伊作は乱太郎の横に伏木蔵を寝かせ、息を吐いた。
まずは伏木蔵を、次に狸寝入りをしている可能性が高い乱太郎を、秘伝の薬を使って眠らせた。
恐らく目が覚めた時にはすべてを忘れている。
急患が入らないことを願うしかない。
これは薬効が早いので、口当てがないと、訪問者も巻き添えをくってしまう。
部屋から薬が抜けるのは、もう少しかかりそうだ。
「――伊作先輩」
ぞわりと背中が粟立つ。部屋の中から声がする。まったく気配を感じなかった。
呼びかけがなければ知らない間に命をとられてしまうほどの、存在感のなさ。
しかし、聞き覚えのある声だ。
「……数馬?」
「はい」
問いかけに呼応するかのように、ふわりと姿が浮き上がる。
三反田数馬。伊作の次に年長の保健委員。
彼はしっかりと口当てをつけていた。
警戒レベルを下げ、伊作は問いかける。
「……いつからいたの?」
「すみません……最初からです」
困ったように笑ってみせた数馬からは、話を盗み聞きしてやろうと潜んでいたとはとても思えなかった。
故意ではなく、過失なのだ。
「伊作先輩に聞きたいことがあって、医務室に来たら、ちょうど伏木蔵と伊作先輩が話していたところで」
割って入れなかった結果がこれだ、ということなのだろう。
向こうが深く尋ねてこないのであれば、それで構わない。
彼はまじめで、口もかたい。
何事もなかったふりをするだけだ。様子見を兼ねて。
「それで、聞きたいことって?」
数馬は懐から、折りたたまれた書類を取り出す。
「保健委員会の予算書なんですけど」
差し出された書類は、努力の跡が見受けられた。
書いては消し、できるところは埋め、しかし空白も、間違っている部分も多い。
「そろそろ、予算書の書き方を教えてもらえませんか」
いつかはくると思っていた、後輩からのお願いだった。
「先日の予算会議で痛感しました。伊作先輩の体調不良で僕たち下級生だけで予算案をつくって、めちゃくちゃな申請になって、大変なことになってしまって。僕たちは伊作先輩に頼りすぎている。……いや、保健委員会の仕事において、明らかに役割分担が偏っている」
先日の予算会議では、保健委員会が要求した予算が全額承認された。しかし必要な薬などが計上されていなかった。
当たり前だ。伊作は後輩たちが探し出せる場所に、過去の予算書を保管していなかった。
それらはすべて、長屋の自室にしまいこんでいる。
「僕の知る限り、予算に関しての仕事は、伊作先輩が引き受けてきた。先輩が四年生だったときからずっとです。僕たちに予算関係の処理を触らせなかったのも、下級生だからと思っていましたが、さきほどの話を聞いて合点がいきました。先輩は、学外治療の予算について、僕たち保健委員でさえも知られたくなかった。恐らく、下級生には緘口令がしかれていたから」
伊作は黙って聞いていた。
見本もなにもない状態で、まがりなりにも予算書を形にしたのは褒めるべきことだ。
そして、数馬の推測は当たっていた。
予算書には、伊作の学外治療で使った薬の量や価格が書いている。
在庫管理も、予算も。
伊作が一人で行っているのは、知られたくなかったからだ。
「……そこまで知って、このまま帰れると思うのかい?」
すごんだ声に、後輩は動揺しなかった。
「先輩は、きっと僕の記憶を消さないでしょう」
「あいにく、僕は優しくないよ」
距離を詰め、伊作は数馬の背後から口当てに手を伸ばす。もちろん抵抗できないように、両腕は捻りあげている。
この口当てをずらすだけで、今までの記憶は消える。
それでも流れるような動作ができなかったのは。
「だけど、僕たちは同じ穴のむじなです」
腕をおさえている手が緩んだ。
「だから先輩は、きっと僕になにも言わないまま卒業したりなんかしないと、信じています」
■予算に関しての出典
「予算会議が終わったの段」【第17シリーズ第78話】
より
予算会議では、保健委員会が要求した予算が全額承認された。しかし必要な薬などが計上されていなかった。該当予算書は下級生が作った。
部分を参考にしています。