10月下旬。乾いた空気に、秋の匂いが深まる頃。
よろず屋の主人の依頼を伝えに、葵は蔵馬の部屋を訪れていた。
彼は机に向かい、よろず屋の看板商品となった惚れ薬、《
乳棒が触れるたび、さらさらと乾いた音が立ち、かすかに甘い香りが立ちのぼった。
触れた者の心を揺らす、厄介な薬。
開け放した窓から差し込む午後の光が、粉末に変わりゆく花を淡く照らしていた。
規則的な音に重なるように、柔らかな声が落ちる。
「ねぇ、蔵馬」
「ん?」
視線は手元のまま、手の動きを緩めずに短く返す。
葵は一歩、机へと近づいた。
床板がかすかに軋む。彼の肩越しに、淡い青の粉末がゆっくりと増えていくのが見えた。
「素朴な疑問なんだけど」
「うん」
一定だった音が、わずかに間を空ける。それでも、動きは止まらない。
「私がそれを飲んだら……どうなるのかしら?」
――その瞬間だった。
ぴくっと蔵馬が、止まる。
音が消え、部屋の空気が一段と深く沈んだ。
彼は顔を上げて、ほんの少しだけ後ろを振り向いた。指先が、粉の上で静止している。
やがて、何も言わずに乳棒を置き、器具を整える。
コンと乾いた陶器の触れ合う音が、小さく響いた。
椅子が引かれ、床にわずかな摩擦音が走る。
ゆっくりと立ち上がり、振り返る。
淡い光のなか、葵はいつもと変わらない様子で立っていた。
首を少し傾け、ただ答えを待っている。
その無垢な気配が、かえって場の温度を揺らす。
彼女から漂う、どこか懐かしい安息の香りは、今の状況では別の意味となる。
蔵馬は数歩で距離を詰め、彼女の前で少し腰を落とした。
視線を合わせる。曖昧という境界に逃がさないように、測るように。
指先が持ち上がり、彼女の口唇の前で止まる。触れるか触れないかの距離で、静かに制する。
その表情は、冗談の影もない。
「葵……。それ、本気で言ってる?」
「ええ」
即答だった。
揺らぎのない穏やかな声――悪気なく、彼の理性を試しているようで。
「純粋な好奇心よ。惚れさせる薬って、どんなふうになるのか、少し興味が湧いたの」
その言葉の軽さに、空気がわずかに変わる。
蔵馬は指を引き、視線を外した。
窓の方へ。揺れるカーテンの向こう、暮れかけた空へと何かを逃がすように。
息を整える仕草が、ごくわずかに遅れる。
(効果があったら、どうするんだ…… )
思考の末に到達したのは、妙に生々しくて、甘美な妄想だった。
胸の奥で、何かが静かに軋む。
彼はすぐに思考を制御し、もう一度、彼女へ視線を戻した。
「……花の妖怪である君には、瑠璃睡蓮にある程度の耐性があるだろう」
声は低く、言葉を選ぶ間が、妙に長い。そんな自分に気づきながら、蔵馬は自分の感情の揺れを一旦許す。どこまで許せるか、見極める条件も準備して。
「だが、無効とは言い切れない」
葵は一歩、近づいた。
距離が詰まり、彼女の香りがふわっと濃くなる。こういう場合に、五感の鋭さは仇となる。
「じゃあ、少し試してみても?」
問いは軽い。だがその軽快さが、逃げ場をさらに無くす。
「……ん」
蔵馬は顎に指を添え、わずかに視線を落とした。
机の上の器具、並べられた薬草。整然とした配置の上を、思考がなぞるように巡る。
即答しない沈黙。
理と情と本能のはざまで、静かな攻防が続く。
窓辺のカーテンが揺れ、光がわずかに形を変える。その揺らぎの中で、彼は動かない。
(……どうする)
短く、内側で言葉が落ちる。
指先が、ほんのわずかに動いた。しかし結論には触れない。
葵はその沈黙を、急かさない。
ただ、静かに立っている。いつもの柔らかい表情のままで。
――もう、ここまで来た仲だ。先に進むのも頃合いだろう。
しかし、人間らしい倫理観が決断を止める。
ただ、目の前には、真綿のような誘惑が無邪気に佇んでいる。
しかも向こうから、笑顔で手招きしているようなものだった。
蔵馬は数センチだけ彼女から距離を取った。
呼吸を整える――そして、顔を上げた。
「……オレの前で飲むなら、構わないよ」
声は柔らかい。だが、その奥に曖昧さはなかった。
囁くというより、言葉とその意味の最奥を沈めるような言い方だった。
葵の瞳が、小さく瞬く。
「あら、あなたの前ならいいのね」
蔵馬はすぐに答えない。ただ視線を向ける。
静かで、揺れない双眸は深みを増す。
