翌日。東の窓から差し込む朝の光が、レースカーテンをやわらかく透かしていた。
ベッドの端に腰掛けた蔵馬は、隣の葵の手首を軽く取っていた。
指先で皮膚を確かめる。
昨夜まで広がっていた煤状の斑点は、すでに輪郭を曖昧にしながら肌の奥に沈みつつある。
(回復しているな)
短く息を吐く。
それから何事もない顔で立ち上がり、机の上のグラスを手に取った。
濃い翡翠色の液体が、朝の光を受けてゆらりと揺れる。
葉野菜、果物、水を撹拌して作った飲み物だ。
彼は、葵の前にそれを差し出した。
「これを先に」
グラスの中から、緑の淡く甘い香りが立った。
「飲んだら、例の薬湯を。君には、合っているようだからね」
葵は頷き、グラスを口に運ぶ。
ひんやりとした液体が喉を滑り、体の奥にゆっくり染みていく。
そのあとで、白い椀を持ち上げた。昨日と同じ赤紫の薬湯。
一口飲むと――少し眉が動いた。
「……舌が、ピリピリするわ」
昨日とは違う味だった。口の奥に、細い電気のような痺れが残る。
ふと、昨夜の蔵馬の顔が脳裏によぎる。
(昨日美味しく飲んでいたのが、不思議ね)
口元に手を当てて呟く葵に、目の前の男は小さく笑った。予想していた反応を見るように。
「体が治ってきている証拠だよ」
落ち着いた声と客観的根拠に、葵も自然と肩の力が抜けていった。
もう、これで大丈夫と。
しばらくして、蔵馬は制服に着替えた。部屋を出る前に、一度全体を見渡す。
机の上の薬湯、窓の光の具合、ベッドに座る葵。
確認するように、静かに視線を巡らせる。
そして彼女に声をかけた。
「家族がこの部屋に入ることは、無いようにしてある。だから安心して休んでいるといい」
それだけ言い残し、廊下へ出た。
玄関の扉が閉まる音が、家の奥――二階の彼女がいるところまで響く。
やがて静けさが訪れた。
葵はベッドの上で、窓の外の人影を見つめる。
(本当に……不思議な人)
何度もこの部屋で休んでいるが、彼以外が入ってきたことは一度もない。
どんな術を使っているのか。どういう仕組みなのか。
想像してもわからない。
ただこの男なら。造作もないことなのはわかる。
そして、この家で、この部屋で。蔵馬は確かに、自分を守っている。
その存在がいない時も。
葵は、ふうっと長い息を吐いた。
顔に手で触れると、昨夜まで火照っていた頬の熱さは和らいでいる。
(蔵馬のおかげね)
冷静に、自分の体に目を向ける。眠っている間に、汗をかいていたことを思い出す。
襟元がわずかに湿っているのに気づき、鞄を開いた。中から取り出したのは灰色の浴衣。
袖を通すと、ひんやりと涼しい空気が肌をすべる。
結び目を整えてから、葵はゆっくりと部屋を見渡した。
静かな部屋だった。時間が、さらにゆっくりと流れはじめる。
壁際の本棚には、同じ高さの背表紙が几帳面に並んでいる。
机の上には薬湯の入った容器だけ。どこを見ても、無駄なものがない。
(蔵馬らしい部屋)
葵は立ち上がり、本棚の前へ歩いた。
指先で本をなぞる。
植物学、薬学、歴史、文学。専門的な本が並ぶ中で、妙に異質な題名が目に入った。
手を伸ばして引き抜く。
『格闘ゲームのフレームデータ完全解析:技の優位性と行動選択の最適化』
思わず、小さく息が漏れた。
(……これで、ゲームに勝とうとしていたんだったわね)
以前、蔵馬に勧められた本だった。
ページを開いても、並んでいるのは数字と専門用語ばかりで、正直なところ、最後まで読んでも「わかった」とは言い難かった。
フレームとは――一秒を細かく区切った時間の単位。
技が出るまでの速さ、当たった後の隙、次に動けるまでの時間。
それらを数値化して、勝敗を読む。
理屈は、あの時も聞いた。
彼はわかりやすく説明してくれた。けれど――
(実際に勝てるかは、別の話だったわ)
本のページをめくりながら、葵はふっと笑った。
彼の冷静な操作と、理詰めで組み上げられた戦略に完敗した日のことを思い出す。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
ローテーブルの上にはゲーム機。
テレビの画面の光が、部屋の壁に淡く揺れていた。
その前に、蔵馬と葵が並んで座っている。
「始めるよ」
蔵馬の声は、いつも通り穏やかだった。
手の中のコントローラーを、彼は自然な手つきで構えている。
「今日は勝つわよ。フレームデータも、一通り読んできたわ」
「それは楽しみだ」
蔵馬は軽く答えた。
画面の中では、すでに勝負は始まっている。キャラクター選択は迷いがない。
葵は、以前使って慣れている筋骨隆々タイプのキャラを選んだ。
対する蔵馬のキャラは、地味な剣士だった。
開始の合図。画面の中で二人のキャラクターがぶつかる。
「えっ、速い……!」
一瞬だった。
葵のキャラクターは、すでに画面端に押し込まれている。
立ちガード。下段。空中投げ。
それらを間合い管理で寸分なく繰り出す蔵馬の動きは、無駄がない。
