アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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離れた日常

 

魔界にて。

西の森は複雑に入り組み、方角さえ失わせる場所だった。

それでも蔵馬の歩みは止まらない。

地中を流れる見えない磁場を、妖狐の本能が静かに捉えている。

だが彼が辿っているのは、それだけではなかった。

 

森が深くなるにつれ、風に混じる匂いが変わる。

湿った岩肌、苔、古木。その奥に、ごく微かに花の気配が混じった。

嗅ぎ間違えるはずがない。

それでも最後に彼を進ませていたのは、理屈ではなく裏付けのない確信だった。

 

森を抜けると、暗い谷が彼を待っていた。

しなやかに谷を跳びおりていくと、足を滑らせた新しい痕跡が目に入る。

 

――ここを通ったか。

確信に、確証が加わる。

 

深い谷底は、悠久の年月をかけて形成された洞窟になっていた。

細い川が岩肌を縫うように流れ、湿って冷えた空気が肌を刺す。

地上から届く光はほとんどなく、彼は速度を緩めるたび、足元の岩陰へアカル草を植えて道標にした。淡い光の花が静かに根を張り、闇の中へ細い道を描いていく。

 

周囲に妖怪の気配はない。

虫の羽音さえ聞こえない。

あるのは、水滴が落ちる音のみ。風が吹き込む音さえ入らない。

 

奥へ進むにつれ、微かに花の香りが流れてくる。

葵の香気だった。

 

蔵馬は足を速めた。

やがて洞窟の天井が大きく裂け、遥か頭上へと続く縦穴が現れる。

そこから差し込むのは、薄く青白い光。ある場所を静かに照らしていた。

光の中に、淡藤色の背中があった。

岩へ身を預けるように。抱きしめるように。静かに眠っている。

 

 

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蔵馬の足が止まる。

張り詰めていたものが、わずかに緩む。

 

――見つけた。

 

その一呼吸のあとで、彼は彼女のもとへ駆け寄る。

 

「……葵」

 

抱き起こした体は予想以上に軽く、冷たかった。

一瞬だけ眉が寄る。

すぐに首筋へ指を添え、呼吸状態を確かめる。

 

 

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弱々しくも、生きる温もりがあった。腹部へそっと手を当て、妖気を流す。

ほどなくして、葵の体がかすかに応えた。

 

その小さな反応に、蔵馬はようやく息を吐く。

目立った外傷はない。擦過傷がいくつかあるだけだった。

 

抱き起こしたことで露わになった岩肌へ、ふと視線が落ちる。

いにしえの文字が、一語だけ刻まれていた。

 

(……)

 

蔵馬の瞳が静かに揺れる。意味を読み解くのに、時間は要らなかった。

視線を文字から葵へ戻す。

 

「……本当に」

 

それだけ小さく漏らし、口元にかすかな緩みが浮かぶ。

苦笑に近い、彼にしては珍しい表情だった。

 

――この人には、かなわない。

 

そのとき。

腕の中で花色の睫毛が震えた。

 

「……蔵、馬」

 

かすれた声が、静寂をほどく。

葵が何かを伝えようと、口唇を動かした。

喉から音となる前に、蔵馬は静かに彼女へ顔を寄せる。

 

「……何も言わなくていい」

 

水音しかない洞窟に、彼の声が涼やかに響く。妖気を送り続ける手は離さない。

 

「オレがいる」

 

 

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理由も、説明もいらない。

今はただ、彼女がここにいる。それが全てだった。

 

繊細で包み込むような声に、意識がゆっくりとほどけていく。

葵は何も言わなかった。そしてその存在へ身を委ねるように、静かに瞼を閉じた。

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

数日前。

人間界は、十月の乾いた風が金木犀の香りを運ぶ季節だった。

午後二時。

 

約束の時間を少し過ぎても、彼女は現れなかった。

駅前には人の流れが絶えず続き、夕暮れへ傾き始めた陽がガラス窓を淡く染めている。

ビルの隙間を抜ける風が街路樹を揺らし、遠くで車のエンジン音が低く流れていた。

 

蔵馬は駅前の一角に立ったまま、人の流れへ静かに視線を向ける。

腕時計を見ることはなかった。

いつもなら、もう気づいている。

 

歩くときの音。

どこか懐かしい酔芙蓉の香り。

こちらを見つけた瞬間、ふっと立ち上がる柔らかい温度。

それが今日は、最初からどこにもない。

 

蔵馬はゆっくりと息を吸い、静かに吐いた。

遅れること自体は珍しくない。

人間界の時間感覚は、彼女にとってまだ完全には馴染んでいない。

 

