別世界の元神がオラリオに来たのは間違ってるだろうか IFシリーズ 作:さすらいの旅人
【アストレア・ファミリア】がランクアップをした事で、大して怪我をする事なく全員無事に帰還している。
その変化は、彼女たち自身が最も強く実感していた。かつては巡回に出るたび、罠の気配を探りながら歩く緊張が常に背骨を這い、視界の端で仲間が倒れる光景を見慣れてしまうほどだった。帰還するたびに誰かが血を流し、誰かが痛みに耐え、誰かが生死の境を彷徨う。そんな日々が、ようやく過去のものになりつつあった。
今までは
その姿勢は、痛みと恐怖を抱えながらも前へ進むという、正義を掲げる者の覚悟そのものだった。彼女たちの足取りは常に重く、しかし止まることはなかった。
彼女達が巡回しても怪我をしなくなったとは、連携をしている【ガネーシャ・ファミリア】にとっては非常に喜ばしい事だと思っている。都市最大派閥の【ロキ・ファミリア】も、彼女達の功績を称賛している程だ。
巡回の報告書に『負傷者なし』と記されることが増え、周囲の派閥はその変化を驚きと共に受け止めていた。彼女たちが強くなったという事実は、オラリオの治安にとっても大きな意味を持つ。
しかし、各他派閥は知らない。華々しい活躍をしている見目麗しい正義の乙女達が、
両手足の修行用バンドによって重い負荷が掛かったまま基礎練習をした後、その後の実戦同然の模擬戦が地獄だった。負荷は筋肉の奥底にまで食い込み、呼吸をするだけで胸が軋む。基礎練習の段階で既に汗は滴り落ち、視界は揺れ始める。それでも休むことは許されず、次に待つのは地獄の模擬戦だった。
相手をしている鬼教官――隆誠に全員が一斉に全力で挑んでも、一切傷を負えずに、片手で持っている木刀で滅多打ちにされてしまう。加減されているとは言っても、彼の振るう一撃に当たればとんでもない激痛を受ける破目になる。その際に骨折の他、気絶して動けなくなる者もいた。
木刀が振るわれるたび、空気が裂ける音が耳を刺し、衝撃が骨へ直接叩き込まれる。倒れた身体は地面に沈み、呼吸は途切れ、視界は白く弾ける。痛みは瞬間的なものではなく、身体の奥に残滓として残り続けた。
普通なら中断すべきなのだが、そうは問屋が卸さない展開になる。彼は回復魔法も使える為、一瞬で治癒を施した後に目覚めさせて模擬戦を継続、と言う最悪なループ状態にさせている。治癒の光が身体を包むと、痛みは消え、骨は繋がり、筋肉は元の状態へ戻る。しかし、心は休まらない。治った瞬間に再び地獄へ戻されるという事実が、精神を削り続けた。
どのような状態になっても、隆誠があっと言う間に元の状態へ戻してしまうから、今までどんな苦難を耐えていた筈のアリーゼ達が本気で泣いていた程だ。涙は痛みからだけではなく、終わりの見えない修行の苛烈さから滲み出るものだった。正義を掲げる者としての誇りを持つ彼女たちでさえ、心が折れかける瞬間が何度も訪れた。
修行内容は基礎練習を除けば、ハッキリ言って【フレイヤ・ファミリア】の
隆誠もそれは重々理解してるが、
正義の眷族達が別の意味で二重の生活を送っている中、アストレアは都市最大派閥の主神
テーブルには香り高い茶と菓子が並んでいるものの、空気は甘さとは程遠い。
彼らの行動に疑問を抱きながらも、一通りの話を終えた際、ロキが途端に話題を変えようとする。
その仕草は、先ほどまでの鋭い神の顔から一転し、どこか落ち着きなく、言い出しづらそうな雰囲気を纏っていた。
「アストレア、ちょいと別件の話なんやけど」
ロキの声音には、妙な含みがあった。アストレアはその気配を察し、静かに視線を向ける。
「もしかして……貴女のところの【剣姫】が私の
ロキは頷きかけ――しかし、次の瞬間に慌てたように否定する。
「ああ、アイズたんが迷惑掛けたのは流石にウチも……って、ちゃうわ!!」
アストレアはこの前起きた件についての話かと推測したが、ロキの反応はそれを否定していた。ただ、その否定の仕方はあまりにも慌ただしく、逆にその件がロキの頭から離れていないことを示していた。
実は先日、【アストレア・ファミリア】の
