機動戦士ガンダムSEED DESTINY - Agnes Route- 作:カイト__
C.E.73。ユニウス条約が締結され、血で血を洗う大戦が終結してから二年。地球とプラントの間には依然として見えない壁が存在し、平和という言葉の脆さを誰もが心のどこかで感じていた。それでも人々は、束の間の安寧に身を委ね、日々の営みを続けていた。オーブ連合首長国の若き指導者、カガリ・ユラ・アスハは、その脆い平和を確固たるものにするという重責をその細い肩に背負い、L4宙域に新設されたプラント「アーモリーワン」を訪れていた。彼女の傍らには、黒いオーブ軍の制服に身を包んだアスラン・ザラが、「アレックス・ディノ」という偽りの名で、護衛として影のように付き従っていた。
アーモリーワンの広大な宇宙港に、オーブからの使節団を乗せたシャトルが静かに着陸する。タラップを降り立つカガリの表情は、一国の代表としての凛とした威厳と、年若い指導者としての隠せない不安が繊細な綾を織り成していた。アスランは、その全てを察しているかのように、常に冷静な視線で周囲を鋭く警戒し、カガリの半歩後ろを歩みながら、的確な言葉で彼女をエスコートする。
「ようこそ、アーモリーワンへ。カガリ代表、長旅ご苦労様でした」
柔和な笑みと、どこか人を見透かすような深い眼差しで二人を出迎えたのは、プラント最高評議会議長ギルバート・デュランダルだった。その物腰はあくまで穏やかだが、瞳の奥には底知れない深淵が揺らめいている。「アスハの指導者として、そして世界の平和を願う者としてのご活躍、心から期待しておりますよ」
デュランダルの言葉に、カガリは緊張した面持ちで、しかしはっきりと頷き返した。会談室へと続く長い通路のパノラマウィンドウからは、緑豊かな居住区画や、穏やかに流れる人工の河川など、平和そのものを体現したかのようなアーモリーワンの美しい景観が一望できた。しかし、その平和な光景のすぐ地下深くに広がる巨大な軍事ドックでは、ザフトの新造戦艦ミネルバが進水式を控え、インパルス、カオス、ガイア、アビスといった最新鋭モビルスーツ群が、その恐るべき力を秘めて静かにロールアウトの時を待っていた。光と影、平和と軍備拡張という矛盾が、この最新鋭プラントには巧妙に同居していたのだ。
同じ頃、地球から遠く離れた月面、ザフト軍月艦隊の静寂に包まれた基地では、アグネス・ギーベンラートが、専用にカスタマイズされた白銀と気高い紫の専用カラーを施された高機動型モビルスーツ「グフ・ルナリス」のシミュレーターの中で、息詰まるような高G機動訓練を行っていた。モニターには、次々と出現する仮想敵機のマーカー。アグネスは、常人ならば意識を失いかねないほどの加速と旋回を繰り返し、その美しい顔には一滴の汗も浮かべず、ただ冷徹な精度で敵機を撃墜していく。その操縦技術は、アカデミー時代よりもさらに磨きがかかり、もはや他の追随を許さない域に達していた。開発スタッフたちは、彼女の才能と集中力に舌を巻くしかなかった。
「…こんなもの、お遊びにもならないわ。私のグフ・ルナリスの性能を試すには、あまりにもお粗末な相手ね」
訓練後、シャワーを浴びて自室に戻ったアグネスは、壁一面に貼られた地球圏の最新情勢図を苛立たしげに睨みつけた。そこには、各地で頻発する小競り合いや、テロの脅威を示す赤いマーカーが、まるで治癒しない傷口のように点滅している。
「こんな辺境の月で、退屈なシミュレーションとデータ収集ばかりの日々…私の才能が泣いているわ。お父様は、いつまで私をこんな場所に閉じ込めておくおつもりなのかしら」
