マリアの発、『体に、ありがとう』が完成してから、ホープウェル村での俺達の生活は、以前にも増して穏やかで満ち足りたものになった。マリアは、失われた時間を取り戻すかのように、生き生きと日々を過ごしている。
朝早くからマリアは庭に出て、子供たちやチャーリーと遊ぶ。かつては立ち上がることも叶わなかった足で、今は子供たちと一緒に芝生を駆け回り、ボールを蹴る。その動きには、以前のようなぎこちなさは微塵もなくなっていた。
子供たちは、そんなマリアの姿を見るたびに歓声を上げ、老犬チャーリーは、嬉しそうに尻尾を振って後を追う。
しかし、そんな明るい生活にも陰りが見えてきた。この1カ月ほど、チャーリーが目に見えて衰弱してきたのだ。
チャーリーは、父さんたちがマリアが生まれる前から飼っていた犬で、もう14歳だ。犬としては相当な高齢だ。大きな怪我や病気もなくここまで生きてくれただけでも喜ぶべきかもしれないが⋯
やはり、別れが近いことを悟らざるを得なかった。白かった鼻筋にはさらに白い毛が増え、散歩の足取りは重くなり、食事の量も減った。眠っている時間が長くなり、呼んでもすぐに反応しないことも多くなった。かつてのマリアを乗せて庭を駆け回った力強い脚は、立っているだけで震えることもある。
「チャーリー、だいじょうぶ?」
ルークとクレアが、眠っているチャーリーの傍らにしゃがみ込み、優しく頭を撫でる。チャーリーは、二人の声を聞き、ゆっくりと目を開けて、力なく尻尾を振る。その様子を見るたび、マリアの顔に影が差す。発によって感覚が強化されているから、チャーリーの身体の状態を感知できるようになったのだろう。その衰弱が、より切実に伝わってくるのかもしれない。
俺も、チャーリーの傍らに座り込む。俺には、ゴンのような、動物と心を通わせるような特別な能力はない。だが、チャーリーと共に過ごした時間だけは確かにある。
ルークも、クレアも、マリアだって悲しむだろう。そして俺自身も、ただその命の灯火が消えゆくのを見ているのは耐えがたかった。
「なんとか、元気になってくれないかな⋯」
マリアが、チャーリーの頭を撫でながら、声に不安を滲ませて言った。
「⋯普通の手段では無理だと思う。でも、念能力なら、もしかしたら⋯」
俺の言葉に、マリアがハッとしたように顔を上げた。
「チャーリーに念能力を覚えさせるってこと!?」
念能力で身体を治すことができるということは、マリアが一番よく分かっている。それに、纏には若さを維持する効果があることも分かっている。
原作のキメラアント編から分かるように、念能力は人間の特権ではない。犬だから使えないということもないはずだ。
「⋯うん。でも、どうやって覚えさせたら良いか⋯」
念能力の会得には、精孔を開き、四大行を習得する必要がある。人間相手であれば、瞑想や指導で精孔を開き、練や纏の感覚を教えることができるが、犬にそれを理解させるのは不可能に近い。
「私にやってくれたみたいに、アレンの発で教えてあげることはできないの?」
確かに、俺の能力を使うことができたら、それほど難しいことではないだろう。しかし⋯
「⋯『魂の教科書』を使うには、相手の同意が必要だ。でも、チャーリーは言葉をしゃべれないし、念能力の概念を伝えるのも難しい」
俺の言葉に、マリアは首を傾げる。その瞳は、何か別の可能性を見ているかのようだった。
「⋯同意って、言葉が必要なの?」
⋯考えてもみなかった。俺が考えた制約は、あくまで人間の言葉による同意だった。だが、「同意」をもっと広い意味で解釈したら⋯
「言葉では伝わらなくても⋯チャーリーなら、分かってくれるかも⋯」
マリアは、チャーリーを見つめながら、静かにそう呟いた。
その日から、俺とマリアのチャーリーへの同意確認の試みが始まった。
まず、俺たちはチャーリーに「助けたい」「元気になってほしい」という俺たちの気持ちを伝える方法を考えた。言葉で話しかけ、優しく撫でる。普段からやっていることだが、より強い念を込めて、オーラをほんのわずかだけ流し込んでみる。チャーリーは、嬉しそうに尻尾を振るが、それが同意の意思表示なのかは判断できない。
