機動戦士ガンダムSEED DESTINY - Agnes Route- 作:カイト__
ユニウスセブン破片の迎撃戦と、その後の地球連合軍との激しい戦闘で深手を負ったザフトの新鋭戦艦ミネルバは、中立国オーブ連合首長国の首都オロファト近郊、モルゲンレーテ社の巨大なドックにその巨体を横たえ、緊急の修理と補給を受けていた。艦内では、オーブ代表首長としてプラントから帰還したカガリ・ユラ・アスハが、息つく暇もなくオーブ首脳部との会談に臨んでいた。彼女の若く華奢な肩には、今や国家の存亡というあまりにも重い責任がのしかかっていた。
オーブ官邸の重厚な会議室。カガリの向かいには、現オーブ政権を実質的に牛耳るセイラン家の当主、ウナト・エマ・セイランとその息子でカガリの婚約者でもあるユウナ・ロマ・セイランらが顔を揃えていた。彼らは、「ブレイク・ザ・ワールド」後の地球連合とプラントの深刻な対立激化を盾に、カガリに対し、オーブがどちらの陣営につくべきかという、国家の存亡に関わる厳しい選択を執拗に迫っていた。
「カガリ様、もはや中立という綺麗事だけでは、このオーブは守れませんぞ!地球連合、特に大西洋連邦との早期の同盟締結こそが、オーブの生き残る唯一の道なのです!」ウナトは、まるで言い聞かせるように、しかし有無を言わせぬ口調でカガリに迫る。
カガリは、父ウズミ・ナラ・アスハが命を賭して守り抜いたオーブの崇高な理念――「他国を侵略せず、他国の侵略を許さず、他国の争いに介入しない」――と、目の前に突きつけられたあまりにも厳しい現実との間で板挟みになり、唇をきつく噛み締め、深く苦悩していた。その様子を、護衛として同席していたアスラン・ザラが、心配そうに、そして無力感を滲ませながら見守っていた。
ミネルバのクルーたちは、艦の修理と補給が完了するまでの間、オーブの首都ディオキア市内での短い休暇を与えられた。シン・アスカ、ルナマリア・ホーク、レイ・ザ・バレル、そしてミネルバに正式配属となったばかりのアグネス・ギーベンラートも、それぞれの思いを胸に、ザフトの軍服からラフな私服に着替え、活気あふれるディオキアの街へと繰り出した。
「シン・アスカ、あなたを監視し、その行動を逐一記録するのも、私に与えられた重要な任務のうちよ。どこへ行くにも付いて行かせてもらうわ。光栄に思いなさい」
アグネスは、ディオキアの美しい海を一望できるカフェテラスで、迷惑そうな顔をするシンに対し、わざとらしく優雅な口調でそう宣言した。彼女の瞳には、好奇心と、シンという「興味深いサンプル」を観察する研究者のような冷徹な光が宿っていた。
「誰がお前の監視なんかいるか!鬱陶しいんだよ、お前は!」シンは顔を顰め、立ち去ろうとする。
「あら、つれないのね。でも、今のあなた、まるで飼い主に見捨てられた野良犬のようだわ。放っておいたら、どこで何をしでかすか分からないもの。私がしっかり手綱を握っておいてあげないと」アグネスはクスクスと笑いながら、シンの行く手を阻むように立ちふさがる。
そこへ、ルナマリアが頬を膨らませて割って入ってきた。「ちょっと、アグネス!シンは私と一緒にお土産を見に行く約束なのよ!あなたが邪魔しないでちょうだい!」
アグネスはルナマリアを上から下まで値踏みするような視線で見つめ、フンと鼻を鳴らした。「あら、先約がいらしたのかしら?でも、私の方がシン・アスカの“お目付け役”としては、あなたよりも遥かに適任だと思うけれど?それとも、ホーク少尉は、彼のお姉さん気取りがお好きなのかしら?」
「なんですって!?」ルナマリアはカッとなり、アグネスと睨み合う。二人の美しい女性パイロットの間には、早くもバチバチと激しい火花が散っていた。レイは、そんな騒動をまるで意に介さず、一人離れた席で静かにデータパッドに目を通していた。
シンは、アグネスとルナマリアの騒がしいやり取りからこっそり抜け出し、一人、かつて家族を失ったオノゴロ島の、今は慰霊碑が静かに佇む浜辺を訪れていた。寄せては返す波の音だけが、彼の耳に優しく、そして残酷に響く。彼は慰霊碑の前に立ち、どこからか手に入れた一輪の白い花をそっと手向けた。彼の脳裏には、あの日の炎と爆風の中で、一瞬にして消えていった両親と、まだ幼かった妹マユの最後の笑顔が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇っていた。悲しみ、怒り、そして何もできなかった自分への計り知れない無力感が、彼の胸を鋭く締め付ける。彼は砂浜に崩れるように膝をつき、海に向かって、誰にも聞こえない声にならない叫びを上げた。
その時、ふと人の気配を感じて振り返ると、そこには、物思いに耽りながら浜辺を散策していた一人の青年が立っていた。自分と同じくらいの年齢に見えるが、その佇まいはどこか大人びていて、穏やかだが深い悲しみを湛えた不思議な瞳をしていた。