月艦隊への配属は、表向きは新型MS開発という重要な任務だったが、アグネスにとっては、実戦の興奮から遠ざけられた、才能の飼い殺し同然だった。彼女の燃えるような野心とプライドは、プラント本国、そして地球圏の華々しい戦場でこそ満たされるはずだったのだ。
父親であるギーベンラート評議員からの定期通信は、決まって「ギーベンラート家の名誉を汚すな」「功を焦るな、時期が来ればお前にも相応しい舞台を用意する」という、彼女の心を逆撫でするような紋切り型の言葉ばかり。それが、アグネスの苛立ちと焦燥感をさらに募らせた。
ふと、アグネスはクローゼットの奥にしまい込んでいた、あの忌々しいはずの赤いザフトのジャケットを手に取った。アカデミー時代、シン・アスカから半ば強引に押し付けられたものだ。二度と袖を通すことなどないと思っていたが、なぜか捨てられずにいた。その粗雑な布地からは、微かに硝煙と汗の匂い、そして雨に濡れたあの日の記憶が蘇る。
「…あの野良犬は今頃どうしているのかしら。ミネルバとかいう新造艦に配属されたと聞いたけれど…まさか、本当に最前線で無様に犬死にでもしているんじゃないでしょうね」
その毒づくような言葉とは裏腹に、シンの赤い瞳、常識外れの荒削りな操縦センス、そして何よりも自分に真っ向から食って掛かってきたあの不遜な態度が、アグネスの記憶の片隅で、奇妙なほど鮮明な輪郭を保っていた。彼女にとってシン・アスカは、忌々しいライバルであると同時に、自分の価値を測るための、そしていつか必ず超えなければならない唯一無二の目標でもあったのだ。月を見上げるたび、彼女はその冷たい光の中に、シンの赤い瞳の残像を、まるで焦がれるように追っているような気がした。
アーモリーワン、デュランダル議長の執務室。会談は、プラントとオーブの今後の協力関係、そしてユニウス条約後の世界の平和維持について、穏やかな雰囲気の中にも緊張感を孕んで進んでいた。カガリが代表としての決意を述べ、デュランダルがそれに微笑みで応える。その静寂は、しかし、突如として切り裂かれた。プラント全体にけたたましい非常警報が鳴り響き、天井の赤い警告灯が高速で点滅し始め、室内の空気を一瞬にして凍りつかせた。
「何事だ!?」アスランが鋭く叫び、カガリの前に立ちはだかる。
デュランダルは、その冷静な表情を微塵も崩さず、手元のインカムに的確な指示を出す。「状況を報告しろ。正確にな」
「MSハンガーが襲撃されています!所属不明の武装集団です!警備兵は次々と…ああ!最新鋭MSが…!」管制室からの悲鳴に近い報告が、ノイズと共に途切れた。
その頃、アーモリーワンの地下ドックに併設されたMSハンガーでは、まさに地獄絵図が展開されていた。黒い特殊戦闘服に身を包んだ謎の部隊――ファントムペインの強化人間、スティング・オークレー、ステラ・ルーシェ、アウル・ニーダ――が、ザフトの警備兵を赤子手を捻るように次々と無力化していく。ステラの甲高い、しかしどこか虚ろな、狂気を孕んだ笑い声が、爆音と金属音の中で不気味に響き渡る。彼女たちの手によって、ロールアウト直前だった最新鋭MSであるカオス、ガイア、アビスの三機のガンダムが、いとも簡単に強奪されていく。その圧倒的な戦闘力と連携は、ザフトの誇る防衛システムを嘲笑うかのようだった。
「カガリ、ここから離れるぞ!議長、申し訳ありませんが、我々はシェルターへ!」アスランはカガリの手を強く引き、シェルターへと向かおうとする。デュランダルは冷静な表情のまま頷き、部下に事態の収拾と市民の避難を指示していた。その瞳の奥には、予測していた事態に対するかのような、あるいはこの混乱すらも利用しようとするかのような、冷徹な光が宿っていた。