夜になり、ルークとクレアが眠ってから、俺とマリアは納屋でチャーリーと向き合った。マリアはチャーリーを抱きかかえ、温かいオーラで包み込む。俺はチャーリーの傍らに座り、助けたいという純粋な念を込めて、そっと手を置く。チャーリーは気持ちよさそうに眠っているが、本当に俺たちの意図を理解し、助けを受け入れる同意をしているのか…確かめられないと、俺の能力は発動できない。
次の日も、その次の日も、様々な方法を試した。チャーリーのお気に入りのボールを使って「回復したらまた遊ぼうね」という気持ちを込める。好きな食べ物を前に「これを食べられるくらい元気になってね」と願う。
しかし、どれも単なる犬への愛情表現の域を出ず、念能力の発動条件である「同意」を得られたという明確な手応えはなかった。チャーリーは、俺たちの試みに戸惑っているようにも見えたし、ただされるがままになっているだけのようにも見えた。
「…だめだ…やっぱり、言葉が通じないと、同意を得るなんて…」
数日間の試行錯誤の末、俺は諦めかけていた。チャーリーの衰弱は進んでいる。これ以上、無駄な時間を過ごしている猶予はない。チャーリーの最期を幸せにしてやるしか無いのではないかと考え始めていた。
そんなある日⋯
「ねえ、アレン。⋯もしかしたら、私の発を応用して、お互いの気持ちを伝え合うことができるかもしれない」
マリアが、現状を変えてくれるかもしれない一言を投じた。
思ってもみなかったが⋯『体に、ありがとう』は、全身にオーラ神経を張り巡らせ、指令や感覚をやり取りする能力だ。もし、そのオーラ神経をチャーリーと繋ぎ、お互いの気持ちをオーラに乗せて相互に伝える、という応用が可能だとしたら⋯?
発の練習の一環で、マリアは足で感じたことを頭に伝達するということをしていた。感情だって、脳神経で発生するものだ。伝達できてもおかしくはない。
「⋯やってみる価値はあるかもしれない。姉さん!俺と姉さんの間で、気持ちのやりとりを試してみよう!」
俺は、マリアのアイデアに可能性を見出し、興奮を抑えきれずに言った。マリアのオーラ神経が、感情や意思を伝える媒体となりうるか。それができれば、『魂の教科書』の同意という制約を、チャーリーとの間でもクリアできるかもしれない。
「うん!やろう!」
マリアは、希望に満ちた顔で頷いた。
俺たちは、向かい合って椅子に座った。
「まず、姉さんの『体に、ありがとう』の一部を、オーラの糸として伸ばして、俺の手に触れさせてくれるか?」
マリアは集中し、指先から淡いオーラの糸を伸ばし、俺の掌にそっと触れさせた。微かな、温かい感触が伝わってくる。これは、以前、マリアがオーラで物を動かす訓練を始めた頃の感触と似ている。
「じゃあ、まずは俺から姉さんに俺の気持ちを送ってみる」
俺は、チャーリーを救いたい、という気持ちを込めてマリアのオーラの糸を握る。
マリアは、目を閉じて集中している。額には、わずかに汗が滲んでいる。
数秒後、マリアはゆっくりと目を開けた。
「⋯なんか、温かい感情が⋯これは、チャーリー?⋯チャーリーを助けたいっていう気持ち⋯?」
「伝わったのか!?」
俺は、思わず身を乗り出した。感情が確かにオーラに乗って伝達できた。マリアの『体にありがとう』が持つ、感覚伝達能力の、新たな応用だ。
「うん…でも、ぼんやりと…気持ち、みたいな感じで…言葉にはならない…」
それでも、大きな進歩だ。完全にクリアな情報伝達ではないにしても、感情はオーラを通じてある程度伝達できるということだ。
その日は、この能力の練習に費やした。日が暮れる頃には、俺と姉さんはこの糸を通じて言葉を交わさずに意思疎通できるまでになっていた。
そして翌日⋯
「⋯姉さん。その糸を、俺とチャーリーの間に繋ぐことはできる?」
「⋯アレンとチャーリーを直接繋ぐのは難しい、と思う。けど、私を介してなら⋯」
「やってみよう」
「分かった」
マリアは、手からオーラの糸を伸ばし始めた。俺はその一端をつかみ、マリアはもう片方の端をチャーリーの頭に付けた。チャーリーは不思議そうな顔で俺たちを見ている。
「じゃあ、いくよ」
俺はそう言って、チャーリーを救いたい、そのために俺の能力を使いたいという気持ちを込めた。
チャーリーは、びっくりとした様子で顔を上げた後、俺の顔をじっと見た。⋯伝わっているのか?
すると、マリアを介してチャーリーの感情が伝わってきた。⋯俺たち家族への愛と、生きたいという気持ちだ。つまり⋯同意、された⋯!