「…大丈夫ですか?何か、とても辛いことでもあったように見受けられますが…」青年は、静かに、そして優しくシンに声をかけた。
シンは驚いて立ち上がり、警戒心を露わにしながらも、なぜかその青年の言葉に耳を傾けていた。「…別に。あんたには関係ない」
「そうですね…関係ないかもしれません。でも、あなたはとても苦しんでいるように見えたから…もし、誰かに話すことで少しでも楽になるのなら…」
二人は、浜辺に打ち寄せる波の音を聞きながら、とりとめのない言葉を少しだけ交わした。互いの素性――ザフトの若きエースパイロットと、前大戦で世界を救った英雄フリーダムのパイロット――を知る由もなかった。ただ、キラ・ヤマトは、シンの赤い瞳の奥に宿る、癒えることのない深い悲しみと、出口のない激しい怒りの炎を感じ取り、シンもまた、キラ・ヤマトの持つ不思議なオーラと、彼の言葉の奥にある静かで、しかし確かな優しさに、何か説明のつかない、魂が共鳴するようなものを感じ取っていた。短い会話の後、二人は静かに、そして名残惜しそうに別れた。
その一部始終を、少し離れた椰子の木の陰から、アグネスが高性能の双眼鏡で冷静に観察していた。「(あの男…何者かしら?シン・アスカが、あんな風に誰かと打ち解けたように話すなんて…興味深いわね。オーブには、私の知らない“駒”が、まだまだたくさん隠れているのかもしれないわ)」彼女は、キラ・ヤマトという存在に、新たな興味と、そして微かな、しかし無視できない警戒心を抱いた。その観察眼は、まるで獲物を見定める月下の狩人のようだった。
一方、アスランは、オーブに潜伏していたアンドリュー・バルトフェルドの手引きで、人目を忍び、旧友キラ・ヤマトと、そしてラクス・クラインの代理として彼らを支援していたマリュー・ラミアスと再会を果たしていた。彼らが身を寄せるのは、オノゴロ島の地下深くに隠された、かつてのアークエンジェルの秘密ドックだった。
「アスラン…無事だったんだな…!」キラは、アスランの姿を見て心から安堵の表情を浮かべた。
再会を喜び合うのも束の間、キラとマリューから語られた世界の現状は、アスランの心を激しく揺さぶった。デュランダル議長の真意への拭いきれない疑念、そして何よりも、ラクス・クラインがプラント内部で何者かに命を狙われ、常に危険な状況に晒されているという衝撃的な事実。アスランは、ザフトへ戻り議長の真意を確かめ、ラクスを守るべきか、それともオーブに残り、苦悩するカガリを支えるべきか、その二つの道の間で激しく葛藤した。彼の脳裏には、かつて父パトリック・ザラが犯した過ちと、自分が二度と繰り返してはならないと誓った悲劇の記憶が、重くのしかかっていた。
ミネルバが修理を受けているモルゲンレーテ社の巨大なドックでは、タリア艦長がオーブ側の技術者と打ち合わせを兼ねて視察に訪れていた。そこで彼女は、同じドックの厳重に隔離された別区画で、極秘裏に大規模な改修作業が進められている白い戦艦――アークエンジェルの特徴的なシルエットと、その傍らに立つ、かつての好敵手であり、そして今はオーブ軍に籍を置くマリュー・ラミアスの姿を偶然見かけた。二人の百戦錬磨の女性艦長は、言葉を交わすことなく、ただ一瞬だけ視線を交わし、そして静かにすれ違う。互いの存在に、何か言葉にできない運命的なものを感じ取りながら。
その夜、ミネルバのクルーたちが宿泊するディオキア市内の高級ホテルは、華やかな喧騒に包まれていた。プラントで今、絶大な人気を誇るアイドル、ミーア・キャンベル――ラクス・クラインの影武者としてデュランダル議長に選ばれた少女――が、議長の密命を受け、アスラン・ザラに極秘裏に接触を図ろうとしていた。
ミーアは、その愛らしい容姿と、本物のラクスと寸分違わぬ美しい声を武器に、アスランが宿泊するスイートルームのドアをノックした。「アスラン様…私、ずっとあなたにお会いしとうございました…デュランダル議長も、あなたのことを大変ご心配なさっていらっしゃいましたわ」彼女の言葉は蜜のように甘く、しかしその瞳の奥には、計算高い光が妖しく揺らめいていた。彼女は、アスランをザフトに引き戻すための「駒」として、そして彼を誘惑するための「餌」として送り込まれたのだ。
ルナマリアが、アスランに明日の予定を確認しようと彼の部屋を訪ねた際、偶然にもその親密な(ように見える)二人の現場を目撃してしまう。ミーアがアスランの腕に甘えるように絡みつき、アスランもまたそれを拒絶していないかのように見えた。ルナマリアは大きなショックを受け、言葉もなくその場を走り去った。彼女のアスランへの淡い恋心は、この瞬間、誤解と嫉妬によって無残にも打ち砕かれた。
