アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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二人の距離

 

 

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「そうねぇ……。働くという視点では、あまり考えたことがなかったわ」

 

「……それじゃあ」

 

蔵馬も足を止め、同じ空を見上げる。

夜へと沈みかけた空に、ひとつ、またひとつと星が浮かぶ。

 

「働く視点じゃなかったら……あるってことだよね?」

 

わずかな沈黙が、その奥にあるものを示していた。

 

「ええ……あるわ」

 

葵は、ゆっくりと彼の方を向いた。

迷いのない眼差し。今この瞬間を生きる意志が、そこに在る。

 

「あなたと、こうしている時間が……私の望むことだわ」

 

そのとき、車が一台通り過ぎた。二人の間で、ヘッドライトが揺れて流れていく。

エンジン音が消えていく中、蔵馬はすぐに答えなかった。

深い眼差しを彼女に向け、一度だけ瞬きをする。息が、わずかに深くなる。

 

葵は未来を語っていない。何かを手に入れたいとも、 何かになりたいとも言わなかった。

ただ今の、ここにある時間を両手のひらで差し出した。

 

「……それは」

 

言葉を紡ぐ直前、風が通り抜ける。

 

「望まなくても、叶うよ」

 

中性的で透明感のある声で、彼の言葉が返される。

彼女は小さく微笑んだ。

 

「……ありがとう」

 

川の方から、風がたゆたう。

二人の間に落ちた沈黙は軽やかで、温度があった。

 

そのまま、並んで歩き出す。足音が揃う。

夜はまだ、始まったばかりだった。

 

やがて、風が冷たさを帯び始めていた。

街灯の間を抜けるたび、空の星が少しずつ増えていく。

 

葵は歩きながら、首を伸ばすようにして星を眺めている。

その背中を、蔵馬は数歩後ろから追っていた。

近すぎず、遠すぎず。――何とも表現しがたい距離。

その歩調が、ふと緩む。

蔵馬は足を止めた。

 

「……葵」

 

名を呼ぶ声は低く、その間で彼女を抱きしめる。

 

 

葵はすぐに振り返らない。

しばしの無音の時間。

そして彼女は呼ばれた方向へ、ゆっくりと歩み寄る。

表情は柔らかく、言葉にならない問いかけ。

蔵馬は視線を合わせたまま、口を開いた。

 

「オレは……どちらかが一歩下がったり、追いかけたりする関係ではなくて」

 

途中で言葉を切ると、夜風に一瞬預ける。

それは追い風だった。

昔の自分なら、 こんな言葉は選ばなかっただろう。でも今は違う。

 

「隣にいたいんだ」

 

彼の発した温度のある音が、空気を震わせる。

葵はそれを受け取るように、瞬きをひとつした。

 

「それは……」

 

彼女は少し考え、言葉を選ぶ。

 

「ずっと飽きない、対等な恋人のような関係かしら?」

 

そう言いながら、視線が彼の手元へ落ちた。

その指先は、意識していないふりをしたまま、ほんの少しだけ彼女の方へ寄っている。

 

「……うん」

 

短い返事には、脚色も計算もない。

自分でも輪郭の曖昧だった感覚を、 葵は簡単に言葉にしてしまう。

 

次の瞬間、距離がほどける。どちらからともなく、指先が触れた。

握るわけでもなく、指を絡めるでもなく。ただ、触れている。

 

「一緒にいるって……きっと、こういうことなんだ」

 

「ええ」

 

彼女は静かに頷く。

 

「私は、あなたとこうしていることが……仕合わせだわ」

 

触れた指先は、そのまま離れない。

離れる日があってもいい。また戻ってくればいい。

その繰り返しの先に、 今と同じ場所がある。

 

(……これでいい)

 

 

 

彼女が歩みを戻そうとした、そのとき。

蔵馬は一歩、距離を詰めた。伸びた左手が、葵の右手をとらえる。

今度は、ためらいがない。指先が絡み、確かな重みを持って繋がる。

葵はゆっくりと顔を上げた。星を宿したような瞳に、彼の姿が映る。

 

 

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「葵」

 

夜の静寂に、名が広がる。

 