「よし!ありがとう、チャーリー!」
チャーリーは、俺の喜びが伝わったのか、嬉しそうに尻尾を振っている。
「じゃあ、いくぞ⋯」
俺は、ノートと万年筆を取り出した。左手にノートを持ち、右手に持った万年筆でチャーリーの頭とオーラに書き込んでいくイメージ⋯
チャーリーは能力の発動中、じっと俺の方を見ながら静かに待っていた。マリアも、緊張した様子で俺たちを見つめている。
チャーリーの精孔が少しずつ開き、その身体はオーラを纏い始めた。そして5分ほど経って、能力が完了した。チャーリーの身体から、オーラが立ち上っているのが見える。
チャーリーは、俺たちの期待に応えるように立ち上がり、大きく伸びをした。そして、軽やかな足取りで納屋の中を歩き始めた。その動きは、ついさっきまでぐったりと寝ていたとは思えないほど元気だった。
「わふっ!」
チャーリーが、力強く鳴いた。以前のような弱々しい鳴き声ではない。張りのある、若い頃を思わせる声だ。そして、俺たちの周りを、尻尾をブンブン振りながら駆け回り始めた。納屋の狭い空間を目一杯使って、元気になったことを全身で表現している。
俺とマリアは、そんなチャーリーの姿を、感動と安堵の入り混じった表情で見つめていた。チャーリーは、元気になった喜びを抑えきれない様子で、俺たちの足元に体を擦り付けたり、じゃれつくように軽く噛みついてきたり、嬉しそうに鼻を鳴らしたりした。
マリアは、チャーリーの傍らに膝をつき、その体を強く抱きしめた。チャーリーは、マリアの腕の中で、安心しきったように身を委ねている。
「チャーリー…よかったね…ほんとに、よかった…」
マリアの声は、涙で震えていた。俺も、チャーリーの頭を撫でながら、込み上げてくるものを抑えきれずにいた。
チャーリーは、興奮が収まらないのか、納屋の中でしばらく楽しそうに動き回っていたが、やがて俺たちの足元で丸くなり、穏やかな寝息を立て始めた。体中に満ちたオーラは、穏やかに循環している。
俺とマリアは、夜が明けるまで、チャーリーの傍らで静かに過ごした。外の世界の闇の中で、納屋の中だけが、確かな希望の光に満たされているかのようだった。
そして翌日。
ホープウェル村に、朝の陽光が降り注ぐ。ルークとクレアは、いつものように元気いっぱいに目を覚まし、庭へ駆け出した。
「チャーリー! あそぼー!」
庭の片隅、いつものようにチャーリーが寝ている場所へ駆け寄ったルークとクレアは、その姿を見て、一瞬動きを止めた。そして、次の瞬間、驚きと喜びの声を上げた。
「チャーリー! はしってる!」
「ねぇね! にーに! チャーリーがげんきだよ!」
サラ叔母さんとトーマス叔父さんも、朝食の支度をしながら、子供たちの声を聞いて外に出た。そして、そこで見た光景に、二人とも目を丸くした。
庭の中央で、チャーリーが、まるで仔犬のように駆け回っているのだ。ルークとクレアの周りを、かつての俊敏さで走り回り、ボールを追いかけ、楽しそうに吠えている。
「なっ…チャーリー…!? まさか…」
トーマスさんが、信じられないといった様子で呟く。叔母さんも同じくらい驚いているようだ。⋯病気や怪我が治るならともかく、年老いた犬が急に元気になったのだから、驚くのも当然だろう。
ルークとクレアは、元気になったチャーリーにしがみつき、笑い声を上げている。チャーリーは、二人に体を擦り付け、嬉しそうに尻尾を振っている。
「アレン…マリア…一体何を…」
トーマスさんが俺たちに尋ねた。俺は、トーマス叔父さんとサラ叔母さんの顔を見つめて悩む。この奇跡を、どう説明すればいいのか。
「あの⋯アレンが、ね⋯お、おまじないを⋯」
マリアが苦しい言い訳を言った。
「…そうか…おまじない、ね…」
トーマスさんが、苦笑いを浮かべた。
「まあ、元気になったなら、素晴らしいことだ」
とりあえず、深く追求されることはなさそうだ。⋯トーマスさん達は信頼できる人だ。そのうち、念能力の存在を教えないとな。
それよりも、ひとまずはチャーリーが元気になったことを喜ぼう。寿命がどれほど延びたのかは分からないが、できるだけ長生きしてほしいものだ。