アグネスもまた、その一部始終を、あるいはそれ以上の情報を、彼女独自の諜報活動――ホテルの高度なセキュリティシステムへの不正アクセスや、父ギーベンラート評議員が持つ広範な情報網の一部を巧みに利用して――掴んでいた。彼女はホテルの向かいのビルの、闇に閉ざされた一室から、高性能の暗視スコープでアスランの部屋の様子を冷静に監視していた。
「(フフ、面白いことになっているじゃない。ラクス・クラインの影武者ですって?デュランダル議長も、なかなか手の込んだ、そして悪趣味なことをお考えになるのね。そしてアスラン・ザラ…あなたも存外、女にはだらしない、単純な男なのかしら?それとも、何か裏があるのか…?どちらにしても、この情報は使えるわね。シン・アスカを手懐けるための、絶好の材料になるかもしれないわ)」
アグネスは、ミーアという存在を「デュランダル議長の都合の良い駒であり、そして使い捨ての人形」と冷ややかに評価しつつ、アスランの動向、そして彼がこの甘い罠にどう対処するのかに、強い興味を示していた。彼女にとって、他人の恋愛沙汰やスキャンダルは、格好の観察対象であり、そして時には自分の野望のために利用可能な「武器」にもなり得るのだ。彼女の唇に、月影のような冷たい笑みが浮かんだ。
キラとの再会、ラクスの危機、そしてミーア・キャンベルという影武者の存在。オーブで様々な出来事に遭遇し、激しく葛藤したアスランは、ついに自らの進むべき道を決断した。彼は、深夜、オーブ官邸のカガリの執務室を訪れた。
カガリは一人、山積みの書類と格闘し、疲労の色を隠せずにいた。そこへ、アスランが静かに入ってくる。
アスランは、カガリに対し、これまでの感謝の言葉と、オーブ代表首長としての彼女への変わらぬ敬意を、静かに、そして真摯に述べた。そして、自分の決意を、揺るぎない声で告げた。「カガリ…俺は、自分の目で確かめなければならないことがある。プラントへ…ザフトへ戻るつもりだ。デュランダル議長が本当に何を考えているのか、この目で見て、そしてもし彼が間違っているのなら…俺が、この手で止めなければならない」
カガリはアスランの言葉を静かに聞き、その美しい瞳には深い悲しみと、しかし彼の決意を尊重しようとする、指導者としての強い意志が宿っていた。「…そうか。お前が決めたことなら、私は止めない。それが、お前の選んだ道なのだろう」
アスランは、懐から小さなベルベットのケースを取り出し、カガリの前にそっと差し出した。それは、かつてカガリに「お守り」として託した、アスハ家の象徴である勇ましいライオンの紋章が刻まれた指輪だった。
「これは、君が持っているべきものだ。今の俺には、まだこれを持つ資格がない。いつか…いつか本当に平和な世界が来て、俺が胸を張って君の隣に立てる日が来た時、その時まで、君が預かっていてほしい」
カガリは震える手でその指輪を受け取り、溢れそうになる涙を必死に堪えながら、力強く頷いた。「…分かった。必ず、お前から再びこの指輪を受け取る日が来ることを、私は信じている。行け、アスラン。お前の信じる道を…そして…必ず、必ず生きて帰ってこい」
二人の間には、言葉にならない、しかしあまりにも多くの想いが流れ、静かな、しかし確かな絆が、そこには確かに存在していた。
ミネルバのブリッジ。アスラン・ザラが、ザフトの赤い軍服に再びその身を包み、デュランダル議長に対し、ザフトへの正式な復隊を申し出ていた。デュランダルは、その申し出を、まるで全てを予期していたかのように、心からの温かい笑みで歓迎した。「君の帰還を、プラント国民と共に心から待っていたよ、アスラン。これからのザフトには、君のその類稀なる力と経験が、どうしても必要なのだ」
その一部始終を、少し離れた場所からシン・アスカが、複雑な、そしてどこか挑戦的で、しかし僅かな安堵の色も浮かんだ表情で見つめていた。彼の隣には、いつの間にかアグネス・ギーベンラートが立っていた。彼女は、オーブで得た様々な情報と、アスランのザフト復隊という新たな動きに、不敵な、そして全てを見通すかのような妖艶な笑みを浮かべていた。
「(フフフ…ますます面白くなってきたじゃない、このゲーム盤は…シン・アスカ、あなたも早く私の期待に応えて、この盤上の最も輝かしい駒として、華麗に踊ってちょうだいな。この私、アグネス・ギーベンラートが、あなたを最高のキングに育て上げてあげるわ)」
ミネルバが、オーブのドックから静かに離岸し、修理と補給を終えたその巨体を、再び戦乱の宇宙(そら)へと向け、出航準備を始める。それぞれの運命が、このオーブという「ジャンクション」で大きく交錯し、新たな物語の歯車が、ゆっくりと、しかし確実に、そして否応なく回り始める予感を色濃く漂わせて、物語は次の局面へと進んでいくのだった。