「ただし……」
言葉を切り、間を置く。
「オレが、黙って見ていられる保証はない」
「……?」
葵はわずかに首を傾げた。その仕草のまま、しばらく彼を見つめる。
聡明な彼女に、この男の真意が伝わるかどうかの瀬戸際。
時間がゆっくりと引き伸ばされていく感覚の中、蔵馬は静かにその時を待った。
次の瞬間、どこか腑に落ちたように、彼女の口唇の端がゆるむ。
「あ、そうよね」
理解が、静かに形になる。
「……え?」
珍しく、蔵馬の声がわずかに外れる。
対して、目の前の人は普段通りに澄んだ瞳を輝かせていた。
葵はさらに顔を近づけて、彼の目を覗き込む。真っ直ぐ、視線が合う。
「わかったわ。どうしてあなたが、それを私に勧めないのか」
「……。」
蔵馬は動かない。
彼女の言葉の矢が放たれる覚悟をし、胸の奥でやんわりと身構えた。
「もう、惚れてるから。必要ないものね」
言葉は濁りのない、本質をついたもの。
静かに置かれたそれは、どこにも逃げ場を残さない。
蔵馬の視線が、わずかに揺れる。
少し目を見開いた後、いつもの表情に戻る。言葉を返さないまま、息をひとつ吐いた。
(……まいったな)
彼は視線を外さなかった。
――今逃げる理由が、見つからない。
彼女の言葉はあまりにも清く、素直で、甘やかだった。
自分の妄想などすべてが稚拙に思えて、微々たるやるせなさが込み上げる。
「……そういうの、ずるいな」
低くこぼれた小さな声は、半ば独り言のようだった。
「え?」
葵が問い返すと、蔵馬は口元を手で覆い、視線を逸らした。
指先がわずかに震えたようにも見えたが、すぐに静まる。
毒気をさっぱり抜かれたように、彼の心は静かに深い淵に落とされた。
呼吸を整える間が、ほんの一拍だけ長い。
やがて、顔を上げずに言う。
「……今、君に惚れ直してるところなんだ」
それ以上は続けない。
言葉を置いたまま、蔵馬は静かに背を向ける。
背中越しに、葵が不思議そうにこちらを見ているのを感じながらも、机へ戻り、乳鉢を手に取る。
先ほどの続きを始めるが、所作はわずかに慎重だった。
さらさらと花びらを砕く音が、少し遅れて部屋に広がる。
葵は何も言わなかった。ただ、その背中を見つめている。
口元に残る微かな笑みが、揺れることはない。
風が、カーテンをかすかに持ち上げた。乾いた秋の匂いが、室内に流れ込む。
青い粉の甘い香りと混ざり、緩やかに温度を満たしていった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
季節は巡り、光は角度を変える。
同じ部屋、同じ窓辺でも、差し込む色はいつも少しずつ違っていた。
彼らの間に流れるものも、それに似ていた。
近づけば、温もりがある。
だがそのまま留まることはなく、次の瞬間には、そっと距離が生まれる。
押し引きではなく、ただ自然に揺れるように。
再開したとき、触れた指先の温度が以前とわずかに違う。
名を呼ぶ声の柔らかさが、気づかぬうちに変わっている。
その繰り返しは、静かに螺旋を描く時の揺らぎ。
蔵馬は、必要な距離を見誤らない。
踏み込みすぎれば壊れるものがあると、知っているからだ。
彼が初めて守り育ててきたもの。
――急ぐ必要はない。
一方で、葵は蔵馬を引き留めない。ただ、そこに在る。
風のように、光のように、彼の選択を遮らずに。
二人の間にあるのは、結論ではなかった。
確かめ合うことでも、形にすることでもない。
ただ、同じ方向へと向いているという感覚。
言葉にすれば崩れてしまいそうなものを、言葉にせずに保っている。
視線が重なる。
すぐに逸れることもあれば、そのまま留まることもある。
そのどちらにも、重い意味はなかった。
ただ――そこにある。
(……これでいい)
蔵馬は、何も言わずに理解していた。
葵もまた、それを、言葉にしないまま感じ取っていた。
終わりを定めるためのものではなく、共にあるための在り方。
静けさの中で、確かに歩みは進んでいる。
この後、短編を一話挟んで15章へ。
最近AIがいろんな画像を作ってくれています。
理想にはまだまだですが、現代版蔵馬と思ってみると、まぁまぁの質だと思われます。
蔵馬と葵のおまけ絵はこちら➡ある日の図書館
【挿絵表示】