冬空の異邦人、春を待つ   作:あいいろのふとん

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幕間 その2

 そんな日々の中で、変化はサルサの方に先に訪れた。

 

 彼女は長い間、悪夢にうなされていた。それは、決して色褪せることのない鮮明な記憶の断片だった。ある夜は、血と泥に塗れた父親の姿。蔑むような声で「この出来損ないが!」と罵りながら、アタシが運んだソレを無感動に見下ろす父。村の誰もがアタシを厄介者として遠巻きにし、息を潜めて暮らした日々。そして自らの手で初めて人を殺めたあの瞬間の、鉄錆のような血の臭い。

 

 またある夜は、突如として翼竜の群れに襲われた、あの陽気だった臨時の仲間たちの断末魔だった。風の刃が仲間たちの身体を切り裂き、血飛沫が舞う光景。

 

 それらの悪夢が夜毎彼女を苛み、時には自らの悲鳴に近い呻き声で目を覚ますことも少なくなかった。シオがこの家に来て、同じ部屋の隅、硬い床の上で毛布にくるまって眠るようになってからも、最初の数日はその恐怖の夜が続いていた。暗闇の中で息を潜めるように眠るシオの存在は認識していても、鮮烈な過去の残像は容赦なく彼女を飲み込んだ。

 

 だが、ある晩のことだ。

 

 いつものように翼竜の風切り羽の音と仲間の悲鳴にうなされ、心臓を鷲掴みにされるような恐怖で飛び起きたサルサは、荒い息を繰り返しながら暗闇に目を凝らした。部屋の隅で、シオが身じろぎもせず、静かに寝息を立てているのが月明かりにかすかに見える。その規則正しい、しかしどこか頼りなげな呼吸の音。自分以外の誰かが、同じ空間で息をしている。その当たり前の事実が、その夜は不思議と鮮明にサルサの意識に届いた。

 

(……いる)

 

 ただ、そこにいる。それだけなのに、先程までの悪夢の残滓が、少しずつ薄れていくような感覚があった。彼女は、シオの立てる小さな寝息に意識を集中する。トクン、トクン、と自分の早鐘を打つ心臓の音が、徐々に落ち着きを取り戻していく。

 

 その夜は、それ以上悪夢を見ることなく、浅いながらも眠りにつくことができた。

 

 翌晩も、サルサは父親に罵倒される夢で目を覚ましたが、すぐに部屋の隅で眠るシオの気配に意識を向けた。彼の存在は、荒れ狂う嵐の中の小さな灯台のように、彼女の心を現実へと引き戻す錨となった。

 そして、何日か経つうちに、あれほど執拗に彼女を苦しめていた悪夢が、訪れる頻度を減らし、その内容もどこか輪郭のぼやけたものへと変わっていったのだ。

 

(こいつがいると……眠れる……のか……?)

 

 サルサは、自分の中で起きているその信じられない変化に、戸惑いと、そしてほんの少しの期待を感じ始めていた。シオは何も特別なことをしているわけではない。ただ、同じ部屋の隅で、静かに眠っているだけだ。それなのに、長年彼女を縛り付けていた夜の恐怖が、確かに和らいでいく。

 

 ある朝、サルサはここ数ヶ月で感じたことのないほどの、深い安堵感と共に目を覚ました。悪夢を見なかったのだ。完全に。

 

 身体を起こすと、部屋の隅で、シオがまだ毛布にくるまって眠っている。その小さな背中を見つめていると、サルサの胸に今まで感じたことのない温かいものが込み上げてきた。それは感謝でも同情でもない、もっとずっと複雑で、柔らかな感情だった。

 彼女は音を立てないように寝台を降りると、シオの傍らにそっと膝をついた。彼の寝顔は、年の頃よりもずっと幼く、どこか痛々しいほど無防備に見える。

 

(……こいつのおかげ、なのかもしれねぇな)

 

 そう思った瞬間、シオがんん、と小さく身じろぎし、ゆっくりと目を開けた。

 

「……サルサ……?」

 

 寝ぼけ眼の彼と、至近距離で目が合う。サルサは、常の彼女からは想像もつかないほど穏やかな表情で、小さく微笑んだ。

 

「……ああ。おはよう、シオ」

 

「……おはよう……。どうしたんだ、そんなところで」

 

 シオはまだ状況が飲み込めていないように、不思議そうな顔をしている。

 

「いや……なんでもねぇよ。ただ……」

 

 サルサは言葉を濁し、そして不意に、自分でも驚くような言葉が口をついて出た。

 

「……もう少し……お前が起きるまで、ここにいてもいいか?」

 

 それは、誰かに甘えるような、そんな響きを持った言葉だった。シオは一瞬きょとんとしたが、やがて小さく頷いた。

 

「……別に、構わないけど」

 

 そのぶっきらぼうな優しさが、今のサルサには何よりも心地よかった。彼女はシオの寝顔をもう一度目に焼き付けると、静かに立ち上がり、朝の支度を始める。部屋の中に差し込み始めた朝日は、いつもより少しだけ暖かく感じられた。

 

 ぎこちない沈黙と、互いの傷を探り合うような緊張感から始まった共同生活は、こうして少しずつ、形を変え始めていた。凍てつく夜に灯された小さな灯火のように、それはまだ頼りなく、不確かだったが、確かに二人の間に温もりと呼べるものが生まれつつあった。

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