冬空の異邦人、春を待つ   作:あいいろのふとん

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幕間 その1

 あの路地裏での出来事の後、シオはほとんど意識がないまま、サルサに肩を貸されて歩いていた。治癒の代償としての激しい疲労感が全身を鉛のように重くし、思考は白く霞んでいた。ただ、自分を支えるサルサの腕の温かさと、時折聞こえる彼女の荒い息遣いだけが、辛うじて現実との繋がりを保っていた。

 

「……ここだ」

 

 やがてたどり着いたのは、スラムの外れに近接する、古いがしっかりとした木造の一軒家だった。後から知ったが高ランクの冒険者であるサルサが、その稼ぎで手に入れた彼女だけの城。以前のパーティでの苦い経験から、誰かと住居を共にするなど考えもしていなかったが、今はそんなことを言っていられる状況ではなかった。

 

 扉を開けると、中は質素だが片付いており、一人の冒険者が暮らすには十分な広さがあった。サルサはシオを一番奥の部屋にある簡素な寝台へと力尽くで寝かせると、自身も床に崩れ落ちるように座り込み、大きく息をついた。

 

「……とにかく、休め。あんた、顔色が死人みたいだぞ」

 

 ぶっきらぼうな言葉だったが、その声にはシオを気遣う響きが微かに混じっていた。シオは頷く気力もなく、そのまま深い眠りに落ちた。

 

 次に目を覚ました時、部屋には夕闇が迫っていた。身体はまだ重いが、意識はいくらかはっきりしている。寝台の脇には、粗末な木の椀に水と、干し肉らしきものが数切れ置かれていた。

 

「……起きたか」

 

 部屋の隅で壁に寄りかかり、ナイフの手入れをしていたサルサが、低い声で言った。その視線はシオの顔に注がれているが、表情は硬い。

 

「……ありがと」

 

「別に。……食えるなら、食っとけ」

 

 シオが身体を起こそうとすると、軋むような痛みが走った。初めて異なるを使った代償なのかはたまた。ただそれでも痛みが代償なのは救いである。痛みなんぞは基本耐えれば過ぎ去るものだから。

 

 差し出された食事に手を伸ばす。干し肉は硬く、水は少し生臭かったが、今のシオにとっては命を繋ぐ饗宴だった。

 

 最初の数日は、そんなぎこちない空気が続いた。サルサは必要最低限のことしか話さず、シオもまた、何を話せばいいのか分からなかった。彼女は日中、依頼か食料調達かで家を空けることが多く、シオはその間、家の中でじっと息を潜めているか、あるいは頼まれもしないのに、おぼつかない手つきで部屋の掃除をしたりした。それは、何もしないでいることへの耐え難い不安と、ここに居させてもらうことへのわずかばかりの負い目からだった。

 

 ある晩、サルサが夕食の準備をしていると、不意に鍋を火から下ろす音が響いた。シオが顔を上げると、サルサが床に落ちた木匙を拾おうとして、わずかにバランスを崩していた。シオは反射的に立ち上がり、「大丈夫か」と声をかけようとして――止まった。

 

 サルサが何か危険な目に遭うわけでもない、ほんの些細な出来事。だが、その瞬間、シオの脳裏にフラッシュバックのように過去の光景が蘇る。支配者の機嫌を損ねた些細なきっかけ、そしてその後に続く理不尽な暴力。

 

「……っ!」

 

 シオは息を呑み、無意識に後ずさった。身体が小刻みに震え、呼吸が浅くなる。

 

「……どうした?」

 

 訝しげなサルサの視線が、シオに突き刺さる。その目には、怒りも敵意もない。ただ純粋な疑問だけが浮かんでいる。それが分かっているのに、シオの身体は言うことを聞かなかった。

 

「……な、んでも、ない……ごめん、なさい……」

 

 かき消えそうな声で謝罪すると、シオは自室代わりのベッドのある部屋へ逃げるように戻り、壁際に蹲って頭を抱えた。サルサは何も悪くない。何も起きていない。なのに……

 

 その夜、サルサは何も言ってこなかった。ただ、翌朝、シオがいつものように居間で息を潜めていると、サルサが黙って焼いたパンとスープを彼の前に置いた。

 

「……食え」

 

 その一言だけだったが、シオにはそれが許しのように感じられた。

 

 またある時は、サルサが市場で手に入れたという少し傷んだ果物をシオに差し出した。

 

「これ、やるよ。見た目は悪いが、味は悪くねぇはずだ」

 

「……僕に?」

 

「ああ。あんた、ろくなもん食ってないだろう」

 

 シオは戸惑った。見返りを求められない施しというものに、彼は慣れていなかった。彼の父親は、ある日を境に何かを与える時は必ずその代償を身体で支払わせていた。やがてその行為は更に悍ましい強制的な児童買春に繋がってしまったわけだが。

 

「……ありがとう」

 

 おずおずと受け取った果実は、確かに甘酸っぱく美味しかった。だが、それを食べる間も、シオはサルサの顔色を窺わずにはいられなかった。いつ彼女の機嫌が変わり、このささやかな親切が撤回されるか、あるいはもっと酷い形で報いを受けることになるかと、心のどこかで怯えていた。

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