アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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第91話

高校から戻ると、蔵馬は足音を吸い込ませるように廊下を進み、静かに自室の戸を引いた。わずかな軋みも立てず、閉じられた扉の内側の世界――透けるカーテンごしに、柔らかな午後の光が部屋を穏やかに見せている。

 

その中で、葵はローテーブルに上半身を預けたまま、眠っていた。

肩から滑り落ちた灰色の浴衣の袖が、床に細く影を引く。

白い頬はほんのりと血色を取り戻し、呼吸は静かで、規則正しい。

 

 

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蔵馬は一歩だけ距離を詰め、手にしていた鞄を机の上へそっと置いた。

革が木に触れる音も、ほとんど響かない。

視線はそのまま彼女に留まり、彼の時間が止まる。

 

(……よく眠っているな)

 

向かい側に腰を下ろす。

頬杖をつき、肘の下で木の冷たさを感じながら、しばらく何もせずに見つめた。

 

淡い桃色を含んだ髪が、肩口からこぼれている。指先で一房すくい上げると、さらりとした感触が手のひらをすり抜けた。

昨日まで乾いていた髪は、瑞々しく、光を含んでいる。

 

そのまま視線を下ろす。無防備に投げ出された手の甲。今朝まであった煤色の斑は、跡形もなく消えて、白い肌に戻っていた。

彼はわずかに息を吐いた。

 

(……間に合ったな)

 

 

部屋中を一度見渡す。

彼女の能力のおかげで、空気が澄んでいる。

今日は晴天。葵の体も、光合成により回復を進めているだろう。

 

ふと、ローテーブルの隅に手帳が開かれているのが目に入る。

紙の端がわずかに反り、書きかけのまま止まった時間がそこにあった。

無造作に書かれているようで、中身は丁寧だった。筆跡も整っている。

体調の変化、人間界・霊界の環境、魔界の薬草の特徴――そして、自分が伝えた注意点まで、抜け落ちることなく並んでいた。

 

そのページの四隅には、細い線で描かれた花や、意味のない円。

小さな笑顔のような落書きまでもが、紛れている。

 

ページの間から、写真の角が少し覗いている。――一年前のものだ。

彼はふっと、音もなく笑った。

 

顔を上げると、陽の光はわずかに色を深めていた。時間がゆっくりと沈んでいく。

変わらないのは、目の前の寝息。

 

 

流星のように現れた存在――そう呼ぶには、今はあまりにも自然で。静かに、ここにある。

蔵馬は身を乗り出し、そっと距離を詰めた。

彼女の呼吸に合わせるように、動きを緩める。

 

 

蔵馬は、今まで何度も命の危機に直面した。

運命の分かれ目となったのは、自らの命と引き換えに暗黒鏡を使って母の命を助けようとしたこと。

死ぬ覚悟をして生き延びた彼は、どこか生きのびることへの執着が無くなった。

 

今は――選択する前に思い浮かび、わずかな隙間が生まれるようになった。

帰る場所。待つ存在。

それでも、戦いにおいて選択し続けることに、変わりはない。

ただ、戻る理由が別にできた。

 

彼はそっと顔を近づけた。どこか懐かしい安息の香りが濃くなる。

一瞬だけ、視線を伏せる。

 

(……この人を、護る)

 

言葉にするには短すぎる決意が、胸の内で定まる。

そのまま、葵の頭に口唇を落とした。触れるか触れないかの、ごく浅い接触。

髪がわずかに揺れ、また静まる。

 

離れたあとも、蔵馬はしばらくその場にとどまった。

 

(かなわないな。君には……)

 

小さく息を吐き、口元にわずかにゆるむ。めったに見せない、葵にしか見せない彼の顔だった。

 

 

 

 

『……もう一人で、心に血を流さなくてもいいのよ』

 

葵の声は、強くもなく、慰めるようでもなく、ただ静かに置かれた。

そのとき、蔵馬はすぐに答えなかった。

返す言葉を探すのでもなく、ただ呼吸を整える。言葉にすれば、形が変わってしまうと知っていたから。

胸の奥で、何かがほどけていく。

音はない。ただ、長く張り詰めていた糸が、緩む感触だけが残る。

 

――心に、血を流す。

それは彼にとって、痛みですらなかった。冷えきった感覚の奥で、沈黙で続くもの。

 

「……。」

 

視線を落とす。無意識に、葵の全体の輪郭をなぞっていた。

 

 

やられる前に斬る。

斬る前に、裏を読む。

 

間合い、呼吸、視線の揺れ。それらを積み重ね捉えて、先を行く。

迷いは不要だった。躊躇も、必要なかった。

妖狐としての知恵であり、盗賊としての生存戦略。

それが、彼の在り方だった。

 

(……。)

 

思考は短く、そこで止まる。

彼女は、その領域に踏み込まなかった。否定も、肯定もせず、ただ別の道を示した。

 

――流さなくてもいい、と。

その言葉を受けた瞬間の感覚が、胸の奥に残っている。

凍った土の下で、わずかに膨らむ芽のような、もはや逃げ場のない確かな温度。

 

蔵馬は静かに息を吐いた。

 