それでも――。

彼は小さく首を動かす。

来ない、そうではない。最初から、この世界にいない。

 

そんな確信のようなものが、直感的に胸へ落ちてきた。

駅前のガラスに映る自分を、一瞬横目で捉える。

穏やかな表情は変わらない。けれど気づけば、体は半歩だけ前へ出ていた。

無意識だった。

 

左手首を持ち上げかけて、やめる。時間は、今は意味を持たない。

代わりに空を見上げた。雲は薄く流れ、風は澄みきっている。

異変を隠すものは何もない。それが、かえって静かすぎた。

 

 

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音もなく、蔵馬はその場を離れた。

目的地は決めない。

 

川沿いの遊歩道。

季節の花が咲く公園。

商店街の書店の前。

図書館。

彼女が足を止めそうな場所を、自然と辿っていく。

やはり、どこにもその存在はない。

 

歩きながら、脳裏を一つの景色がよぎった。

川面に映る星を見つめ、静かに微笑んでいた横顔。

夜風の中、並んで歩く時間。

何気ない会話。

それは一瞬で過ぎ去る。

 

思い浮かべたのは、葵という存在ではなく、彼女と共に積み重ねた人間界の日常だった。

 

蔵馬は足を止め、ゆっくりと周囲を見渡す。

沈黙の奥で、一つだけ答えが定まった。

踵を返す。歩調は変わらない。

速くもなく、遅くもない。迷いはもうなかった。

 

彼女が来なかった訳を、問いただすためではない。

ただ、迎えに行くために――その理由を、彼は考えなかった。

考える必要がなかった。

それはもう、当たり前になっていたから。

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

約束の日の夜。

人間界の空は澄み、薄い雲を透かした月が静かに街を照らしていた。

 

葵は現れなかった。

蔵馬は部屋の灯りを落としたまま、窓辺に立つ。

 

机の上には、読みかけの本と書類が整然と置かれている。

手を伸ばせば、いつものようにページをめくることができる。

だが、その夜は一度も触れなかった。

時計を見ることもない。秒針の進みは、耳ではなく体が知っている。

 

夜の静けさの中へ、意識を澄ませる。

風。街の音。遠くを歩く人の動き。

そのどこにも、彼女の気配はなかった。

 

窓越しに夜空を見上げる。

いつからだろう。星を眺める時間が、自然と増えたのは。

静かに息を吐く。

 

葵は亜空間を渡る。

危険が迫れば、自ら距離を取ることもできる。

それでも戻れないのなら――。思考はそこで止まった。

それ以上、理由を積み重ねる必要はなかった。

静かな夜が流れていく。

 

 

翌日も、葵は現れなかった。

朝はいつも通り始まる。

食卓を囲み、家族といつも通りの会話を交わす。

学校へ向かい、教室で席に着く。

教師の声が流れ、ペン先が紙を滑る。

変わらない日常。そのはずだった。

 

放課後。帰り道を歩きながら、蔵馬はふと足を止める。

川沿いを渡る風が、金木犀の香りを運んでくる。

見慣れた景色だった。

けれど、その風景の中に、欠けているものがある。

 

それは思い出そうとして浮かんだのではない。

日常の景色が、自然と呼び起こしたものだった。

 

蔵馬は静かに目を閉じて、短く息を吐く。

感情に名前はつけない。

ただ、不在という事実だけが、昨日より少しだけ重くなっていた。

 

 

二日目の夜。

蔵馬は静かに旅支度を始めた。

必要最低限のものだけを揃える。無駄な動きは一つもない。

決意というよりも、彼の中では自然で明日の支度に近かった。

 

 

三日目の朝。

境界を越えた瞬間、空気が変わる。

重く、粗く、妖気を含んだ魔界の風が頬をかすめた。

懐かしさとも違う感覚を胸の奥に受け止めながら、蔵馬は足を止めることなくD地区へ向かう。

 

よろず屋の戸を開くと、乾いた薬草と貴金属の匂い。

店主の赤星が顔を上げると、その表情がわずかに引き締まった。

 

「……蔵馬の旦那」

 

蔵馬は頷くだけだった。

 

「数日帰ってきていない」

 

主語がなくてもわかる。赤星は必要最低限の情報を伝える。

 

「西の森へ向かったことしかわからねぇ」

 

「……そうか」

 

短い沈黙が落ちる。

彼は静かに踵を返した。癖のある長い髪がなびく。

 

「案内はいらない」

 

赤星は何も言わない。

この男に任せていれば十分。そんな確信が、その場に残った。

 