「もう、この手は離さない」

 

誓いではなく、決めたことをそのまま置くように。

 

(あなたらしいわね……)

 

「……ありがとう」

 

その言葉は、軽くも重くもなく、ただ真っ直ぐに返された。

ふわっと微笑む葵の表情は、今までの時間を物語っていた。

 

二人は手を繋いだまま、再び歩き出す。

頭上では、星々が変わらず瞬いていた。

 

 

 

その日の夜。

南野家のリビングでは、テレビの音が小さく流れていた。

ソファに腰掛け、蔵馬は本を開いている。何気ない人間界での時間だった。

 

「葵さんって、秀一さんの彼女だよね?」

 

突然投げられた弟の質問。

彼は一瞬だけ視線を上げる。読みかけの本を閉じ、指を挟める。

 

「うーん……そうだな」

 

少し考える素振りを見せる。これは、兄として意図的な沈黙。

二人の関係性を、家族に明言したことはない。

 

(……頃合いか)

 

息を整えると、静かに言葉を紡ぎ始める。

弟の言葉では、 どこか遠い。

 

「彼女、というより――人生の伴侶として、一緒にいるつもりなんだ」

 

「え? え?」

 

途端に弟の顔が固まる。

 

「伴侶って……言葉、難しくない?」

 

「はは」

 

蔵馬は小さく笑う。

 

「でも、ちゃんと答えたからね」

 

それだけ言って、彼は本を片手にゆっくりと階段を上がっていった。

足音が二階へ遠ざかる。

しばらくして、家事を終えた母親がリビングに戻ってくる。

 

「あら、どうしたの?」

 

「秀一さんに、葵さんとのこと聞いたらさ」

 

弟秀一は、少し困った顔で言う。

 

「難しい言葉を返されて……よくわからなかったんだ」

 

「秀一は、なんて言ってたの?」

 

「『彼女というより、人生の伴侶として一緒にいるつもり』だって」

 

中学二年生には、少し背伸びした言葉だった。

 

「まぁ……」

 

母は目を瞬かせる。

それから、ふっと息をこぼした。

 

「秀一が、そんなこと言ったの?」

 

「うん。言ってた」

 

「……そう」

 

(あの子がね……やっぱりそうなのね)

 

小さく笑みが浮かぶ。

志保利母は、息子が消えた二階の方向に温かい視線を向けた。

 

「それ、私たちにじゃなくて、ちゃんと本人に言ってるのかしらね」

 

「どういう意味?」

 

疑問が解消されない弟秀一は、テレビを見るのも忘れて母に詰め寄る。

母親は答えず、本棚へ向かう。

一冊の辞書を取り出し、二人目の息子に差し出した。

 

「はい。これで調べてみて」

 

弟秀一は無言で受け取り、首を傾げながら「は行」を探す。

 

 

その頃、二階では蔵馬が背を扉に預けていた。

灯りは落とされ、部屋は薄い闇に沈んでいる。

ほんの少し前に繋いだ手の感触が、まだ残っている。

 

 

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葵は変わらない。

出会った頃から、 いつもそこにいた。そしてこれからも、彼女のあり方は変わらないだろう。

 

――離さない。

短く、内に落とす。そして東の窓の外を見る。

 

「……。」

 

夜はまだ深まりきらず、ゆるやかに続いていた。

 

人間としてここで生きる。

葵とともにある。

どちらも自分が選んだことを、彼は静かに見つめていた。

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

 

10月某日のこと。

夜はすでに深く、家の中は静けさに沈んでいた。

壁時計の針が刻む音も、どこか遠くへ溶けていく。

 

蔵馬は寝支度の途中で手を止めた。

鋭敏な感覚が告げていた。窓の外、夜の空気に混じる淡い揺らぎのような気配。

風とは違う、慣れ親しんだ妖気の輪郭を、肌が先に知る。

 

(……近くにいるな)

 

彼は息を整えるように一度、ゆっくりと瞬きをした。

そのまま、何事もなかったかのようにカーテンへと歩み、布地を指先でつまんで静かに開く。窓も、ほんのわずかに。

夜風が入り込み、薄い布が羽の柔らかく揺れた。

 

