけた。

 

「家族がこの部屋に入ることは、無いようにしてある。だから安心して休んでいるといい」

 

それだけ言い残し、廊下へ出た。

玄関の扉が閉まる音が、家の奥――二階の彼女がいるところまで響く。

 

やがて静けさが訪れた。

葵はベッドの上で、窓の外の人影を見つめる。

 

(本当に……不思議な人)

 

何度もこの部屋で休んでいるが、彼以外が入ってきたことは一度もない。

どんな術を使っているのか。どういう仕組みなのか。

想像してもわからない。

ただこの男なら。造作もないことなのはわかる。

 

そして、この家で、この部屋で。蔵馬は確かに、自分を守っている。

その存在がいない時も。

 

 

葵は、ふうっと長い息を吐いた。

顔に手で触れると、昨夜まで火照っていた頬の熱さは和らいでいる。

 

(蔵馬のおかげね)

 

冷静に、自分の体に目を向ける。眠っている間に、汗をかいていたことを思い出す。

襟元がわずかに湿っているのに気づき、鞄を開いた。中から取り出したのは灰色の浴衣。

袖を通すと、ひんやりと涼しい空気が肌をすべる。

 

結び目を整えてから、葵はゆっくりと部屋を見渡した。

静かな部屋だった。時間が、さらにゆっくりと流れはじめる。

壁際の本棚には、同じ高さの背表紙が几帳面に並んでいる。

机の上には薬湯の入った容器だけ。どこを見ても、無駄なものがない。

 

(蔵馬らしい部屋)

 

葵は立ち上がり、本棚の前へ歩いた。

指先で本をなぞる。

植物学、薬学、歴史、文学。専門的な本が並ぶ中で、妙に異質な題名が目に入った。

手を伸ばして引き抜く。

 

 

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『格闘ゲームのフレームデータ完全解析:技の優位性と行動選択の最適化』

 

思わず、小さく息が漏れた。

 

(……これで、ゲームに勝とうとしていたんだったわね)

 

以前、蔵馬に勧められた本だった。

ページを開いても、並んでいるのは数字と専門用語ばかりで、正直なところ、最後まで読んでも「わかった」とは言い難かった。

 

フレームとは――一秒を細かく区切った時間の単位。

技が出るまでの速さ、当たった後の隙、次に動けるまでの時間。

それらを数値化して、勝敗を読む。

 

理屈は、あの時も聞いた。

彼はわかりやすく説明してくれた。けれど――

 

(実際に勝てるかは、別の話だったわ)

 

本のページをめくりながら、葵はふっと笑った。

彼の冷静な操作と、理詰めで組み上げられた戦略に完敗した日のことを思い出す。

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

ローテーブルの上にはゲーム機。

テレビの画面の光が、部屋の壁に淡く揺れていた。

その前に、蔵馬と葵が並んで座っている。

 

「始めるよ」

 

蔵馬の声は、いつも通り穏やかだった。

手の中のコントローラーを、彼は自然な手つきで構えている。

 

「今日は勝つわよ。フレームデータも、一通り読んできたわ」

 

「それは楽しみだ」

 

 

【挿絵表示】

 

 

蔵馬は軽く答えた。

画面の中では、すでに勝負は始まっている。キャラクター選択は迷いがない。

葵は、以前使って慣れている筋骨隆々タイプのキャラを選んだ。

対する蔵馬のキャラは、地味な剣士だった。

 

開始の合図。画面の中で二人のキャラクターがぶつかる。

 

「えっ、速い……!」

 

一瞬だった。

葵のキャラクターは、すでに画面端に押し込まれている。

立ちガード。下段。空中投げ。

それらを間合い管理で寸分なく繰り出す蔵馬の動きは、無駄がない。

 

「……うそ、回避されてる!」

 

「うん。その技の後は、少し隙があるからね」

 

コントローラーを握る指は、常に滑らか。視線を画面に向けたまま、彼は続ける。

 

「君のキャラは、初動が少し遅い」

 

葵の眉が一瞬寄った。

 

「……やっぱり、蔵馬はなんかずるいわ」

 

「ずるい?」

 

蔵馬はわずかに首を傾ける。

 

「飄々としながら、やっていることはえげつないわ」

 

「それは君が、勝負を挑んできたからだよ」

 

口元に、うっすら笑みが浮かぶ。

表情とは裏腹に、戦いには一片の妥協もない。

リザルト画面では、蔵馬のキャラが圧倒的スコアで勝利していた。

 

対戦は続く。

キャラクターが交錯し、攻撃と防御が目まぐるしく入れ替わる。

 

「今の、当たったと思ったのに」

 

「うん。でも――」

 