 

森へ入ると、湿った土の匂いが濃くなる。

木々の間を風が抜ける中、蔵馬は立ち止まらない。

匂い。

地形。

植物の流れ。

風向き。

それらを意識しているようで、意識していない。

体が自然と進むべき方向を選んでいた。

 

谷へ続く岩場に辿り着く。

眼下には、光の届かない深い闇が口を開けていた。

花の妖怪には、決して心地よい場所ではない。

それでも、彼はためらわなかった。

静かに谷を見下ろすと、蔵馬は闇の奥へ降りて行った。

 

 

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♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

 

 

さかのぼること数日。葵はよろず屋の一角で働いていた。

占断の客足が途切れた頃だった。

 

――……。

 

音ではない。言葉でもない。

胸の奥へ直接触れるような、小さな呼びかけ。

葵はゆっくりと顔を上げた。

 

(……呼んでいる?)

 

驚きはなかった。

この声が、自分だけに届くものだということを彼女は知っている。

静かに目を閉じる。

意識を向けると、声は西の方角から流れてきていた。

町の外れにある深い森の果て。

 

葵は手早く店じまいをした。暖簾をおろし机を片付けると、赤星に声をかけた。

帳簿に目を落としていた彼は、顔を上げる。

 

「おう、どうした?」

 

「西の森で、少し確認したいことがあるの」

 

「急ぎか?」

 

「ええ。でも、すぐ戻るわ」

 

翌日は、蔵馬と人間界で会う予定だった。今日中に戻れば十分間に合う。

赤星は少しだけ考え、それから頷いた。

 

「暗くなる前には帰れよ」

 

「わかったわ」

 

葵は小さく微笑み、店を出た。

 

 

西の森は静かだった。

風が梢を揺らし、葉擦れの音が緩やかに続いている。

植物たちは、それぞれ異なる気配をまといながら、この森で息づいていた。

 

 

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葵は立ち止まることなく進んだ。

声は消えない。近づくほど、むしろ輪郭を帯びていく。

この現象の理由を、考えようとは思わなかった。

ただ、この先にある。その感覚だけを頼りに、声の方向を目指す。

 

森はやがて深い谷へと姿を変えた。

切り立った岩肌の間を、冷たい風が流れ落ちていく。

足場は脆く、ところどころ崩れている。小さな石が転がり、斜面を滑り落ちた。

 

葵も一歩足を滑らせ、岩肌へ肩を打った。

 

 

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それでも、そのまま身を支えて再び歩き出す。

痛みよりも、声に近づいていることが心に留まる。

谷底へ降りると、空気はさらに冷たくなった。

湿った岩肌を伝う雫が、小さく音を立てている。

 

その奥。洞窟が暗く口を開けていた。

葵は迷わず足を踏み入れる。

光は急速に薄れ、世界から色彩が静かに抜け落ちていく。

それでも声だけは、はっきりとそこにあった。

 

洞窟の最奥。不意に視界が開ける。

天井は大きく裂け、遥か頭上へ続く縦穴が姿を現していた。

そこから差し込む淡く青白い光が、一つの岩を静かに照らしている。

 

(ここなのね……)

 

声は、この場所から響いていた。

葵はゆっくりと岩へ歩み寄る。

表面には、長い長い年月を経た古代文字が刻まれていた。

意味を読もうとは思わなかった。

文字よりも先に、そこに残された残響が胸へ流れ込んできたからだ。

 

――待っている。

その想いだった。

 

誰を。

どれほどの時間。

何を願って。

何一つわからない。

 

それでも、その想いだけは今もここに残り続けていた。

葵は岩へそっと手を添える。冷たい感触が手のひらへ伝わる。

 

 

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静かに目を閉じた。

 

(……ここに、いるわ)

 

声にはならない返事を、岩へ預ける。

誰かを待ち続けた、その記憶が独りにならないように。

葵はゆっくりと体を寄せた。その残された想いを包みながら。

 

洞窟の中は静まり返っている。

青白い光だけが、わずかに降り注いでいた。

時間だけが過ぎていく。

 

少ない光の中で、花の妖怪である彼女の体は、少しずつ力を失っていった。

呼吸が浅くなる。

指先から妖気が静かにほどけていく。

それでも、葵は離れなかった。

 

(……大丈夫)

 

誰に向けた言葉ではなく、自然に浮かんだ想いだった。

視界がゆっくりと白くかすみ、やがて音も光も静かに遠ざかっていく。

そのまま彼女は、残された想いに寄り添いながら、静かに意識を手放した。

 




なぜか挿絵が多いです。
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