俺とトーマスさんの出発は、翌日の夜明け前だった。闇に紛れ、村の者たちの誰にも気づかれぬよう、俺たちは静かに出ていく。ドナート派の監視の目がどこにあるか分からない以上、これが最善の策だった。
玄関で見送ってくれたのは、マリアとジョージ、そして叔母さんだけだった。
「アレン、気をつけて。絶対に無茶はしないでね」
マリアは俺の目を真っ直ぐに見つめて言った。その瞳には、不安と信頼が入り混じっている。俺たちは言葉を交わさずとも、互いの覚悟を理解していた。
「父さん…」
ジョージは、まだ眠そうな目をこすりながらも、心配そうにトーマスさんの顔を見上げている。トーマスさんは、その頭を大きな手でそっと撫でた。
「大丈夫。ちょっとじいちゃんに会いに行くだけだよ。母さんとエミリーのこと、頼んだぞ」
「…うん」
叔母さんは何も言わず、ただ俺たちを強く抱きしめた。その震える腕から、複雑な思いが伝わってくる。
「…行ってくる」
トーマスさんが短く告げると、俺たちは車に乗り込み、闇に溶け込むようにして村を後にした。
トーマスさんは車を運転し、俺は窓の外を眺める。そうしてしばらく、無言の時間が続いた。
「…セルジオは、どんな人だったの?」
沈黙を破るように、俺は尋ねた。
「…狼のような男だ」
トーマスさんは、ぽつりと答えた。
「普段は静かで、物腰も柔らかい。だが、一度ファミリーの掟が破られれば、誰よりも厳しく、そして容赦がない。親父が『太陽』なら、セルジオ翁はファミリーを照らす『月』だった。決して表には立たないが、その影響力は絶対だった」
「その人が、本当に俺たちの味方になってくれるかな」
「分からん。あの人はファミリーの秩序を最も重んじる。俺は、その秩序を乱して逃げ出した裏切り者だ。話を聞いてくれるかどうかすら…」
トーマスさんは言葉を切り、きつく唇を結んだ。その表情に、俺は賭けの危うさを改めて実感する。これは、一筋の蜘蛛の糸にすぎないのかもしれない。
翌日の昼過ぎ、俺たちはヨークシンシティに到着した。
「アレン、気を抜くな。わかってるとは思うが、この街ではそこらのチンピラでさえマフィアにつながってる可能性がある」
トーマスさんの言葉に、俺は静かに頷いた。
俺たちはまず安宿に部屋を取り、トーマスさんはそこで古い知人に連絡を取り始めた。ファミリーを抜けたとはいえ、彼がこの街で生きてきた痕跡は完全には消えていない。
俺は部屋の窓から街を眺めながら、意識を研ぎ澄ませる。ルークとクレアの顔が脳裏に浮かんだ。必ず、この状況を打開する。
数時間後、トーマスさんは険しい顔で受話器を置いた。
「…分かったぞ。セルジオ翁の居場所だ。やはり第一線は退いて、街の郊外にある古い屋敷で隠居暮らしをしているらしい」
「警備は?」
「当然、厳重だ。相談役であったセルジオ翁には、直属の部下はいない。ドナート派含む他の派閥の連中も翁の動向には神経を尖らせている。迂闊に近づけば、蜂の巣にされるだろう」
情報は手に入ったが、同時に危険度も跳ね上がった。
「行くよ。今すぐに」
俺の言葉に、トーマスさんは一瞬ためらった後、覚悟を決めたように深く頷いた。
向かった郊外の屋敷は、高い石塀に囲まれ、まるで砦のようだった。重厚な鉄の門の前には、黒いスーツを着た屈強な男たちが二人、鋭い視線を光らせて立っている。
トーマスさんの顔が、緊張で硬くなっている。
俺たちは車を降り、門へと歩み寄った。
「何の用だ」
護衛の一人が、威圧するように低い声で言った。トーマスさんは臆することなく、真っ直ぐに男を見据える。