「……うそ、回避されてる!」
「うん。その技の後は、少し隙があるからね」
コントローラーを握る指は、常に滑らか。視線を画面に向けたまま、彼は続ける。
「君のキャラは、初動が少し遅い」
葵の眉が一瞬寄った。
「……やっぱり、蔵馬はなんかずるいわ」
「ずるい?」
蔵馬はわずかに首を傾ける。
「飄々としながら、やっていることはえげつないわ」
「それは君が、勝負を挑んできたからだよ」
口元に、うっすら笑みが浮かぶ。
表情とは裏腹に、戦いには一片の妥協もない。
リザルト画面では、蔵馬のキャラが圧倒的スコアで勝利していた。
対戦は続く。
キャラクターが交錯し、攻撃と防御が目まぐるしく入れ替わる。
「今の、当たったと思ったのに」
「うん。でも――」
蔵馬は一度ポーズをかけた。
テレビの画面が止まる。
彼は机の上に置いてあった本を開き、数字の列を指でなぞる。
「この技は、ガードされた後に君が不利になる。ここ。フレームがこうなってる」
淡々とした事実が的確に説明された。
葵は画面ではなく、隣の男に視線を向けた。
「……やっぱり蔵馬は、なんかずるいわ」
コントローラーをそっと置いて、呟いた。
蔵馬は腕を組んだまま、少しだけ首をかしげた。
「そうかな? オレは一度も反則してないけど」
「……だからこそ、ずるいって思うの。反射神経とかじゃなくて、時間そのものを読んでるみたいだわ」
「合理的と言ってほしいな」
彼の目がわずかに細くなる。
次の試合も、結果は同じだった。体力ゲージの差は、最後まで埋まることがなかった。
コントローラーを置く音が、静かな部屋に小さく響いた。
画面にはまだ勝利の演出が流れているが、蔵馬はもう視線を向けていない。
葵を見つめながら、彼は少し間をおいて口を開いた。
「じゃあ勝ったから、オレの願い事をひとつ、聞いてもらおうかな」
「……それは、まだ有効なのね」
葵は瞬きを二度、ゆっくりと重ねた。
「うん。今から有効だ」
柔らかな声色のままなのに、抑揚が少し妙で――冗談めいた調子の奥に、いたずらを隠したような気配が混じる。
空気が、わずかに変わった。葵は反射的に半歩分後ろへ体を引いた。
「……なんだか、含みのある表情をしてるわね。あなた」
「それは光栄だな」
短く笑う。
だが次の瞬間、蔵馬は表情を少しだけ引き締めた。
冗談の幕を一枚下ろすように、視線がまっすぐに葵へ向く。
「じゃあ、願いは……」
言葉の途中で、わざと間を置く。沈黙が一拍、二拍。
窓の外で、風が枝を揺らす音がした。
葵はまっすぐに彼を見つめ、言葉の続きを待つ。
蔵馬は顎に手を置いて、口を開いた。
――……言うだけだ。
「今夜、オレの夢に出てきてくれないか?」
「……え?」
葵の目が丸くなる。しばらく瞬きを忘れるほどに。
「それって……私が夢に出る保証は、どこにあるの?」
身を乗り出して問い返す。彼女らしい、もっともな言葉。
距離が、わずかに近づく。
蔵馬は一度、視線を落とし――小さく息を漏らした。
「ふ……」
口元だけで笑う。
「それは……君次第で、実現できると思うよ」
「……そんなところまで、ずるいわね。本当に」
呆れたように言いながらも、葵の声はやわらかい。拒む気配はない。
顎に置いた手を放し、蔵馬は彼女の目の奥を見つめた。
「誉め言葉として、受け取っておくよ」
画面はいつの間にか暗くなっていた。勝利の音が、遅れて消える。
残ったのは、勝敗よりも静かな余韻だった。
――今に戻る。
葵は本を閉じると、棚にそっと戻した。
指先に残るあの日の時間の感触さえも、今は懐かしい。
部屋は安心感のある静けさに包まれていた。
窓から差し込む光が、床の上に淡く広がっている。
ふと、ここにいない存在を思う。
(……まるで、いるみたいね)
葵は、彼がこの部屋に残した気配を受け取る。
机。ベッド。本棚。
整えられた配置の隙間に、彼の手の動きが残っている。
(読んでも勝てなかった理由、今なら少しわかる気がするわ)
視線を、先ほどの本棚へ戻す。
蔵馬は、知識を見せつけない。――ただ、それを生き方の一部として使う。
呼吸のように、選択の一部として。
それはゲームでも、薬草の調合でも、同じだろう。
葵はふっと息を吐いた。
窓の外、遠くに人の足音が過ぎていく。その向こうに、彼の背を思い浮かべる。
(本当に……不思議な人)
言葉は、声にならないまま胸の内に響く。
静かな朝だった。
何も起きていないのに、確かに満ちている時間。
葵はその中で、ゆっくりと目を細めた。
久しぶりにゲームの話。この二人のゲーム談議がけっこう好き。
2026年5/18は、アカシヤを投稿して1周年ということで、最近書いた「短編12 蔵馬を翻弄する葵 翻弄されることを許す蔵馬」をアップします。
ご興味ある方は、ぜひご覧ください。
短編はこちら➡https://syosetu.org/?mode=write_novel_submit_view&nid=378019