最初に戻ってきたのは、匂いだった。
乾いた木の床が持つ、やわらかな温もり。
植物にちかい涼やかな香りが、静かな空気に溶け込んでいる。
次に音が届く。紙をめくる、かすかな音。規則正しくはない。
けれど、不思議と心が落ち着くリズムだった。
葵はゆっくりと瞼を開いた。
低い天井。見慣れた梁。
ぼやけた視界が少しずつ輪郭を取り戻していく。
(……赤星の家)
そう思い至るまでに、少しだけ時間がかかった。
体を起こそうとして、思うように力が入らない。
その気配を感じ取ったように、紙の音が止んだ。
窓際へ視線を向ける。
椅子に腰掛けた蔵馬が、本を閉じてこちらを見ていた。
茶色のブルゾンは脱ぎ、淡い色のシャツだけの姿。
だが、その穏やかな眼差しだけで、そこにいてくれた時間の長さが伝わってくるようだった。
視線が重なる――言葉は生まれない。
葵はただ、彼を見つめた。
そこにいることが不思議ではなく、あまりにも自然だった。
蔵馬は静かに立ち上がる。
足音を立てず歩み寄り、布団の横へ腰を下ろした。
「……起きたね」
葵は小さく頷こうとして、わずかに眉を寄せる。
まだ体は重い。
蔵馬はその様子を確かめるように、一度だけ視線を巡らせた。
「妖気をほとんど使い切っていた。しばらくは休んだほうがいい」
その声は、谷で聞いたものと変わらない。
何も責めず、何も問わない。ただ受け止めて、ここにいる。
促されて、葵は上半身を再び布団に沈めた。
静かに息を整えると、谷底の光景が、ゆっくりと戻ってくる。
青白い光。岩肌。そこに残っていた、消えかけた想い。
「あの場所から……声が聞こえていたの」
蔵馬は頷きもせず、続きを待った。
「何千年、何万年も前に……誰かが、確かに、そこで待っていたわ」
その声は、静かに部屋へ広がる。不思議と余韻が残るように。
「そして帰ってくることを……ずっと」
葵は少しだけ目を閉じた。残響として胸にあるその声が、思い出される。
「だから、その声に伝えたの」
短い沈黙が流れる。
「私は、ここにいるって」
それ以上、彼女は語らなかった。
声の主が何者だったのか。
なぜそこに残っていたのか。
彼女に声を届けた目的はなにか。
意味を知ろうとは思わなかった。でも、その想いだけは、消えてはいけない気がした。
蔵馬は静かに目を伏せた。
谷底で見た、一語だけ刻まれた古代文字。
――ここに在る。
あの文字は、残された誰かを示していたわけではない。
あの場所で、何も言わずその想いに寄り添っていた葵自身もまた、その言葉そのものだった。
(……君らしいな)
心の中でだけ、小さく呟く。
思い返せば、自分は理屈で彼女を探しに来たわけではなかった。
最初にあったのは、ただ一つ。
迎えに行く。
その感覚だけだった。
いつから、それが当たり前になったのだろう。
考えても答えは出ない。
確かなことは、――この人は、自分の思い通りには生きない。
誰にも操れない。
それでもいい。そのままでいい。
だからこそ、共にありたいのだ。
蔵馬は立ち上がり、湯飲みを手に取る。
温度を確かめ、そっと葵へ差し出した。
「喉を潤すといい」
葵は受け取り、かすかな湯気の向こうから彼を見上げる。
「……あなたが来ることを、知っていたわ」
蔵馬は答えない。代わりに、ふっと小さく笑った。
「……しょうがないな」
その表情は、呆れでも諦めでもない。彼女にしか見せない穏やかな微笑だった。
葵もまた、小さく微笑む。
「あなたは、やっぱりそういう人ね」
二人の間に、それ以上の言葉の続きは必要なかった。
夜の魔界は静かだった。
窓の外には、変わらぬ闇が広がっている。
けれどもその闇は、谷底で見た孤独な暗さではない。
離れても、また戻る。
迎えに行き、迎えられる。
その繰り返しの中で、二人は同じ場所へ還ってくる。
そのことを、互いにもう知っていた。
夜が明け、室内へ差し込む光の色が変わっていた。
葵はゆっくりと瞼を開く。
昨日まで体の奥へ沈んでいた重さは消え、指先を動かすと、感覚は静かに戻っていた。
身を起こそうとした、そのとき。戸が静かに開く。
足音を立てることなく、蔵馬が部屋へ入ってきた。
こちらへ向けられた視線が、一瞬だけ止まる。