「セルジオ・ガンビーノ翁に、お目通りを願いたい。」
護衛の男は、眉をひそめた。見ず知らずの男からの、あまりに単刀直入な申し出。その顔には侮蔑と警戒が色濃く浮かんでいる。
「てめぇは何者だ。翁はてめぇみたいなのがおいそれと会えるようなお方じゃねぇんだよ」
「ヴォルペ・ファミリーのトーマスだ、と伝えてくれ」
トーマスさんは、静かだが揺るぎない声で告げた。
その名を聞いて、護衛の男はあからさまに鼻で笑った。
「トーマス? 聞いたことのない名前だな。ヴォルペ・ファミリーにそんな男はいない。ヴォルペの名を騙るなら、もう少しマシな嘘をつけ。失せろ、命があるうちにな」
もう一人の護衛も、嘲るような視線を向けている。二十年以上という歳月は、トーマスの存在をファミリーの末端から完全に消し去っていた。予想通りの反応だった。
だが、トーマスさんは一歩も引かなかった。
「お前たちが知らなくても無理はない。だが、その名前をセルジオ翁に伝えろ。判断するのは翁ご自身だ。それを怠って、後で翁から咎められても、俺は知らんぞ」
その言葉には、ただのハッタリではない、命を懸けた男の凄みが滲んでいた。護衛たちは一瞬、言葉に詰まる。確かに、万が一この男が本当に翁の旧知の人物だった場合、自分たちの独断で追い返したとなれば面倒なことになるかもしれない。
「…チッ。分かったよ。どうせ追い返されるだけだ。ここで待ってろ」
一人が吐き捨てるように言い、不審そうな顔を隠さないまま、門の内側へと消えていった。
長い時間が経ったように感じられた。やがて、門が内側から軋んだ音を立てて開く。先程の護衛が、先程とは打って変わって、どこか戸惑ったような表情で戻ってきた。
「…翁がお会いになるそうだ。こっちへ来い」
俺たちは無言で頷き、屋敷の中へと足を踏み入れた。
案内されたのは、壁一面に古書が並ぶ書斎だった。使い込まれた革張りのソファ、静かに燃える暖炉の炎が、部屋全体に厳かな雰囲気を漂わせている。
そして、暖炉の前の大きな椅子に、一人の老人が腰を下ろしていた。
白髪は綺麗に撫でつけられ、深く刻まれた顔の皺が、その長い年月を物語っている。痩せてはいるが、その眼光は老いてなお鋭く、まるで全てを見透かすかのようだ。狼のような男、というトーマスさんの言葉を、俺は肌で理解した。
これが…セルジオ・ガンビーノ。
「…座れ」
静かな声に促され、トーマスさんは緊張した面持ちでソファに腰を下ろす。俺も、その隣にちょこんと座った。
「トーマス。家出したあのときの面影も無いほど、変わったものだな」
セルジオは、トーマスさんの顔をじっと見つめながら言った。その声は静かだったが、部屋の空気を震わせるほどの重みがあった。
「どの面下げて戻って来た。ファミリーを捨てたお前が、今更何の用だ」
冷たい言葉。だが、トーマスさんは怯まなかった。
「ドナート派の連中が、俺の住む村を…家族を人質に取り、脅迫しています。目的は、親父が隠したとされる財産です」
「…知っている」
セルジオ翁は、静かに言った。
「お前たちがここに来る少し前まで、客人がいてな。顔に大きな傷のある、威勢のいい男だった。名を、マルコと言ったか」
トーマスさんの顔から血の気が引く。完全に先手を打たれていた。
「奴は『裏切り者のトーマスが財産を独り占めしようとしている。我々はファミリーのためにそれを回収する』と嘯いていったぞ。お前の話とは、ずいぶんと食い違うな」
「嘘です! 俺は財産の場所など知らない! 奴らは、跡目争いの功績欲しさに、無関係なカタギまで巻き込んでいるだけだ! セルジオさん、これがヴォルペ・ファミリーのやり方なんですか!?」
