南野・畑中家を出てから車は山道を抜け、二時間ほど走り続けた。
窓の外の景色は次第に街の輪郭を失い、古い看板と低い建物が並ぶ温泉街へと変わっていく。
辿り着いた宿は、流行を追ったラグジュアリーなものではなかった。
年季の入った木造の外観に、少し色褪せた暖簾。
長い時間を静かに積み重ねてきたことが伝わる、昭和の面影を残した小さな宿だった。
「……ここ、素敵ね」
葵は建物を見上げ、小さく微笑んだ。
その様子に、蔵馬も自然と目を細める。
(君らしいな)
案内されたのは、隣り合う二部屋。男女で分かれていた。
壁越しに感じる気配は近いのに、きちんと境界が引かれている。
荷物を置き、身軽になったところで、一同はエンジ色の浴衣姿で大浴場へ向かう。
磨き込まれた木の廊下を歩くたび、足裏へ柔らかな温もりが伝わる。
暖簾の向こうからは硫黄を含んだ湯の香りが流れ、湿った木の匂いと混じり合っていた。 空気が変わる。
彼の母に続き、女湯へ向かおうとした葵の背へ、穏やかな声が届く。
「葵、少しだけ」
振り返ると、 蔵馬が歩み寄る。
視線は葵の髪の先へ――灯りを受けて淡く揺れる花びらのような部分に向けられていた。
「ドライヤーには気をつけて。熱を当てすぎると、君の髪は傷みやすい」
妖怪の聴力でしか拾えない音域で、簡潔に伝える。
その言葉に、葵は自分が火に耐性がないことを思い出した。
「この宿には、温熱刺激の弱いモードがある。それを使うと安心だ」
「わかったわ」
「それと……」
廊下の行灯が、彼の横顔に柔らかな影を落とす。
「君の髪は、花に近い性質を持っている。濡れると、光を透かしやすくなるんだ 」
葵は目を丸くした。
「もしかして、透明になるの?」
「完全じゃないけどね 」
白い花は、水を含むと光の反射が変わる。彼女の髪も、その性質に近い。
彼は、言葉を選びながら続ける。
「だから、湯上がりは髪をしっかり乾かしてから出てくるといい 」
葵は自分の髪を一房すくって、まじまじと眺めた。
「……また一つ教えてもらったわ。自分のことって、本当に知らないことが多いのね 」
蔵馬はふっと小さく笑う。
少し離れた場所では、その様子を見ていた志保利母が静かに微笑んでいた。
「それじゃあ、後で」
「ええ。今日は、のぼせないように気を付けるわ」
その言葉に、彼は目を細めた。
敢えてそのことには触れなかったのに、葵にも自覚はあるようだ。
暖簾をくぐる直前、葵はふと振り返った。
すると、蔵馬も同じように彼女を見ていた。
言葉はない。ただ互いに小さく目を細める。
暖簾が静かに揺れ、葵の姿が見えなくなる。
それと同時に、男湯の方から弟の呼ぶ声が聞こえた。
「秀一兄さん、早く!」
「ああ、今行くよ」
蔵馬は短く返事を返し、木の床をゆっくりと歩き出す。
湯上がりの食事処には、ほんのりと炊き立てのご飯の湿り気と、肉や魚の焼ける匂いが混ざっていた。
一角は ビュッフェ形式になっていて、志保利母と義父、そして蔵馬の弟は料理を取りに席を立つ。
自然とテーブルには、蔵馬と葵が残された。
湯で温まったせいか、それとも目を輝かせて食事に夢中になっているためか。
葵の頬はいつもより少し赤い。
その様子を眺め、彼はふっと小さく息をついた。
(どうやら、のぼせずに済んだみたいだな)
髪もすっかり乾き、淡い灯りを受けて艶やかに揺れている。
母には後ほど感謝を伝えよう。そう蔵馬が思っていたときだった。
がりっ。
小さな硬いものが擦れるような音がした。
思わず、蔵馬は箸を止める。
視線を目の前に向けると、案の定、音の発信元は葵だった。
彼女は口元を手で押さえたまま、ぱちりと瞬きをしていた。
「……葵」
名を呼ぶ声は穏やかで理知的。ただ、今にも頬の筋肉が緩みそうなのを静かに抑えていた。
「もしかして、舌を噛んだ?」
彼女は少し考えるように目を瞬かせて、置かれている状況を理解した。
「……わからないけど、舌が痛いわ」
「……噛んでるね」
ふっと息を吐くと、蔵馬は声を立てずに笑みを飲み込んだ。
(いずれ、こうなると予想していたが)
食べるという行為に、まだ慣れていない葵らしい言動だった。
普段聡明なのに、瞬間的に子供のようになる。それもまた、この人らしい。
「だから、ゆっくり食べるんだよ」
そう言いながら、彼は自分の箸を一度置く。
急かさなくていい。そんな小さな合図だった。
「意識しているんだけど……」
葵は困ったように眉を寄せる。
口元にはまだ手が置かれ、治癒のために妖気を巡らせていた。
「気づいたら、食べることに夢中になるの」
「うん。君は、人間界の食べ物に目がないからね」
即答だった。
蔵馬は湯飲みに手を伸ばし、一口だけ喉を潤す。
「舌を噛んだ後、食べると痛いだろう?せっかくの料理の美味しさが、半減するかもしれないよ?」
少しだけ声を落として言うと、葵の動きが止まった。
「……それは困るわ」
何とも言えない表情で、彼女は口元の手を降ろす。