(……選べる、か)

 

護る、という衝動。奪わない、という選択。

護るために戦うことは、これまでと変わらない。

だが――斬らずに済む道があるなら、そちらを取ることもできる。

迷いではなく、選択だ。

 

(……そういうことか)

 

彼はその時、はっきりと悟っていた。

この存在は、自分を弱くするのではない。

自分の中に、これまで使わずにきた力を呼び覚ましているのだと。

 

ゆっくりと目を閉じる。

体の奥で、静かな熱が脈打っていた。

 

 

そのとき、空気がわずかに揺れた。彼はその瞳に目の前の人を映し出す。

葵の睫毛が、かすかに震える。

眠りの底から浮かび上がるように、ゆっくりと瞼が開いた。

光を含んだ瞳が、まっすぐに彼を捉える。

一拍の間。確かめるように。

 

 

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それから、ふわりと口元が緩んだ。

 

「おかえりなさい」

 

かすれも、甘えもない、自然な声音。その一言に、部屋の空気がさらに和らぐ。

蔵馬は肩の力を抜くように、呼吸をひとつ整えて、静かに返す。

 

「ただいま」

 

葵は身じろぎし、上半身を起こした。浴衣の袖がさらりと音を立てて、小さく揺れる。

 

「あなたが帰ってきたの、なんとなくわかったわ。空気が、変わったの」

 

彼女らしい感性的な発言。

蔵馬は口元だけで微かに笑う。

 

「調子はどう?」

 

「もう平気。少し眠ったら、すっきりしたわ」

 

その声に無理はなく、観察した情報と合致している。

 

(問題ないな)

 

視線を彼女の手元へ落とす。

ローテーブルの上に、小さな手帳。開かれたままのページに、彼女の指先が触れている。

蔵馬は、わずかに首を傾けた。

 

「その手帳、外側は桜でできてるね」

 

彼の言葉に、葵は手帳を閉じて少し持ち上げる。

角度が変わると、赤みのある茶色の木肌がやわらかく太陽の光を返した。

 

「さすがね。見たらわかるのね」

 

「中身は、魔界の経木(ぎょうぎ)か。なかなか通な取り合わせだ」

 

経木は木材を薄く切ったもので、木目が一枚一枚違う表情を見せていた。

繊維に沿って指を滑らせると、紙とは違う微かな引っかかりがあり、魔界では昔から親しまれている。

 

「経木をたくさん頂いたの。便利なのよね。文字を書けるし、拭くこともできる。食べ物を置いてもいいの」

 

葵は、指先で再び手帳をそっと広げる。薄い経木が擦れる乾いた音が響いた。

 

「こういうところは、相変わらず器用だね」

 

蔵馬の声に、かすかな笑みが混じる。

葵は小首をかしげた。問い返すでもなく、そのまま彼を見上げる。

 

一拍、間が落ちる。

蔵馬は視線を手帳から外し、窓へと流した。

西日が差し込み、部屋の空気を淡いオレンジ色に染めている。

 

「……ひとつ聞いてもいいか?」

 

中性的で何気ない調子だった。

 

「葵は……、魔界でもそんなふうに振る舞うの?」

 

「振る舞うって?」

 

「こうやって、ここにいるときと同様に、警戒心が薄いというか……無防備というか」

 

言葉を選びながら、最後はやや曖昧に落とされた。

葵は手帳へ視線を戻し、指先で紙の端をなぞる。少し考えるように、呼吸を整えた。

 

「うーん、そうねぇ」

 

窓からの光が、彼女の頬にやわらかく触れる。

しばらくして、ふっと笑った。

 

「前に、あなたが言っていたでしょう?」

 

視線を上げる。

 

「『オレがいるときは、頼りなくても大丈夫』って」

 

ローテーブルに置かれた蔵馬の指先が、一瞬わずかに動く。

 

「だから……あなたの前では、自然と気を許すというか。力を入れなくてもいいって、思うんでしょうね」

 

彼女は自分の言葉を確かめるように、ゆっくり頷いた。

 

「……そうだったのか」

 

蔵馬の声は低く、ほとんど息に近い。

西日が、彼の横顔を淡く縁取る。目を伏せたまま、しばらく動かない。

 

(……残っていたか)

 

以前のやり取りを思い出し、短い思考が静かに沈む。

 

やがて、葵がふと口を開いた。

 

「もう少し、しっかりした方がいいかしら?」

 

その問いは、自己否定でも不安でもなく、純粋な確認だった。

蔵馬は穏やかな視線を戻す。間を置かず、答えた。

 

「いや」

 

はっきりと声が紡がれる。

 

「そのままでいい」

 

そして言葉を選び直す――

 

「これくらいが……ちょうどよくて、好きだ」

 

静かに落ちた言葉は、部屋の空気と彼女の中に溶けた。

葵は何も言わず、花が開くように微笑んだ。

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

♢おまけ 夢の小話

 

 

 