主犯者は金髪金眼の幼女――アイズ・ヴァレンシュタイン。九歳にして既に【Lv.3】へ到達した【ロキ・ファミリア】の秘蔵っ子であり、ロキが最も可愛がる眷族。
その幼い少女が、他派閥の本拠地へ単身で踏み込んだ理由は単純だった。【アストレア・ファミリア】の眷族全員が一斉にランクアップしたという噂を耳にしたからだ。
つい先日まで【Lv.3】だった筈の彼女たちが、いつの間にか【Lv.4】へ到達している事実は、アイズの胸に強烈な好奇心を呼び起こしてしまう。
更に、彼女たちを強くしたのは一人の男性ではないかという噂まで流れていた。その噂を聞いた瞬間、アイズは迷うことなく行動に移したのだ。自分も強くなりたい一心で、星屑の庭へ向かったのである。
しかし、願いは叶わなかった。侵入はフィンたちに即座に阻止され、リヴェリアから特大の雷と拳骨を受けた後、謹慎処分となった。
「あの件はもう終わった話や! 一々蒸し返すな、ドアホ!」
ロキの言う通り、既に話は付いていた。
団長フィン自らが【アストレア・ファミリア】の
その場の空気は穏やかで、アストレアも眷族たちも騒ぎ立てることなく受け入れた。
ただ、アイズが星屑の庭へ踏み込んだ理由――強さへの渇望――は、アストレアの胸に今も静かに残っている。
そして今、ロキが話題を変えようとした理由もまた、その渇望に関わるものなのだろうと、アストレアは薄く察していた。
「ごめんなさい。私はてっきり――」
「その話なら私も聞いたわ。前に貴女が自慢していた【剣姫】が、どうやら相当なお転婆みたいね」
アストレアが静かに謝罪の言葉を口にしようとした瞬間、フレイヤが面白がるように割って入った。美の女神は、柔らかな笑みを浮かべながらも、どこか人を試すような声音で言葉を紡ぐ。
「喧しいわ!」
ロキが即座に噛み付く。その反応には、まるで『お前にだけは言われたくない』と言わんばかりの棘が含まれていたが、フレイヤは全く意に介していない。寧ろ軽く受け流した上で、今度はアストレアへと視線を移す。
その瞳は柔らかい光を宿しながらも、奥底には鋭い探求心が潜んでいた。美の女神が本気で何かを知ろうとする時の、独特の圧が空気をわずかに震わせる。
「そうそうアストレア、私も貴女に訊きたい事があるのよ」
「あら、何かしら」
アストレアは落ち着いた声音で返すが、胸の奥にわずかな緊張が走る。フレイヤが『訊きたい事がある』と言う時、それは決して軽い話題ではない。
「これはあくまで噂で聞いたのだけど、貴女の
フレイヤは穏やかな笑みを崩さない。
しかし、その瞳は真意を問い質すように鋭く、アストレアの返答を逃すまいとする静かな圧力を帯びていた。
フレイヤの性格を考えれば、自身に関わる話であれば即座に動いてもおかしくない。もし本当に自分の眷族であったなら、彼女は迷うことなく
だが、フレイヤは動かなかった。動けなかったと言うべきか。
理由は単純でありながら、極めて異常だった。心当たりが、全くないのだ。
フレイヤは自身の【
そんな折、ロキがアストレアを誘って『お茶会』を開くと言い出した。フレイヤはこれを好機と捉え、アストレアから直接真相を聞き出すつもりでこの場に臨んでいた。
「で、実際どうなのかしら?」
「えっと……」
嘘は許さないと言わんばかりの圧を掛けてくるフレイヤに、アストレアは返答に困っていた。
胸の奥で、言葉が重く沈む。
本当なら隆誠の事を話すべきなのだが、そう簡単に口にできる内容ではない。
彼は七年後の未来からやってきた【フレイヤ・ファミリア】の元眷族であり、他の眷族たちとは違い、フレイヤと対等に話していた存在。
そんな事実を告げれば、フレイヤは間違いなく隆誠を自分の手元に置こうとするだろう。
場合によってはロキも動く。天界で『トリックスター』として名を馳せた女神が、未知の存在を前に黙っているはずがない。
アストレアが返答に困り、沈黙が落ちかけたその瞬間――
「お茶会をしてると聞いたが、此処だったのか」
普段着――彼の元の世界で作られた衣服を纏い、自然体のままこの場に現れたその姿は、神々の空気とは異質でありながら、妙に馴染んでいた。
アストレアが軽く息を整え、隆誠へ視線を向ける。
「リューセー、どうしたの?
