――頭がぐらりとする。
「立花、先輩。すみません、もう、これ以上は」
抱えきれない、飲み込めない。
今まで先輩一人が背負ってきた荷物を、ほんの少し渡されたくらいでこんなにもふらついてしまう。
「――すまない、喜八郎。一度に多くを話しすぎた」
仙蔵が、喜八郎を気遣う表情をする。
「医務室に行ってきつけ薬をもらってくるか?」
喜八郎はかぶりを振った。
今日は五年生が、夜間実習を行っている。
喜八郎達四年生が夜間実習をしてしくじった際、駆け込んだ医務室で治療にあたってくれたのは善法寺伊作だった。
恐らく唯一の上級生だから、夜間実習中は万一のことを考え夜中に詰めている。
補佐する下級生はいたとしても、代替要員にはなりえない。
だからこの時間、善法寺伊作の不在はありえない。
今だけは、現保健委員長に会いたくない。
仙蔵は、そんな喜八郎の内心を知ってか知らずか、無理強いはしなかった。
「遅くまですまなかった。もう部屋に戻って、ゆっくり休め」
喜八郎は穴実録を手にし、ゆっくりと立ち上がった。
「……それではお言葉に甘えて、失礼します」
「喜八郎」
部屋を出ようとする前に、仙蔵の鋭い声が制止した。
「……はい」
「思うところはあろうが、田村にも、吐き出すんじゃないぞ」
喜八郎の瞳は揺れる。相対する先輩の表情には揺るぎがない。
「いずれ、次期委員長・委員長代理を引き連れて、引継ぎを兼ねた委員会委員長会議が開かれる。言える範囲の弱音は、そのときに同じ立場の人間と吐き出せ。どうしても抱えきれなくなったら、私のところに来るといい」
喜八郎は深々と頭を下げた。
たっぷり三秒。
顔を上げて、迷いなく、六年い組の部屋を出た。
――入れ替わりに、文次郎が入ってくる。ぽたりとしずくを落としている。
「聞いていたのか」
「いや。綾部が退出したのを確認して、すれ違わないようにして戻って来た。お前たちの話は聞いていない」
「そうか」
文次郎はどっかりと腰を下ろした。
「伊作には書類を持って行けたのか?」
「ああ。は組の部屋に行って空振ったが、医務室に行って渡してきた」
「まるでさっきまで池に入っていたかのようだが」
仙蔵が渡した手ぬぐいを受け取り、文次郎は身体を拭きながら口を開く。
「医務室に行く途中、なんらかの薬を使った形跡を確認した。口布をあてて医務室に入ったらまさに現場だ。口布をつけて起きていた伊作に、書類を渡したが、一年二人はもろに食らっているだろう」
「それで、装束についた薬を流すため、池に入ってきたというわけか」
「効果がどれほどかは分からんが、用心に越したことはないだろう」
「違いない」
文次郎が身支度を整えると、空気はふっと張り詰めた。
「……伊作は、なにか言っていたか?」
仙蔵の問いに、文次郎は息を吐く。
「学園長の、指示に従うと」
「……そうか」
空気は重たいままだった。
卒業後の進路は、個々人が決める。同輩でどんなに仲が良くても、「できれば遠くで就職したい」などのぼんやりとしたこと以外は話さない。就職先が決まっても、絶対に漏らさない。
ただし伊作の場合は状況が異なる。
伊作は忍術学園卒業を希望し、そのために努力している。ただ、卒業後は幻術使いの弟子として付き従い、医者として徳を積み、不運とともに生きていく進路が確実視されていた。
しかしこの春、幻術使いは宣言通り、来なかった。
便りもない。こちらから連絡をとることもできない。
伊作の将来は宙ぶらりんだ。不運とどう付き合っていくか。
「どこかの城に勤めたとしても、その忍者隊ごと不運で壊滅という未来だってありえなくはない。戦場医として生きていくのが一番いいとは思うが、忍術学園の在籍を今までお許しになり、庇護していた学園長先生の意向を聞くのが筋だろう」
文次郎の言葉に、仙蔵は小さくうなずいた。
「卒業までまだ猶予はある。伊作だって考えているだろうし、学園長先生のお考えだってあるだろうしな」
文次郎は大きなためいきをついた。
「ただ、俺たちの卒業を前に、どこかでまとまった時間をとって引継ぎをしなければ。次期委員長・委員長代理を引き連れた委員会委員長会議は、いつやるんだ?早いとこやってしまいたいのが正直なところだが」
「こればっかりはな。我々上級生の都合もあるし、学園長先生が招集せねば。私たちの一存では決められん」
「ったく……今度、鉢屋か尾浜を突っついてみるか。学級委員長委員会から話を入れてもらったほうが、学園長先生も重い腰を上げそうだ」
「あの二人が動いて学園長先生が素直に聞き入れるかは、はなはだ疑問だがな」
「違いない!……と、そろそろ寝るか」
「ああ、正直口がもう回る気はせんよ。しゃべり過ぎた」
仙蔵と文次郎は寝間着姿となり、布団をひくと、すぐに眠りに落ちた。
消し忘れていた部屋のあかりが、ふっと消えた。
空が白み始める。
伊作は口布をおろした。医務室で使った薬は、完全に排出されたようだ。
乱太郎と伏木蔵は、あいかわらずすやすやと眠っている。
彼ら二人は、薬の影響で伊作が話したことをなにも覚えていないだろう。
では、夜が明けたら三反田数馬は。
今朝は覚えていても、明日は?明後日は?
「ねえ、数馬」
伊作は小さくつぶやいた。一年生二人が起きてくる気配は、まだない。
「おまえには、予算書の書き方を教えたよ」
いつかの春。いつかの夏。いつかの秋。いつかの冬。
「いろいろなことを、教えたよ」
伊作は乱太郎の方を見やる。
数馬は今日のことを、いつまで覚えていられるだろうか。
引き継いでも引き継いでも、底が抜けた柄杓のようにぬけていく。
きっと学園にいる限り、誰も死なない。笑って済ませられる以上の不運は起こらない。
「数馬が代理になる春が来ない以上、引継ぎなんてできるわけないじゃないか」
学園長は何も言わない。幻術使いはやってこない。
夜は明けていく。日が沈んだら夜になり、星と月は消えていく。
飽きもせずに、繰り返す。
伊作の不運で誰も死なない、傷つかない、望んだ日常。
今日も始まる。
終わりの見えない日々が、続く。