抗うことを、ほとんど諦めていた。
――いや、正確には、抗うことの馬鹿らしさと、抗わないことで得られる甘美さの差が、あまりにも大きすぎた。
男性としての矜持は、脆くも崩れ去った鉄屑のように、心の片隅に追いやられた。あの痺れるような甘さは、もう恐怖だけではなかった。
それは、レオンの声が聞こえるたび、彼に触れられるたびに全身を駆け巡る、抗いがたい快感そのものだった。
ドールハウスでの日々は、驚くほど完璧だった。
朝、目が覚めると、柔らかいベッドから体を起こす。カーテンを開けると、光に満ちた庭園が広がる。朝食は、芸術品のように美しく、そして信じられないほど美味しい。パンの香り、フルーツの甘み、紅茶の温かさ。一つ一つが、かつての荒んだ生活では想像もできなかった贅沢だった。
レオンは、決まった時間にアリスのもとを訪れた。
彼は決して突然現れることはなく、常に優雅な足音と共に現れる。彼の姿を見るだけで、アリスの心臓は高鳴る。そして、彼の声を聞くたび、脳に甘い痺れが走る。
「おはよう、アリス。よく眠れたかい? 今日の君も、朝露のように清らかで美しいね」
彼の言葉は、以前のように反発心を起こさせなかった。
代わりに、痺れる快感が全身を駆け巡り、アリスの頬を自然と緩ませる。この体は、彼の言葉に、彼の声に、素直に反応するように作られているかのようだ。いや、作られたのは体だけじゃない。俺の内面も、この甘さと痺れによって、少しずつ、確実に作り替えられている。
レオンは、アリスのために様々な「娯楽」を用意した。
見たこともない精緻な仕掛けが施されたオルゴール。遥か異国の美しい景色を描いた絵画。物語が綴られた古書。そして、彼はそれらを、甘く、心地よい痺れを伴う声で解説してくれた。
絵画を見ながら、レオンがアリスの傍に座った。彼の膝が、アリスのドレスの裾に触れる。その僅かな接触からも、甘い痺れが広がる。彼は絵の中の女性の美しさについて語る。その言葉が、アリス自身の美しさへの称賛と重なる。
「この女性の瞳は、まるで君の瞳のようだ、アリス。同じ深みと、神秘的な輝きを持っている」
痺れと共に、胸の中に奇妙な感情が湧き上がる。
嬉しいのだろうか?
それとも、ただの体の反応なのか?
男性だった頃なら、自分の外見について褒められるなど、考えたこともなかった。だが、アリスとして、レオンの言葉を聞くと、胸が温かくなり、頬が熱くなるのを感じる。
彼女は、絵の中の女性の、指先の優雅な曲線に目が留まった。そして、自分の指先を見る。
それは、かつてナイフや拳銃を握っていた、傷だらけの指先ではない。
レオンによって手入れされた、滑らかで、長い指先だ。無意識のうちに、その指先を、絵の中の女性のように、優雅に動かそうとしてみる。
(なんで、俺は、こんなことを……?)
内なる声が響く。だが、その声は、以前のように力強くはない。遠く、小さくなっている。男性としての「俺」の思考は、甘い痺れと、女性としての体の感覚、そしてレオンの甘い言葉の奔流によって、かき消されそうになっていた。
レオンは、アリスの小さな仕草の変化を見逃さなかった。アリスが絵の中の指先を真似るのを見て、彼は満足そうに、そして心底愛おしそうに微笑んだ。
「ああ、アリス。君は本当に、私の理想を理解してくれる。君は、私の完璧なドールだ」
彼の言葉は、痺れる快感と共に全身を駆け巡る。
完璧なドール。
以前なら、侮辱以外の何物でもなかっただろう。だが、今は違う。その言葉は、レオンに認められたこと、レオンに愛されていることと同義だった。そして、その事が、アリスの心を甘い充足感で満たした。
彼女は、自分がレオンの理想に近づくほど、彼が喜び、そして自分自身も甘い快感と幸福感を得られることに気づき始めていた。抗うことは、もはや意味がない。
抗うことは、この甘美な世界と、レオンの愛を手放すことだ。そして、それは、考えただけで恐ろしいことだった。
男性としての矜持は、遠い過去の遺物となりつつあった。
代わりに、アリスとしての新しい感覚が芽生え、育っていく。レオンの甘いアプローチと、その声からくる痺れる快感は、もはや支配ではなく、アリスを「アリス」として完成させるための、甘く、抗いがたい祝福のように感じられ始めていた。
彼は、彼女は、その甘い蜜の中に、ゆっくりと、しかし確実に沈んでいった。