その絶望的な報は、瞬く間に月艦隊司令部にも届いた。
「アーモリーワンが襲撃!?馬鹿な、誰がそんな大胆なことを…!最新鋭ガンダム三機が強奪されただと!?」司令部内は、信じられないという驚愕と混乱に包まれた。
偶然近くの管制室でその情報を耳にしたアグネスは、一瞬にして全身の血が沸騰するのを感じた。「実戦…ですって!?」彼女はテストパイロットとしての冷静さをかなぐり捨て、いてもたってもいられず、自分の上官の元へと駆け寄った。
「司令!どうか出撃させてください!私のグフ・ルナリスなら、必ずや彼の者たちの追撃にお役に立てます!ここからアーモリーワンまで、最大船速で急行すれば、まだ間に合うかもしれません!」アグネスの声は、抑えきれない興奮と焦りで上ずっていた。彼女の瞳は、獲物を見つけた狩人のように爛々と輝いていた。
しかし、白髪混じりの厳格な上官は、そんなアグネスを冷ややかに一瞥しただけだった。「馬鹿者めが。貴様は月艦隊所属のテストパイロットだ、戦場の掃除屋ではない。それに、アーモリーワンまでは距離がありすぎる。我々が出るまでもなく、本国防衛隊が対処するだろう。今は本国からの正式な指示を待て。これは命令だ、ギーベンラート少尉」
アグネスの熱のこもった申し出は、まるで氷水を浴びせられたかのように、けんもほろろに一蹴された。彼女は唇をきつく噛み締め、怒りと屈辱に肩を震わせた。管制室のメインモニターには、アーモリーワンの惨状が、まるで悪夢のように映し出されていた。炎上する施設、逃げ惑う人々のシルエット、そして次々とザフトの防衛網を突破していく最新鋭ガンダムの姿。
「ザフトは何をやっているの!こんな簡単に、虎の子のガンダムを奪われるなんて…!私が、私がそこにいれば、あんなザマには絶対にさせなかったものを…!」アグネスの美しい顔が、手柄を立てる絶好の機会を逸したことへの激しい焦燥感と、自分の力を発揮できないことへの耐え難い屈辱で歪んだ。彼女の瞳には、出撃できないことへの強い苛立ちと、血湧き肉躍る戦場への渇望が、まるで押さえつけられたマグマのように燃え盛っていた。
アーモリーワンの戦闘宙域。アスランはカガリを比較的安全なシェルターへと避難させた後、近くのハンガーに緊急用に駐機されていた量産機ザクウォーリアに乗り込み、単身、強奪された3機のガンダムと必死の交戦を続けていた。歴戦のエースであるアスランの技量は確かだったが、相手はザフトの技術の粋を集めた最新鋭ガンダム3機。数と性能の両面で圧倒的に不利な状況は如何ともし難く、ザクウォーリアは徐々に、しかし確実に追い詰められていく。シールドは砕け散り、機体の各所から火花が散る。ビームがコックピットを掠め、衝撃でアスランの意識が朦朧とする。
「くっ…ここまで、なのか…!カガリ…すまない…!」アスランが万策尽きたと覚悟を決めた、まさにその瞬間だった。
赤い閃光が、絶望に染まる戦場を切り裂いた。
「そこをどけぇぇぇぇっ!!」
アカデミー時代と何ら変わらぬ、怒りを剥き出しにした獣のような叫び声。ミネルバから緊急発進したインパルスガンダムが、目にも止まらぬ猛烈な勢いで戦闘空域に割って入ってきたのだ。その赤い機体を駆るのは、シン・アスカ。ザフトの赤い制服に身を包んだ、まだ少年と言ってもいい若者だった。