蔵馬は一度ポーズをかけた。

テレビの画面が止まる。

彼は机の上に置いてあった本を開き、数字の列を指でなぞる。

 

「この技は、ガードされた後に君が不利になる。ここ。フレームがこうなってる」

 

淡々とした事実が的確に説明された。

葵は画面ではなく、隣の男に視線を向けた。

 

「……やっぱり蔵馬は、なんかずるいわ」

 

コントローラーをそっと置いて、呟いた。

蔵馬は腕を組んだまま、少しだけ首をかしげた。

 

「そうかな? オレは一度も反則してないけど」

 

「……だからこそ、ずるいって思うの。反射神経とかじゃなくて、時間そのものを読んでるみたいだわ」

 

「合理的と言ってほしいな」

 

彼の目がわずかに細くなる。

次の試合も、結果は同じだった。体力ゲージの差は、最後まで埋まることがなかった。

 

コントローラーを置く音が、静かな部屋に小さく響いた。

画面にはまだ勝利の演出が流れているが、蔵馬はもう視線を向けていない。

葵を見つめながら、彼は少し間をおいて口を開いた。

 

「じゃあ勝ったから、オレの願い事をひとつ、聞いてもらおうかな」

 

「……それは、まだ有効なのね」

 

葵は瞬きを二度、ゆっくりと重ねた。

 

「うん。今から有効だ」

 

柔らかな声色のままなのに、抑揚が少し妙で――冗談めいた調子の奥に、いたずらを隠したような気配が混じる。

空気が、わずかに変わった。葵は反射的に半歩分後ろへ体を引いた。

 

「……なんだか、含みのある表情をしてるわね。あなた」

 

「それは光栄だな」

 

短く笑う。

だが次の瞬間、蔵馬は表情を少しだけ引き締めた。

冗談の幕を一枚下ろすように、視線がまっすぐに葵へ向く。

 

「じゃあ、願いは……」

 

言葉の途中で、わざと間を置く。沈黙が一拍、二拍。

窓の外で、風が枝を揺らす音がした。

葵はまっすぐに彼を見つめ、言葉の続きを待つ。

 

蔵馬は顎に手を置いて、口を開いた。

――……言うだけだ。

 

「今夜、オレの夢に出てきてくれないか?」

 

「……え?」

 

葵の目が丸くなる。しばらく瞬きを忘れるほどに。

 

「それって……私が夢に出る保証は、どこにあるの?」

 

身を乗り出して問い返す。彼女らしい、もっともな言葉。

距離が、わずかに近づく。

蔵馬は一度、視線を落とし――小さく息を漏らした。

 

「ふ……」

 

口元だけで笑う。

 

「それは……君次第で、実現できると思うよ」

 

「……そんなところまで、ずるいわね。本当に」

 

呆れたように言いながらも、葵の声はやわらかい。拒む気配はない。

顎に置いた手を放し、蔵馬は彼女の目の奥を見つめた。

 

「誉め言葉として、受け取っておくよ」

 

画面はいつの間にか暗くなっていた。勝利の音が、遅れて消える。

残ったのは、勝敗よりも静かな余韻だった。

 

 

 

――今に戻る。

 

葵は本を閉じると、棚にそっと戻した。

指先に残るあの日の時間の感触さえも、今は懐かしい。

 

部屋は安心感のある静けさに包まれていた。

窓から差し込む光が、床の上に淡く広がっている。

ふと、ここにいない存在を思う。

 

(……まるで、いるみたいね)

 

葵は、彼がこの部屋に残した気配を受け取る。

机。ベッド。本棚。

整えられた配置の隙間に、彼の手の動きが残っている。

 

(読んでも勝てなかった理由、今なら少しわかる気がするわ)

 

視線を、先ほどの本棚へ戻す。

蔵馬は、知識を見せつけない。――ただ、それを生き方の一部として使う。

呼吸のように、選択の一部として。

 

それはゲームでも、薬草の調合でも、同じだろう。

葵はふっと息を吐いた。

窓の外、遠くに人の足音が過ぎていく。その向こうに、彼の背を思い浮かべる。

 

(本当に……不思議な人)

 

 

【挿絵表示】

 

 

言葉は、声にならないまま胸の内に響く。

静かな朝だった。

何も起きていないのに、確かに満ちている時間。

 

葵はその中で、ゆっくりと目を細めた。

 




久しぶりにゲームの話。この二人のゲーム談議がけっこう好き。
2026年5/18は、アカシヤを投稿して1周年ということで、最近書いた「短編12 蔵馬を翻弄する葵 翻弄されることを許す蔵馬」をアップします。
ご興味ある方は、ぜひご覧ください。

短編はこちら➡https://syosetu.org/?mode=write_novel_submit_view&nid=378019
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