乾いた風が、癌陀羅(がんだら)の客間をすり抜けていく。

魔界三大勢力の一人である雷禅(らいぜん)の死後、幽助は国王として初めて敵国である黄泉のもとを訪れていた。

張り詰めた空気の中、幽助が国宝石の瑠璃丸(るりまる)を黄泉の前に出した。

ジャラジャラと風呂敷から豪快に散らばる石。

そして場にそぐわない、幽助の快活な声が響く。

 

「ただのケンカしようぜ。国なんか抜きでよ」

 

真っ直ぐな意志が、その場を一変させる。

座敷の奥に控えていた蔵馬は、わずかに目を細めた。

視線を動かさないまま、状況だけを正確に捉える。

 

(……幽助らしいな)

 

頭の中で、いくつもの分岐が静かに組み上がっていた。

同時に、そのどれにも収まらない可能性があることも、理解していた。

 

「のった」

 

彼と共に控えていた妖怪の一人が、襖を開けて短く声を上げる。

他の妖怪たちも続く。

蔵馬は一歩、前へ出た。

「黄泉……。悪いが、今からオレは、ただの蔵馬だ」

 

言葉は静かだが、揺るがない。

 

「お前が応じなければ……この場でオレ達は幽助につく」

 

やがて、決着はあっけなく訪れた。

 

――場面が、途切れる。

 

「黄泉様より、国家は解散し我々も好きにしていいそうだ。ひとまず、使用していた部屋を退去し、本日中に癌陀羅から出よと仰せだ」

 

無機質な室内。石の壁、簡素な机、整然と置かれた椅子。

幹部の妖怪の一人は、短く言ってその場を去っていった。

蔵馬は静かに腰を下ろしていた。

指先を組み、肘を軽く乗せる。ゆっくりと目を閉じて、思考の海に沈む。

 

どれくらいそうしていただろうか。

外からは、遠くで何かが崩れるような音が微かに響いてくる。

国家という枠組みが、静かに解けていく余韻にも似たもの。

 

「……。」

 

短く息を吐く。

――ふと、空気が変わった。

瞼を持ち上げるのと同時に、視覚と聴覚があるものをとらえた。

 

「お疲れ様、は変かしら?」

 

柔らかな声が、空間に落ちる。

 

「……葵」

 

 

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名を呼んだところで、蔵馬の口の動きは止まった。

この場には似つかわしくない、淡い色彩。彼女だけが異質だった。

男は小さな違和感にすぐ気づいた。

 

「……そうか。オレはまた君の夢を見ているんだな」

 

「ええ」

 

葵はいつもと変わらない表情で、そこに立っていた。

石造りの冷たい空気の中で、その存在だけがわずかに温度を持っている。

蔵馬は彼女を見つめたまま、わずかに息を吐く。

 

(……来たのか)

 

胸の奥に、静かな何かが灯る。

彼は立ち上がった。椅子がわずかに軋む。

 

「ここを出る」

 

葵は頷き、何も問わない。

彼は部屋を片付け、身支度を始める。彼女もその動きに自然と加わる。

手際よく、静かに。音はほとんど立たない。

 

(……夢の中でも、変わらないな)

 

片付けが終わり、二人は薄暗い建物を歩く。

長い回廊――足音が、石に吸い込まれるように響く。

 

そして外へ。

乾いた風が、二人の髪を揺らした。

魔界の鈍色(にびいろ)の空は、どこまでも鈍く広がっている。

蔵馬は足を止め、遠くを見た。

 

「行こうか」

 

「どこへ行くの?」

 

問いに、すぐには答えない。

彼の深い眼差しは、ある一点に向けられている。行き先はすでに決まっている。

やがて隣の彼女に向けて、蔵馬は告げる。

 

 

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「魔界で、君が暮らしている場所を見てみたい」

 

葵は、ふわりと微笑んだ。花が開くような、静かな変化。

そのまま、二人は並んで歩き出す。

風の音だけが、後を追った。

 

 

――視界が、ほどける。

 

目を開けると、見慣れた部屋――人間界の景色だった。

柔らかな朝の光が、カーテン越しに差し込んでいる。

しばらく、動かない。

 

(……本当に、夢に出てきたんだな)

 

短く、息を吐く。

指先に、わずかな感覚が残っている気がした。

 

途端にふわりと立ちのぼる香気――ベッドから起き上がると、蔵馬はカーテンと窓を開けた。

朝の空気は冷たく澄んでいる。

屋根の上。そこに、彼女はいた。

 

「おはよう」

 

何気ない調子で、葵が振り返る。手には、小さな包み。

 

「これ、渡しそびれていたの。万屋の主人から、安眠の試供品だそうよ」

 

差し出されたものから、ほのかに落ち着く香りが立つ。

蔵馬はそれを見て、わずかに目元を緩めた。

 

「……これは」

 

一拍。彼は手を伸ばさず、視線だけを上げる。

 

「君が持っているといい」

 

「そう?」

 

葵は不思議そうに首を傾げる。

蔵馬は、空を見上げた。明るい朝の空が、静かに広がっている。

 

「オレは、十分に休めているから」

 

それだけ言って、視線を戻す。

言葉の奥にあるものには触れない。だが、そこにある温度は、隠そうとはしなかった。

 




最後のおまけは、90話のゲームで勝った蔵馬の当日の夜、夢の話。


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