アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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第98話

 

最初に戻ってきたのは、匂いだった。

乾いた木の床が持つ、やわらかな温もり。

植物にちかい涼やかな香りが、静かな空気に溶け込んでいる。

 

次に音が届く。紙をめくる、かすかな音。規則正しくはない。

けれど、不思議と心が落ち着くリズムだった。

葵はゆっくりと瞼を開いた。

低い天井。見慣れた梁。

ぼやけた視界が少しずつ輪郭を取り戻していく。

 

(……赤星の家)

 

そう思い至るまでに、少しだけ時間がかかった。

体を起こそうとして、思うように力が入らない。

その気配を感じ取ったように、紙の音が止んだ。

窓際へ視線を向ける。

椅子に腰掛けた蔵馬が、本を閉じてこちらを見ていた。

茶色のブルゾンは脱ぎ、淡い色のシャツだけの姿。

だが、その穏やかな眼差しだけで、そこにいてくれた時間の長さが伝わってくるようだった。

 

視線が重なる――言葉は生まれない。

葵はただ、彼を見つめた。

そこにいることが不思議ではなく、あまりにも自然だった。

蔵馬は静かに立ち上がる。

足音を立てず歩み寄り、布団の横へ腰を下ろした。

 

「……起きたね」

 

 

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葵は小さく頷こうとして、わずかに眉を寄せる。

まだ体は重い。

蔵馬はその様子を確かめるように、一度だけ視線を巡らせた。

 

「妖気をほとんど使い切っていた。しばらくは休んだほうがいい」

 

その声は、谷で聞いたものと変わらない。

何も責めず、何も問わない。ただ受け止めて、ここにいる。

 

促されて、葵は上半身を再び布団に沈めた。

静かに息を整えると、谷底の光景が、ゆっくりと戻ってくる。

青白い光。岩肌。そこに残っていた、消えかけた想い。

 

「あの場所から……声が聞こえていたの」

 

蔵馬は頷きもせず、続きを待った。

 

「何千年、何万年も前に……誰かが、確かに、そこで待っていたわ」

 

その声は、静かに部屋へ広がる。不思議と余韻が残るように。

 

「そして帰ってくることを……ずっと」

 

葵は少しだけ目を閉じた。残響として胸にあるその声が、思い出される。

 

「だから、その声に伝えたの」

 

短い沈黙が流れる。

 

「私は、ここにいるって」

 

それ以上、彼女は語らなかった。

声の主が何者だったのか。

なぜそこに残っていたのか。

彼女に声を届けた目的はなにか。

意味を知ろうとは思わなかった。でも、その想いだけは、消えてはいけない気がした。

 

蔵馬は静かに目を伏せた。

谷底で見た、一語だけ刻まれた古代文字。

 

――ここに在る。

あの文字は、残された誰かを示していたわけではない。

あの場所で、何も言わずその想いに寄り添っていた葵自身もまた、その言葉そのものだった。

 

(……君らしいな)

 

心の中でだけ、小さく呟く。

思い返せば、自分は理屈で彼女を探しに来たわけではなかった。

最初にあったのは、ただ一つ。

迎えに行く。

その感覚だけだった。

 

いつから、それが当たり前になったのだろう。

考えても答えは出ない。

 

確かなことは、――この人は、自分の思い通りには生きない。

誰にも操れない。

それでもいい。そのままでいい。

だからこそ、共にありたいのだ。

 

蔵馬は立ち上がり、湯飲みを手に取る。

温度を確かめ、そっと葵へ差し出した。

 

「喉を潤すといい」

 

葵は受け取り、かすかな湯気の向こうから彼を見上げる。

 

「……あなたが来ることを、知っていたわ」

 

蔵馬は答えない。代わりに、ふっと小さく笑った。

 

「……しょうがないな」

 

その表情は、呆れでも諦めでもない。彼女にしか見せない穏やかな微笑だった。

葵もまた、小さく微笑む。

 

「あなたは、やっぱりそういう人ね」

 

二人の間に、それ以上の言葉の続きは必要なかった。

夜の魔界は静かだった。

窓の外には、変わらぬ闇が広がっている。

けれどもその闇は、谷底で見た孤独な暗さではない。

 

離れても、また戻る。

迎えに行き、迎えられる。

その繰り返しの中で、二人は同じ場所へ還ってくる。

そのことを、互いにもう知っていた。

 

 

 

 

夜が明け、室内へ差し込む光の色が変わっていた。

葵はゆっくりと瞼を開く。

昨日まで体の奥へ沈んでいた重さは消え、指先を動かすと、感覚は静かに戻っていた。

 

身を起こそうとした、そのとき。戸が静かに開く。

足音を立てることなく、蔵馬が部屋へ入ってきた。

こちらへ向けられた視線が、一瞬だけ止まる。

それだけで観察は終わる。彼は彼女が回復していることを悟った。

 