そして今度はゆっくりと箸を持ち直した。
「味わって食べるわ」
「うん」
蔵馬は目元を和らげて、頷いた。
「あとで、練薬を塗るといいよ」
「あ。持ってきてないわ」
「オレが持ってるから」
ごく当たり前のような返事に、葵は目を丸くする。
彼は何事もなかったかのように、彼女の後ろに視線を向けた。
ちょうど料理を取りに行った家族が、戻ってくるところだった。
以前なら、用意してきた理由を説明したかもしれない。
けれど、今は違う。
葵はしばらく彼を見つめ、それから柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
二人のやり取りをひと目見て、志保利は何も言わずに目尻を下げた。
蔵馬は箸を持ち直し、再び食事へ手を伸ばす。
向かいでは、今度こそ慎重に料理を口へ運ぶ葵がいる。
それでも、きっとまた夢中になれば舌を噛むのだろう。
(……しょうがないな)
そう思う自分に、もう苦笑はなかった。
この人らしさを、そのまま微笑ましく思える。
そんな穏やかな時間が、今は好ましい。
食事を終えたあとの空気は、満腹の緩みと湯上がりの名残を含んで、どこかやさしい重さを帯びていた。
男性陣の部屋では、父が早々に酒に酔い、ベランダへ出て夜風に当たっている。
障子越しに聞こえるのは、近くを流れる川の音と、温泉街の小さなざわめき。
その静けさの間に、ぽつりと声が落ちた。
「兄さんと葵さんが、てっきり一緒の部屋だと思ってたのにな」
布団の上にうつ伏せになったまま、弟の秀一が顔だけを上げた。
蔵馬は座卓の前に座り、湯呑みを置いてふっと息を抜く。
「はは。予想が外れたようだね」
からかうでもなく、否定するでもない。
事実をそのまま流す声は、いつも通り
「今回の旅行もさ……。てっきり結婚の話かと期待してたんだよね」
枕の上に顎を乗せて、彼は兄をじーっと見上げる。
「お互い、まだ学生だからね」
蔵馬はそう言いながら、視線を一度だけ隣の部屋へ向けた。
壁を隔てた向こうから、葵と母親の話し声が聞こえる。
「秀一は、オレたちのこと……気になってるんだね」
「そりゃあ、気になるよ!」
即答だった。
少年は上体を起こして、兄に食らいつくように続けた。
「兄さんと葵さんが結婚したらさ、葵さんはオレのお姉さんになるじゃん?」
言葉にするたび、秀一の声は少しずつ明るくなる。
「オレ、ずっと一人っ子だったからさ。兄さんができて、今度は姉さんができるかもしれないって思うとさ。正直……すごく嬉しいんだ」
蔵馬は、すぐに返事をしなかった。人間として味わう不思議な感情が、胸を温かくする。
この感情に、名前を付けなくてもいい。
もう感じることを止めないから。
「……そうか」
短いが、温度のある声だった。
弟がにこにこと微笑んでいるのをしばらく眺めてから、蔵馬は自然な流れで話題を変える。
「ところで、秀一は好きな子いるの?」
「えっ?!」
少年の肩が、目に見えて跳ねた。
前のめりだった体は後退して、枕に顔をうずめた。徐々に耳までが赤くなっていく。
「な、なんで急にオレの話っ?」
「その反応」
蔵馬は口元だけで笑う。
「焦るってことは……いるんだね」
「……っ」
弟は視線を泳がせ、言い淀む。初々しい反応が実に中学生らしい。
「そ、それが……隣のクラスの子から、ラブレターもらってさ」
「へぇ」
相槌は軽い。
蔵馬は肘をついて、大人の余裕をまとったまま、弟に視線を向ける。
「なんて書いてあったの?」
「そこまで聞く?!」
「うん、聞くよ。初めてもらった手紙って、案外……覚えてるものだからね」
その言葉に、秀一は少し考え込んでから、ぽつぽつと内容を語り始める。
丁寧な字で書かれていたこと。
放課後の校舎裏で渡されたこと。
最後の一文で、自分の名前の一部を書き間違えていたこと。
蔵馬はそれを遮らずに、穏やかな眼差しで聞いていた。
頷きも、助言も、必要以上には差し挟まない。
少年の言葉が途切れたとき、彼は兄として言葉を送った。
「……いい経験をしたね」
それは、過去を知る者の声だった。
押しつけがましさはなく、弟の気持ちを受け取る、家族のもの。
ベランダの向こうで、父が咳払いをした。
夜は、ゆっくりと更けていく。
皆が寝静まったころ、蔵馬は一人、窓の外へ視線を向けた。
その先にあるものを、誰にも見せることなく。
空を見上げたまま、静かに目を細める。
そこには、期待や焦りはない。
穏やかで、何も欠けていない静けさがあった。
このお話もずっと温めていた温泉旅行の話。8章での二人の会話が現実になった内容です。
15章もあともう少しです。
15章終了後に短編を挟んでから、16章に入ります。
16章終了後、一旦更新を緩やかにする予定です。
ここまで長編を書き続けられていることがうれしいです。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。