それだけで観察は終わる。彼は彼女が回復していることを悟った。
「……おはよう」
穏やかな声。
何一つ変わらないその響きに、葵は小さく息をついた。
「おはよう、蔵馬」
起き上がると、おろした髪が肩を滑り落ちる。
「もう、大丈夫そうだね」
「ええ」
部屋をゆっくりと見回し、彼はふっと口元を緩めた。
必要なものだけが置かれた静かな空間。
飾らないその部屋は、やはり予想通りだった。
「……君らしい部屋だ」
その一言に、葵は少しだけ目を見開く。
感じ取ろうとしていないのに、自然と彼が今何を思っているのかが伝わってくる。
胸の奥へ、小さな温かさが満ちていく。
彼女の想いが言葉になる前に、体が先に動いた。
「蔵馬」
葵は自分の隣を手で示す。
「ここに座って」
蔵馬は何も尋ねず、彼女の横に腰を下ろした。
布団がわずかに沈む。その振動まで、心地よく感じる。
葵は静かに目を閉じた。
そして自然に、蔵馬の肩へ体を預ける。
「……今日は、こうしたいの」
考えて選んだわけでもない。
ただ、この場所へ戻ってきた体が、そうしたいと言っていた。
「……」
蔵馬の肩が、ほんのわずかに揺れる。
それは驚きではなく、照れとも違う。
肩へ伝わる重みを感じながら、彼は静かに息をついた。
――やはり、この位置か。
そんな想いが、胸の奥で小さく笑う。
抱き寄せようとは思わない。繋ぎ止めようとも思わない。
この人はどこへ行っても、またここへ戻ってくる。
もう、それを知っているから。
葵はそっと息を吸った。彼の衣服に残る香りが、胸に広がる。
「……いつもの匂い」
小さく呟いてから、微笑む。
「安心するわ」
蔵馬は答えなかった。
静かに顔を傾け、彼女の髪へ頬を寄せた。柔らかな感触が頬をかすめる。
その距離が、今の二人にはごく自然だった。
葵は何も言わない。
蔵馬も何も言わない。
部屋には、穏やかな朝の空気が流れている。
互いを変えようとはしない。
互いを繋ぎ止めようともしない。
ただ、そこにいる。それだけで十全だった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
10月末日。
夕暮れの台所には、湯気とともに、穏やかな時間が満ちていた。
煮物の甘い香りが漂い、窓辺には西日が淡く差し込んでいる。
ちょうど手をとめてリビングに入ってきた母に視線を送り、蔵馬は、ひと呼吸置いてから声をかけた。
「……母さん、少しお願いがあるんだ」
志保利が顔を上げる。
意外そうに目を瞬かせてから、柔らかく微笑んだ。
「あら。秀一がお願いなんて、珍しいわね」
彼は肩の力を抜くように、小さく息を吐く。
言葉を選ぶ仕草が、いつもよりわずかに慎重だった。
「葵のことなんだけど……。彼女、温泉が好きなんだ。でも入り方が、あまり分かってないみたいでさ」
「入り方?」
「気づいたら、湯あたりしてるようなんだ。何度も」
志保利は思わず手を口元に当てた。
「それは大変ね」
蔵馬は頷きながら、視線を一瞬だけ伏せる。
脳裏には、銭湯で顔を赤くしてぼんやりと座る葵の姿が浮かんでいた。
「よかったら……母さんが一緒に行って、教えてあげてくれないかな」
一拍の間。
それから、志保利の表情がふっと華やいだ。
「ええ、いいわよ」
さらに何かを思いついたように、手を合わせる。
「そうだわ。せっかくの機会だもの。みんなで一泊二日で行くのはどうかしら?」
「……え?」
蔵馬は一瞬だけ目を見開いた。
その提案があまりにも自然だったことに、小さく息をつく。
「いいの?」
「もちろん。葵ちゃんと一緒に旅行してみたかったの」
「……」
母の中では、葵はもう招く相手ではなく、一緒にいるのが当たり前になっているようで。
そのことが、胸の奥へ静かに残った。
彼女はすでに、父と弟とも顔なじみ。快く賛同してくれるだろう。
「ありがとう。それで……葵の特徴としては……」
言いながら、彼は苦笑に近い息を漏らす。
今までの付き合いから、色々なことが思い出される。
「とにかく、体感温度に鈍い」
「……え?」
「寒さに気づかなくて、防寒しないまま
「まぁ」
「発熱に関しては……本人が熱いと分かった頃には、もう倒れる寸前なんだ 」