そのまま鏡の前へ。

脱いだままの上半身に、夜の冷気が触れる。

髪に手を入れ、整えるふりをする。

視線は鏡へ。背後の空間を、さりげなく映す。

 

――待つ。彼女が来るのを。

信頼しているからこその、遊び心という名の仕掛け。

 

そしてその瞬間は、やはりやってきた。

空気が、ひとつ変わる。

冷たさの中に、 ほのかな甘さが混じる。

窓枠に影が落ち、音もなく葵が室内へと滑り込んだ。

 

 

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淡い気配が、彼の五感を刺激する。

 

「……あら」

 

小さく、息を含んだ声。

葵は動きを止めた。

驚きよりも先に、状況を掴もうとする静かな間があった。

星を映したような瞳が揺れ――鏡越しに彼を捉えた。

 

その一瞬。瞳の奥に、わずかな戸惑いが走る。

蔵馬は振り向かない。鏡の中で、目元だけがわずかに細まる。

 

「……全部、見ていく?」

 

低く艶のある響きで、ほんのわずかに息を含ませながら、柔らかく落とす声。

部屋のわずかな照明に浮かんだ顔は、どこか愉しげで、静かな余裕がある。

計算された彼の行動に気づき、葵は小さくため息をもらした。

 

「……やっぱり、あなたは例えようのない性格ね」

 

淡々とした口調。その一方で、彼女の指先が、ほんのわずかに揺れていた。

鏡越しにそれを確かめると、蔵馬はゆっくりとシャツを手に取った。

袖を通し、ひとつずつボタンを留めていく。

急がない。一定の速度で。

 

 

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(……予想通りの反応だ)

 

今の葵の言葉と反応は、彼女らしい蔵馬への返しだった。

 

着替えを終わらせると、彼は歩き出した。

彼女のもとへ。

距離が縮まるごとに、香りが濃くなる。

涼やかで、甘い。

薄地のカーテンが、二人の間で静かに踊った。

 

「……これからは、夜遅く来るのは、気をつけた方がいい」

 

囁くような柔らかい音――その奥には、激情ともいえる熱が潜んでいる。

すぐに手が届くのに、触れない。その境目で、彼は足を止めた。

至近距離で見つめるその瞳には、魔性を含んだ悪戯な光があった。

 

「何か起きても……もう止められそうもないから」

 

脅しでも警告でもなかった。これは、自分の中にある熱を認めた言葉だった。

 

その言葉に、葵のまつげがゆっくりと伏せられる。

蔵馬の胸の奥の熱を、慎ましく、しっかりと受け止めていた。

彼女の花のような口唇は、動かない。

 

月明かりが、窓の隙間から差し込み、床に淡い線を描いた。

蔵馬も何も言わない。ただ待つ。

静寂の中、葵はゆっくりと顔を上げ、その奥深い眼差しを返した。

 

「……では、私はどうすれば、いいかしら?」

 

声音は穏やかで表情も変わらない。

けれど目の奥に、ひとしずくの照れが浮かんでいた。

 

「たとえば……」

 

蔵馬は口唇に微笑みを残したまま、彼女の髪にそっと触れた。

月光を含んだ象牙色に光る髪。

今日もそこには、見覚えのある紐が結ばれていた。

そこに寄り添う赤と銀の結び目ごと、指先でやさしくなぞる。

 

(……ここまでは、許される)

 

指先の感触を確かめながら、境界にある蔵馬は静かに息を落とした。

 

「次に、この時間に来るときは、事前に聞く……という選択がある」

 

柔らかいが低い声は、空気に沈めるように置かれた。

 

「……それは、あなたのため?それとも……私のため?」

 

葵は視線をわずかに上げる。

問いはまっすぐで、揺れがない。

 

「……どちらだと思う?」

 

短く返答して、その先を閉じる。 そして葵の瞳が揺れないことを確かめる。

その問いに対する彼女の答えを、彼は知りたかった

言葉はそこで生まれなくなる。

静かな沈黙が、二人の間に落ちる。 呼吸が、近くなる。

無音の時間さえ、心地よかった。

 




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