「いいや。久しぶりに街を散策していたところ、アストレアの姿が目に入ったから声を掛けたのだが……もしかして、お邪魔だったか?」
「いいえ、そんな事ないわ」
隆誠が現れたことで、アストレアに僅かな余裕が生まれた。彼の存在は、彼女にとって対等に話せる相手であり、同時に守るべき者でもあった。
ロキはその様子を見て、心底意外そうに目を細める。
「もしかして自分、アストレアの所におる噂の男か?」
「何の噂なのかは知りませんが、俺がアストレアの
隆誠はあっさりと答える。その自然体の態度は、神々の前でも一切揺らがない。
本来ならフレイヤの眷族なのかと問い質すべきなのだが、ロキはそれよりも気になることがあった。
「何やアストレア、自分この子に呼び捨てで呼ばれとるんか?」
「ええ。私がそうしてと頼んだの」
「……マジか」
ロキは内心で驚愕していた。
アストレアは眷族だけでなく、オラリオの市民からも慕われる女神であり、誰もが敬称を付けて呼ぶ存在だ。その彼女を呼び捨てにする人間がいるなど、想像すらしていなかった。
しかし同時に、ロキの胸には別の好奇心が疼き始めていた。
「ほ~ん……。ほな、自分とアストレアの関係を詳しく聞かせてくれんか?」
「貴女に教える気などありませんね」
「そんな固いこと言わずにぃ~」
ロキが根掘り葉掘り聞き出そうとするのを、隆誠は明確に拒む。その拒絶は、神に対しても一切怯まない。
すると、アストレアが静かに割って入る。
「ロキ、余りリューセーを困らせないで頂戴」
その一言でロキは肩をすくめ、フレイヤは静かに視線を外した。
こうして『お茶会』はお開きとなり、アストレアは隆誠と共に
帰路の途中、隆誠はふと視線を落とす。
(フレイヤの奴、俺を見てからずっと固まっていたな)
美の女神が初対面である自身を呆然と見つめていた違和感が、隆誠に少しばかり警戒させていた。
アストレアと隆誠が姿を消した後も、ロキとフレイヤだけはその場に残っていた。夕刻の風が神々の髪を揺らし、静寂が広場を包み込む。二柱の女神は、互いに違う種類のざわめきを胸に抱えていた。
「フレイヤ、急に黙っとるけど……どないしたんや?」
ロキが軽い調子で声を掛ける。しかし返ってきたのは、普段の彼女らしからぬ沈黙だった。
フレイヤは胸元を押さえ、困惑したように眉を寄せる。
「………何なの、この気持ち。彼とは初対面のはずなのに」
この時代の彼女は隆誠を知らない。にも拘らず、心の奥底がざわついていた。
初めて会ったはずの男を見た瞬間、理由もなく惹かれ、目が離せなくなった。これまで自分が見初めてきた
そして隆誠がアストレアと共に去った途端、胸にぽっかりと穴が開いたような喪失感が押し寄せてくる。
「フレイヤ?」
ロキが覗き込むと、フレイヤの瞳は揺れていた。その揺れは、女神としての矜持とは程遠い、もっと人間的で、もっと危うい感情だった。
「アストレアとあんなに仲良くしてるのを見て……どうしてこんなに腹立たしいのかしら……!」
「ひぃっ!?」
ロキが肩を跳ねさせるほど、フレイヤの声には怒気が滲んでいた。
隆誠がアストレアと寄り添うように帰っていく姿を思い出すたび、胸の奥で嫉妬と怒りが沸々と煮え立つ。
自分でも理解できない感情。だが確かにそこにある、抗いがたい衝動。
(いずれまた、会う必要がありそうね)
胸の奥に生まれた矛盾を解きほぐすには、もう一度彼に会って確かめるしかない。その結論は、女神の中で静かに、しかし強烈に形を成していた。
フレイヤは怯え顔になっているロキを一瞥することもなく、踵を返す。その背中には、決意と焦燥が入り混じった気配が漂っていた。
こうして、彼女は夕闇へと消えていく。
隆誠という存在が、フレイヤの運命に新たな波紋を広げ始めていることを、まだ誰も知らない。
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