話しながら、芋づる式のように出てくる記憶。
彼の言葉は淡々としているのに、ひとつひとつが具体的だった。
志保利母はくすりと、声を漏らして笑う。
「ずいぶん、実感のこもった言い方ね」
「……まぁね」
彼は視線を横に逸らし、少し間を置いてから続けた。
「湯あたりの予防は、繰り返し説明しているんだけどね。本人は大丈夫だと思ってる。でも、熱いと自覚した時点で、もうのぼせてるんだ」
「あら……」
志保利は目を細め、どこか楽しそうに微笑んだ。
「意外ね。いつもしっかりしているから。そういうところがあると、ギャップがあって可愛く感じるわ」
「……なんというか」
蔵馬は適切な言葉を探す。
その絶妙な間が、母親の予想通りだった。
「抜けてるところが、ものすごく抜けてるんだ」
「ふふふ」
志保利の笑みが深まる。
「秀一の顔を見てるとね、可愛くてしょうがないって言ってるように見えるの」
「……そう見える?」
問い返す声が平静なのは、数千年生きた経験と余裕から。
息子が否定しないことに、母は黙ってにこにこと彼を見つめていた。
「それじゃあ……父さんには、オレから話しておくよ」
「ええ」
その言葉に、志保利は目を細める。
いつの間にか、息子の日常にはもう一人の姿がごく自然にあった。
後日。部屋に尋ねてきた葵に、蔵馬は旅行の話を切り出した。
「葵、お願いがある」
葵は小さく首を傾げた。
「お願い?」
返答の代わりに、蔵馬はわずかに微笑む。
「今度、家族と温泉へ出かけることになった。母さんが、君も誘いたいと言っているんだ」
葵はゆっくりと瞬きをした。
「私も?」
「うん」
その声は普段と変わらず穏やかだった。
少しだけ間が空く。
言葉を探しているのではなく、彼の中で今までの時間が自然と思い出されていた。
「一緒に来てくれないか」
言葉は自然だった。それでいて、どこか大切なものを差し出しているようでもあった。
葵は蔵馬をしばらく見つめる。
「……本当に、行っていいのかしら?」
「母さんは、けっこう張り切ってたよ」
「……そう」
以前に彼が旅行本を見せながら、人間界でのスタイルを説明していたことを思い出す。
(まさか、あなたの家族と一緒に行くなんて……思わなかったわ)
少し気恥ずかしいようなくすぐったい気持ちになり、葵は小さく笑った。
蔵馬は、その表情を確かめるように、ほんの少し距離を詰める。
「オレも、君と出かけるのを楽しみにしている」
葵は数回瞬きをする。そして、春先の花がほころぶように微笑んだ。
「ええ。喜んで」
その無邪気な反応に、蔵馬は何も言わず、ただ静かに目を細めた。
窓から吹き込んだ秋風が、白いカーテンをゆっくり揺らす。
波打つ動きの中、彼は思い出したように口を開いた。
「……それと、もう一つ」
葵が視線を向ける。
彼は少しだけ目元を和らげて伝えた。
「今度、どこかへ出かけるときは、一言だけ残していってほしい」
責める響きは毛頭ない。これは彼の穏やかな願いだった。
「数日なら待てる」
その言葉に、葵は静かに耳を傾ける。
「でも、迎えに行く場所だけは知っておきたい」
部屋に小さな静寂が満ちる。
葵は蔵馬を見つめたまま、小さく笑った。
――この人らしい、と。
「あの時のことね」
「ああ」
「心配をかけたかしら?」
その問いに、蔵馬は少しだけ考えるように目を伏せた。
そして穏やかに、整理された言葉を送る。
「……いや、少し違うな 」
顔を上げる。
「迎えに行く場所を、知らなかっただけだ」
その一言に、葵は少し目を丸くした。
次の瞬間、どちらからともなく自然と笑みがこぼれる。
「……ええ」
小さく頷く。
「今度は、ちゃんと伝えるわ」
穏やかな表情のまま、蔵馬は何も言わなかった。
この人は、これからも自由にどこかへいくだろう。自分の手の中に収まりきらない存在。
それでも、またここへ戻ってくる。
戻ってこなければ、迎えに行くまで。
窓の外では、秋風が木々を揺らしていた。
旅の支度について、魔界の市場の話。そんな取り留めのない会話が、静かに続いていく。
互いが互いの世界を行き来することは、もう特別ではない。
それが今の二人の日常だった。