インパルスは、その最大の特徴である分離・合体機構「シルエットシステム」を巧みに駆使し、コアスプレンダー、チェストフライヤー、レッグフライヤーという三つのユニットが変幻自在に合体・分離を繰り返しながら、強奪されたガンダムの1機、アウル・ニーダの駆る水中戦仕様のアビスガンダムに奇襲をかける。ビームサーベルが激しく火花を散らし、爆発の光が宇宙空間に金属の悲鳴を木霊させた。
「あの機体は…ザフトの新型か!?助かった…のか…?」アスランは辛うじてザクウォーリアの体勢を立て直しながら、突如として現れた深紅の援軍に目を見張った。
シンは初陣の緊張と高揚感、そして目の前の「敵」――オーブを焼き、家族を奪った者たちと同じ、「許せない存在」への純粋な怒りに身を任せていた。彼の赤い瞳は、かつてオーブの戦火の中で家族を失ったあの日の悲劇を思い出させるかのように、激しい憎悪の炎を宿して赤黒く燃えている。守れなかった過去への後悔、理不尽な暴力への反発、そして力を渇望する魂の叫びが、彼を突き動かしていた。SEEDの片鱗が、その荒々しいが故に予測不能な操縦の中に、確かに鮮烈な光として煌めいていた。
月面基地の薄暗い管制室。アーモリーワンからの戦闘データがリアルタイムで更新され、メインモニターに次々と表示されていく。当初はザフト軍の劣勢と、奪われた新型ガンダムの圧倒的な性能に舌を巻いていたアグネス。しかし、突如として戦場に乱入してきた深紅のMS――インパルスガンダムの戦闘データとその特異な動きに、彼女は文字通り釘付けになった。
分離したパーツが予測不能な軌道で再合体し、敵の意表を突く戦法。パイロットの、常識を逸脱したかのような荒削りだが、獣じみた恐れを知らない突進。そして、時折記録される、常人ではありえない反応速度と空間認識能力を示す生体データ…。
アグネスは、その動きに強烈な既視感を覚えた。「この動き…この無茶苦茶で、それでいて恐ろしく効率的な戦闘パターン…まさか…!?」彼女の脳裏に、アカデミー時代の忌々しいライバルの顔が、雷に打たれたかのように鮮明に蘇る。あの赤い瞳、あの不遜な態度、そしてあの底知れない才能。
「シン・アスカ…!?あいつが、あのザフトの最新秘密兵器、インパルスに乗っているっていうの!?」
驚愕が、アグネスの全身を貫いた。そして、その驚愕を瞬時に凌駕するほどの、強い、強い対抗心と、微かだが無視できない興奮が、彼女の胸の奥底からマグマのように湧き上がってきた。
彼女は素早くコンソールを操作し、インパルスガンダムの戦闘データ、特にパイロットの生体反応と操縦パターン、そしてSEED発現の兆候を示すデータを優先的に記録・保存し始めた。その白い指先は、興奮のためか微かに震えていた。
「面白いじゃない…シン・アスカ。月(こんな場所)で燻っている私への、盛大な当てつけのつもりかしら?いいわ、その挑戦、受けてあげる。あなたがどれほどのものになったのか、この私、アグネス・ギーベンラートが見極めてあげるわ…そして、必ずや超えてみせる!」
アグネスの唇に、獲物を見つけた月下の雌豹のような、好戦的で妖艶な笑みが浮かんだ。彼女にとって、シン・アスカは再び、追いかけるべき、そしていつの日か必ずや打ち破るべき目標として、その網膜に、そして魂に、鮮烈に焼き付いたのだった。
宇宙(そら)は赤と蒼、そして黒の閃光で染まり、インパルスガンダムは、ステラ・ルーシェの駆る獣のような四足獣形態のガイアガンダムと、激しくビームサーベルを切り結んでいた。シンの怒れる赤い瞳が、ガイアの予測不能な凶暴な動きを的確に捉える。
遠い月では、アグネスがシンの戦闘データを凝視し、その唇に挑戦的な笑みを浮かべていた。
二つの運命の歯車が、再び大きな音を立てて、血と炎の戦場を舞台に回り始めたことを、まだ誰も知る由もなかった。