今回より15章スタートです。人間界でのシーンが多く中で、原作のあの場所?というところも出てきます。
ご興味あれば、原作を読み返すきっかけになればうれしいです。
図書館にて
10月某日。
市立中央図書館は、秋の光を内側に溜めたような静けさに包まれていた。
高い天井、規則正しく並ぶ書架、乾いた空気の中に混じる紙とインクの匂い。
魔界の喧騒と比較すると、人間界の日常はどこか現実味が薄い。
一般の妖怪はそう感じるだろう。
しかしこの男は違った。人間として生きた時間の長さのおかげで、この穏やかさを日常と受け入れている。
蔵馬は長机の前に腰を下ろし、開いた参考書に視線を落としていた。
向かいでは桑原がペンを握り、何度も同じ行をなぞっている。
赤い線は途中から乱れ、字の大きさもばらつき始めていた。
桑原の集中力が切れ始めた合図だ。そして案の定、口を開いた。
「オメー、なんか雰囲気変わったな」
唐突な言葉にも、蔵馬はページをめくる手を止めなかった。
顔を上げずに、淡々と返答する。
「そうですか」
「なんつーかよ……。つきものが落ちた、って感じだぜ」
桑原の声は低い。この時はいたく真面目な調子だった。
蔵馬はふっと息をつく。友人の言葉を流しながらも、記憶の端にとどめた。
ふと、窓際の自習席へ視線が流れる。意図した動きではなかった。
光の差し込む列の一角。葵がよく座っていた場所だった。
積み上げられた本、背筋を伸ばした姿勢、時折外へ向けられる視線――。
窓の外では、紅葉が始まった街路樹の下で、生徒が話しながら歩いていた。
あの人は、きっとこういう景色を眺めているだろう。
今は、別の学生が同じ席に座っている。
それでも、そこに残る気配の重なりに、わずかに目が留まった。
「なあ、蔵馬ぁ」
向かいの桑原が、声を潜めて顔をずいっと近づけてきた。
蔵馬は視線を前に戻す。そして自分が何を探していたのか、何を観ていたのか気づく。
「オメーも男だな。ほら、あそこ。オレは右の子が好みだ。オメーはどっちだ? 」
答える前に、彼は一瞬だけ自習エリアを見た。女子生徒が二人、小声で話している。
もちろん、誰かを選ぶためではない。
彼の内面を全く知らない桑原は、この男の返答を面白そうに待っている。
「いえ、オレは別に」
淡々と返し、再び本に目を落とす。
桑原は不満げに鼻を鳴らしたが、それ以上は踏み込まず、シャーペンを転がして問題集に戻った。
静けさが戻る。
紙をめくる音と、遠くで椅子がわずかに軋む気配。
蔵馬は文字の列を追いながら、かの人を想う。
あの席に座る彼女は、無防備なのに空気のようで。
(……)
今そこにいなくても、葵の気配は残り香のように立ちのぼる。彼の世界で。
窓の外の雲が流れ、光の角度がわずかに変わり、机の上の影が静かに伸びていく。
蔵馬は外の世界と内の世界の変化を確かめるように、そっと目を伏せた。
図書館を出ると、外気はひやりと乾いていた。
桑原と別れ、人の流れに紛れて歩き出す。
その途中で、足が止まる。
背後で自動扉が開き、ガラスに映る光が揺れた。
振り返るより早く、視界の端で淡い色が動く。
――髪が、揺れた。
蔵馬は踵を返していた。
(……いる)
思考よりも先に、体が動く。再び図書館へ。
一階を抜け、二階の書架の間をすり抜ける。階段を上がると、音がさらに薄くなる。
紙の擦れる音と、遠くで誰かが咳払いする気配だけが残る。
三階。
書架の前に、葵はいた。
淡い髪が光を受けて、静かに色を変えている。
背表紙を一つずつ目で追い、指先で題名をなぞる。目的の本は決まっているらしく、やがて視線は上段へ向いていた。
そこは少し高い。
葵はつま先で床を押し、背を伸ばした。指先が空を切り、本の背に届きそうで届かない。
妖怪の身体能力を使えば一瞬だが、周囲には人がいる。
小さく息を吐き、彼女はもう一度、体を伸ばす。
人間のように振る舞うことを選んでいるのだろう。その姿を観ながら、蔵馬は静かに手を伸ばした。
突然――葵の視界の端に、別の手が滑り込んだ。
しなやかな動きで、本の背が引き抜かれる。
硬い紙が擦れる音が、小さく響いた。
「これでいいですか?」