「……おはよう」

 

穏やかな声。

何一つ変わらないその響きに、葵は小さく息をついた。

 

「おはよう、蔵馬」

 

起き上がると、おろした髪が肩を滑り落ちる。

 

「もう、大丈夫そうだね」

 

「ええ」

 

部屋をゆっくりと見回し、彼はふっと口元を緩めた。

必要なものだけが置かれた静かな空間。

飾らないその部屋は、やはり予想通りだった。

 

「……君らしい部屋だ」

 

その一言に、葵は少しだけ目を見開く。

感じ取ろうとしていないのに、自然と彼が今何を思っているのかが伝わってくる。

胸の奥へ、小さな温かさが満ちていく。

 

彼女の想いが言葉になる前に、体が先に動いた。

 

「蔵馬」

 

葵は自分の隣を手で示す。

 

「ここに座って」

 

蔵馬は何も尋ねず、彼女の横に腰を下ろした。

布団がわずかに沈む。その振動まで、心地よく感じる。

葵は静かに目を閉じた。

そして自然に、蔵馬の肩へ体を預ける。

 

「……今日は、こうしたいの」

 

考えて選んだわけでもない。

ただ、この場所へ戻ってきた体が、そうしたいと言っていた。

 

「……」

 

 

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蔵馬の肩が、ほんのわずかに揺れる。

それは驚きではなく、照れとも違う。

肩へ伝わる重みを感じながら、彼は静かに息をついた。

 

――やはり、この位置か。

そんな想いが、胸の奥で小さく笑う。

抱き寄せようとは思わない。繋ぎ止めようとも思わない。

この人はどこへ行っても、またここへ戻ってくる。

もう、それを知っているから。

 

葵はそっと息を吸った。彼の衣服に残る香りが、胸に広がる。

 

「……いつもの匂い」

 

小さく呟いてから、微笑む。

 

「安心するわ」

 

蔵馬は答えなかった。

静かに顔を傾け、彼女の髪へ頬を寄せた。柔らかな感触が頬をかすめる。

その距離が、今の二人にはごく自然だった。

 

葵は何も言わない。

蔵馬も何も言わない。

 

部屋には、穏やかな朝の空気が流れている。

互いを変えようとはしない。

互いを繋ぎ止めようともしない。

ただ、そこにいる。それだけで十全だった。

 

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

10月末日。

夕暮れの台所には、湯気とともに、穏やかな時間が満ちていた。

煮物の甘い香りが漂い、窓辺には西日が淡く差し込んでいる。

ちょうど手をとめてリビングに入ってきた母に視線を送り、蔵馬は、ひと呼吸置いてから声をかけた。

 

「……母さん、少しお願いがあるんだ」

 

志保利が顔を上げる。

意外そうに目を瞬かせてから、柔らかく微笑んだ。

 

「あら。秀一がお願いなんて、珍しいわね」

 

彼は肩の力を抜くように、小さく息を吐く。

言葉を選ぶ仕草が、いつもよりわずかに慎重だった。

 

「葵のことなんだけど……。彼女、温泉が好きなんだ。でも入り方が、あまり分かってないみたいでさ」

 

「入り方?」

 

「気づいたら、湯あたりしてるようなんだ。何度も」

 

志保利は思わず手を口元に当てた。

 

「それは大変ね」

 

蔵馬は頷きながら、視線を一瞬だけ伏せる。

脳裏には、銭湯で顔を赤くしてぼんやりと座る葵の姿が浮かんでいた。

 

「よかったら……母さんが一緒に行って、教えてあげてくれないかな」

 

一拍の間。

それから、志保利の表情がふっと華やいだ。

 

「ええ、いいわよ」

 

さらに何かを思いついたように、手を合わせる。

 

「そうだわ。せっかくの機会だもの。みんなで一泊二日で行くのはどうかしら?」

 

「……え?」

 

蔵馬は一瞬だけ目を見開いた。

その提案があまりにも自然だったことに、小さく息をつく。

 

「いいの?」

 

「もちろん。葵ちゃんと一緒に旅行してみたかったの」

 

「……」

 

母の中では、葵はもう招く相手ではなく、一緒にいるのが当たり前になっているようで。

そのことが、胸の奥へ静かに残った。

彼女はすでに、父と弟とも顔なじみ。快く賛同してくれるだろう。

 

「ありがとう。それで……葵の特徴としては……」

 

言いながら、彼は苦笑に近い息を漏らす。

今までの付き合いから、色々なことが思い出される。

 

「とにかく、体感温度に鈍い」

 

「……え?」

 

「寒さに気づかなくて、防寒しないまま一冬(ひとふゆ)越しかけた」

 

「まぁ」

 

「発熱に関しては……本人が熱いと分かった頃には、もう倒れる寸前なんだ 」

 