トーマスさんの悲痛な叫びが、書斎に響く。セルジオ翁は、その訴えを黙って聞いていた。やがて、燃え盛る暖炉に目をやり、静かに呟いた。
「…ドナートのやり方が目に余るのは事実だ。奴は力を過信し、ファミリーが長年かけて築き上げてきた街との均衡を壊しかねない。親父殿が最も嫌ったやり方だ」
その言葉に、トーマスさんの顔にわずかな希望が差す。だが、セルジオ翁はゆっくりと首を振った。
「だが、トーマス。お前はファミリーを捨てた男だ。そのお前に、今更ファミリーの誇りを口にする資格があるのか?」
冷たい言葉が、トーマスさんの希望を打ち砕く。セルジオ翁の視線が、トーマスさんから、その隣に座る俺へと移った。
「…その小僧は、お前の息子か?」
「…はい」
「ふん。にしては、妙に肝が据わっている。この俺を前にして、涙一つ見せんとはな。まるで、狩りを前にした獣の子のようだ」
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。この老人は、何かを感じ取っている。トーマスさんは、俺の体をかばうように前に出た。
「俺のことは、どうなっても構いません。ですが、家族と、村の者たちだけは…! 彼らは、この争いとは全く無関係です!」
セルジオ翁は、深く椅子に身を沈め、しばらく目を閉じた。長い、長い沈黙。やがて、ゆっくりと目を開けた彼の口から、予想外の言葉が紡がれた。
「…ドナートが焦っているのは、親父殿の容態だけが理由ではない」
「…どういうことです?」
「親父殿は、ただ死を待っているわけではないらしい。最後の力を振り絞り、ある遺言を準備しているという噂がある。その内容が、次期組長の座を左右すると言われている。ドナートは、その遺言が自分に不利なものになることを、何よりも恐れているのさ」
組長の遺言。俺たちの知らなかった、新たな情報。それが、この権力闘争の核心なのか。
「では、俺たちは…」
トーマスさんが声を絞り出すと、セルジオ翁は立ち上がった。
「俺はもう隠居した身だ。ファミリーの争いに、これ以上首を突っ込むつもりはない」
その言葉は、俺たちの最後の望みを断ち切るかのように冷ややかに響いた。だが、セルジオ翁は部屋を出ていこうとする俺たちに、背を向けたまま言った。
「…だが、覚えておけ。このファミリーには、ドナートのやり方を快く思わぬ古い狼たちが、まだ息を潜めている。奴らが牙を剥くには、ただ一つのものが必要だ。…大義名分、だ」
セルジオ翁は、そこで初めてこちらを振り返った。その目は、トーマスさんを真っ直ぐに見据えている。
「トーマス。お前がもし、本当にヴォルペの血を引く者としての覚悟を、その身をもって示すというのなら…あるいは、道は開けるやもしれんな」
それは、突き放しながらも、明確な道筋を示唆する言葉だった。セルジオ翁はそばに控えていた護衛に命じる。
「この者たちを、門まで無事に送り届けろ。誰にも、指一本触れさせるな」
それは事実上の庇護宣言だった。少なくとも、この屋敷の敷地を出るまでの安全は保証された。
俺とトーマスさんは、礼を言って書斎を後にした。
直接的な協力は得られなかった。だが、俺たちの手の中には、組長の遺言という新たな情報が握られていた。
屋敷を出て、ヨークシンの喧騒に戻った時、俺は隣を歩くトーマスさんの顔を見上げた。彼の顔には、絶望ではなく、困難な試練を前にした戦士の覚悟が浮かんでいた。
セルジオ翁は、トーマスさんにボールを投げ返したのだ。お前の覚悟を見せてみろ、と。