男性にしては、少し高めで、艶のある声が降りる。
彼女の背中に触れるのは、壁ではなく、わずかな体温だった。
葵は振り返る。
すぐ近くに、蔵馬が立っていた。少し癖のある髪が光を受け、やわらかく色を変えている。
視線は穏やかで、そのまま本を差し出していた。
二人の間で交わされる声は、人間の耳には届かない。
「気配を消して、近づかなくても」
葵はふっと笑う。
「昔の癖なんだ」
本を渡した瞬間に触れ合う指先、そこに紙の冷たさとかすかな温度の差が残る。
「
「ええ。今来たところよ」
葵は本を抱えたまま、彼をすっと見上げた。
ほんのわずかな間。
軽く首を傾げている表情には、見覚えがあった。
どうしたのか聞かなくても、わかってしまう。
蔵馬は一歩、距離を詰める。
葵のさざ波のような感情のゆらぎを拾い上げていると、 彼は沈黙で彼女を抱きしめた。
「蔵馬。目線の高さが……」
ふっと息を漏らすと、彼は少し屈んだ。身長の話になるたび、彼女は同じ表情を見せる。
「これなら同じ高さだよ」
「……ということは、また伸びたの?」
「うん」
短い応答。
途端に、彼女は目を伏せる。
「やっぱり……ずるいわ」
どこかで交わしたことのあるやりとり。
その再現に、蔵馬の肩がわずかに揺れる。口元は、小さく笑った。
「君は生まれた時から完成されているからね。こればかりは埋まらないよ。葵の子供時代の写真がないのとで、相子だ」
葵の瞳が、ほんのわずかに細くなる。
「……やっぱり気にしてたのね」
蔵馬は答えなかった。
知らない時間があること自体は、互いに当然だ。
――それでも、もし見られるのなら見てみたいと。
視線を外し、棚へ戻す。指先で手近にあった本を一冊つかむと、話題を変えるように言う。
「読んでいくんだろ?」
「ええ」
「じゃあ、オレもそうするよ」
葵は人間界に住所を持たない。
だから本は借りず、ここで読み切るのが常だった。
言葉を置くようにして、彼は歩き出す。
階下の窓際。
彼女がよく使っていた自習エリアの席が、今は空いている。
二人は自然とそこに並んで腰を下ろした。
椅子が静かに鳴り、机に本が置かれる。
ページをめくる乾いた音。遠くで誰かが歩く気配。抑えられた声が、途切れ途切れに流れてくる。
葵は時折、本から顔を上げては窓の外の景色を眺める。
何を見ているのか尋ねたこともあったが、返ってくる言葉は、そのたびに少しずつ違っていた。
窓から差し込む光の色が移ろう。
蔵馬は視線を落としたまま、ページをめくる。
隣の気配が、呼吸のように静かにある。
(……やはり、この位置か)
離れることもある。それでも気付けば、こうして隣にいる。
それ以上は追わない。
同じ光の中で、同じ時間が流れていく。
何も起きないことが、崩れないまま続いていた。
閉館を告げるアナウンスが、館内の奥へと静かに流れていく。
二人は同時に手を止める。
ページを閉じる音が重なり、机の上にわずかな振動が残る。
椅子を引くと、木の脚が床をかすかに擦った。
階段を下り自動扉を抜けると、外の冷えた空気が頬に触れた。
夕方の空は淡い橙に染まり、街全体を包んでいる。
葵はライトグレーのパーカーに、足首まで届く青のデニム調のスカートを合わせていた。
歩くたびに裾が揺れ、足元で小さな波を作る。
蔵馬は歩調を合わせながら、視線を落とした。無意識の動きだった。
それに、葵が気づく。
「どうしたの?」
足を止めずに、首だけをこちらへ向ける。
「いや……珍しい格好だから」
言葉を選ぶような、わずかな間。視線は、揺れる布の端を一度だけ追った。
葵は小さく頷き、スカートの生地に触れた。
「これ、あなたのお母さんから頂いたの」
「……え?」
声が、ほんの少しだけいつもより外に出る。
「もう自分は着ないから、って」
その言葉に、蔵馬は足を緩めかけて、すぐに元に戻した。
(……いつの間にか、そんなやり取りもするようになったのか)
見覚えのある色合い。
すれ違うたびに、ほのかに感じていた匂い。
記憶が静かに繋がる。
先日、母がクローゼットを整理していた光景が、かすかに浮かぶ。
蔵馬は目を細めた。
「似合ってるよ」
短く、言葉を置く。
葵は柔らかく微笑みを返した。