話しながら、芋づる式のように出てくる記憶。

彼の言葉は淡々としているのに、ひとつひとつが具体的だった。

志保利母はくすりと、声を漏らして笑う。

 

 

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「ずいぶん、実感のこもった言い方ね」

 

「……まぁね」

 

彼は視線を横に逸らし、少し間を置いてから続けた。

 

「湯あたりの予防は、繰り返し説明しているんだけどね。本人は大丈夫だと思ってる。でも、熱いと自覚した時点で、もうのぼせてるんだ」

 

「あら……」

 

志保利は目を細め、どこか楽しそうに微笑んだ。

 

「意外ね。いつもしっかりしているから。そういうところがあると、ギャップがあって可愛く感じるわ」

 

「……なんというか」

 

蔵馬は適切な言葉を探す。

その絶妙な間が、母親の予想通りだった。

 

「抜けてるところが、ものすごく抜けてるんだ」

 

「ふふふ」

 

志保利の笑みが深まる。

 

「秀一の顔を見てるとね、可愛くてしょうがないって言ってるように見えるの」

 

「……そう見える?」

 

問い返す声が平静なのは、数千年生きた経験と余裕から。

息子が否定しないことに、母は黙ってにこにこと彼を見つめていた。

 

「それじゃあ……父さんには、オレから話しておくよ」

 

「ええ」

 

その言葉に、志保利は目を細める。

いつの間にか、息子の日常にはもう一人の姿がごく自然にあった。

 

 

 

 

後日。部屋に尋ねてきた葵に、蔵馬は旅行の話を切り出した。

 

「葵、お願いがある」

 

葵は小さく首を傾げた。

 

「お願い?」

 

返答の代わりに、蔵馬はわずかに微笑む。

 

「今度、家族と温泉へ出かけることになった。母さんが、君も誘いたいと言っているんだ」

 

葵はゆっくりと瞬きをした。

 

「私も?」

 

「うん」

 

その声は普段と変わらず穏やかだった。

少しだけ間が空く。

言葉を探しているのではなく、彼の中で今までの時間が自然と思い出されていた。

 

「一緒に来てくれないか」

 

言葉は自然だった。それでいて、どこか大切なものを差し出しているようでもあった。

葵は蔵馬をしばらく見つめる。

 

「……本当に、行っていいのかしら?」

 

「母さんは、けっこう張り切ってたよ」

 

「……そう」

 

以前に彼が旅行本を見せながら、人間界でのスタイルを説明していたことを思い出す。

 

(まさか、あなたの家族と一緒に行くなんて……思わなかったわ)

 

少し気恥ずかしいようなくすぐったい気持ちになり、葵は小さく笑った。

蔵馬は、その表情を確かめるように、ほんの少し距離を詰める。

 

「オレも、君と出かけるのを楽しみにしている」

 

葵は数回瞬きをする。そして、春先の花がほころぶように微笑んだ。

 

「ええ。喜んで」

 

その無邪気な反応に、蔵馬は何も言わず、ただ静かに目を細めた。

窓から吹き込んだ秋風が、白いカーテンをゆっくり揺らす。

波打つ動きの中、彼は思い出したように口を開いた。

 

「……それと、もう一つ」

 

葵が視線を向ける。

彼は少しだけ目元を和らげて伝えた。

 

「今度、どこかへ出かけるときは、一言だけ残していってほしい」

 

責める響きは毛頭ない。これは彼の穏やかな願いだった。

 

 

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「数日なら待てる」

 

その言葉に、葵は静かに耳を傾ける。

 

「でも、迎えに行く場所だけは知っておきたい」

 

部屋に小さな静寂が満ちる。

葵は蔵馬を見つめたまま、小さく笑った。

――この人らしい、と。

 

「あの時のことね」

 

「ああ」

 

「心配をかけたかしら?」

 

その問いに、蔵馬は少しだけ考えるように目を伏せた。

そして穏やかに、整理された言葉を送る。

 

「……いや、少し違うな 」

 

顔を上げる。

 

「迎えに行く場所を、知らなかっただけだ」

 

その一言に、葵は少し目を丸くした。

次の瞬間、どちらからともなく自然と笑みがこぼれる。

 

「……ええ」

 

小さく頷く。

 

「今度は、ちゃんと伝えるわ」

 

穏やかな表情のまま、蔵馬は何も言わなかった。

この人は、これからも自由にどこかへいくだろう。自分の手の中に収まりきらない存在。

それでも、またここへ戻ってくる。

戻ってこなければ、迎えに行くまで。

 

 

窓の外では、秋風が木々を揺らしていた。

旅の支度について、魔界の市場の話。そんな取り留めのない会話が、静かに続いていく。

互いが互いの世界を行き来することは、もう特別ではない。

それが今の二人の日常だった。

 




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