肺が焼けるように熱い。アスファルトに叩きつけられた背中から、鋭利な痛みが全身に走る。口の中に、血の鉄錆びた味が広がった。最後に見たのは、夜の街灯の下、雨に濡れて鈍く光る路地裏の景色。
そして、その向こうに立つ、見慣れた顔。俺を兄貴と慕っていた、あの餓鬼の歪んだ笑顔だった。
「――っ、て、めぇ……っ」
裏切りの痛みと、死への恐怖。
それよりも何よりも、屈辱が、俺の喉笛を塞いだ。こんな、クソみたいな場所で、こんな、クソみたいな終わり方をするのか。
泥水を啜り、血を吐きながら、這い上がってきた人生の、あまりにも情けない幕切れだった。
握りしめた拳から、力が抜けていく。指先が、冷たい水溜まりに触れた感覚。遠ざかる意識の中で、アイツへの殺意だけが、炎のように燃え盛っていた。
地獄の底からでも這い上がって、必ず…必ず、殺してやる……!
■
次に意識が浮上したのは、痛みも、冷たさも、血の臭いもない場所だった。
全身が、雲のように柔らかく、そして信じられないほど軽い。まるで、骨も肉も失われた、魂だけの存在になったかのようだ。いや、違う。確かな感触が、そこにはあった。
瞼を開く。最初に目に映ったのは、息をのむほどに美しい光景だった。天井から釣り下がった天蓋。繊細な刺繍が施された、見たこともない高価な布。そこから垂れるカーテンは、真珠のような光沢を放っていた。
部屋の壁は、金糸が織り込まれたタペストリーで覆われ、家具の一つ一つが、博物館に飾られていてもおかしくないような、優雅な曲線を描いていた。
「……は? どこだ、ここ…?」
掠れた声が漏れた。普段の、低く唸るような声じゃない。妙に澄んでいて、甲高い、女の声だった。
嫌な予感が全身を駆け巡る。
慌てて体を起こそうとするが、力がうまく入らない。全身の筋肉が、長年鍛え上げた鋼が、一瞬で融けた飴細工になったかのように頼りない。体を捻って、ベッドサイドにあった、衝立のようなものに立てかけられた大きな鏡を見た。
そこに映っていたのは――俺自身ではなかった。
白い肌。
滑らかな曲線を描く肩。
細く華奢な腕。
そして、その顔は…驚くほどに美しかった。黒曜石のような瞳。透き通るように白い肌。薄いピンク色の唇。誰だ、これは? こんな女、見たこともない。
そして、その女の、胸元にある、柔らかく丸い膨らみ。
「う、うぇっ……!?」
胃の腑が締め付けられるような、強い吐き気に襲われた。慌てて自分の体を確かめる。あるべき場所に、「硬さ」がない。代わりに、女性の、柔らかい肌の感触。腰回りも細く、腹筋の硬さがない。全身が、見慣れない、女の体になっている。
「ふ、ざけるなぁぁっ!! な、なんだ、こりゃあ…!? おい! 誰かいるのか!!」
叫んだ。叫んだはずなのに、部屋に響いたのは、か細い、震える女の声だけだった。
信じられない。ありえない。
俺は男だ。
裏社会で生き抜いてきた、傷だらけの、荒々しい男だ。
それがこんな、まるで人形のような、女の体になるなんて…。悪夢だ。これは、血を吐いて倒れた時に見た、悪い夢に違いない。
そう自分に言い聞かせようとするが、体のどこに触れても、その滑らかな肌触り、柔らかな感触が、これが紛れもない現実であることを突きつけてくる。混乱と怒りで、頭の中がぐちゃぐちゃになった。
何が起きた? どうしてこうなった?
混乱する俺を尻目に、部屋のドアが静かに開いた。その物音に、警戒心が最高潮に達する。
男としての研ぎ澄まされた勘が、危険を告げている。だが、体が言うことを聞かない。身構えようにも、この頼りない体では、どうにもならない。
そこに立っていたのは、絵画から抜け出してきたかのような、美しい男だった。すらりとした長身に、上質な生地で仕立てられたスーツ。穏やかな顔立ちに、深遠な湖のような瞳。その口元には、どこか現実離れした、柔らかい微笑みが浮かんでいた。
男が、俺の――いや、この女の体を見て、ふわりと目を細めた。その瞳には、微塵の敵意も、下心もなかった。ただ、心底待ち望んでいたものを見つけたかのような、深い愛情と、そして……狂気にも似た、愛おしさが宿っていた。
「ああ、アリス。愛しい私のアリス。ようやく目を覚ましたね。どれほどこの時を待ち焦がれたか、分かっているかい?」
男が、甘く、囁くような声で言った。アリス? その女の名前で、俺を呼ぶのか? 怒りに震える。ふざけるな、俺はアリスなんかじゃない! 俺は――
「ああ、アリス――」
男の声が、耳から入ってくるだけでなく、直接、脳の奥に響いた。
その瞬間、頭の中心から、抗いがたい、甘く、そして痺れるような快感が全身を駆け巡った。
ゾクゾクと、背筋が粟立つ。思考が、まるで濃密な蜜の中に沈むように、ゆっくりと鈍っていく。
なんだこれは、なんだこれは。気持ちが悪い。俺は男だ。こんな、キザな男の声に。
男は、俺の混乱も抵抗も気にする様子もなく、ゆっくりと近づいてきた。
その指先が、アリスの、今は俺の頬に、そっと触れた。ひんやりとした、滑らかな感触。そして、そこから広がる、痺れるような、甘い快感。男に触れられて、こんな、こんな……ぞっとするような快感を感じるなんて。
男としての矜持が、悲鳴を上げた。汚らわしい。屈辱だ。逃げろ。反抗しろ。殺せ。内なる声が叫ぶ。
――だが、体は動かない。脳は、甘い痺れと快感に支配され、彼の声と触れ合いから生まれる、抗いがたい心地よさに囚われていた。
「怖かったね。大丈夫。もう、何も怖いことなんてないよ、アリス。君は、私の宝物だから」
男は、レオンと名乗った。
そして、俺を「アリス」と呼び続け、ひたすらに甘く、優しく、慈しむように接した。
この部屋は、檻だ。だが、それは鉄格子ではなく、あまりにも甘く、あまりにも美しい、金色の檻だった。そして、レオンは、この檻の主だ。
そして、俺を、彼の理想の「ドール」として、手に入れたのだ。男性としての矜持は、この甘すぎる現実と、抗いがたい痺れる快感の中で、砕け散りそうになっていた。