ヨークシンの安宿に戻った俺とトーマスさんの間には、重い沈黙が流れていた。窓の外では、世界有数の大都市が夜の輝きを放っているが、その光は俺たちのいる薄暗い部屋までは届かない。
俺は、セルジオ・ガンビーノの言葉を頭の中で何度も反芻していた。
「⋯どう思う、アレン」
先に沈黙を破ったのは、トーマスさんだった。その声は、ひどくかすれている。
「セルジオ翁は、俺たちに何をしろと言いたいんだ…? 大義名分⋯? 覚悟⋯?」
俺は腕を組み、ベッドの上で考えを巡らせていた。
「たぶん、そんなに難しい話じゃないよ」
俺は、自分の考えを整理しながら口を開いた。
「要は、プロパガンダだ。情報戦だよ」
「プロパガンダ⋯?」
聞き慣れない言葉に、トーマスさんが眉をひそめる。
「ドナート派は今、裏切り者のトーマスが財産を狙っている、我々はファミリーのためにそれを阻止する正義の味方だ、っていうストーリーをファミリー内に広めようとしてる。マルコがセルジオ翁のところに行ったのもたぶん、その布石だ」
俺は続けた。
「だから、俺たちはそのストーリーを上回る、もっと説得力のあるストーリーをぶつけなきゃいけない。それが大義名分だよ」
俺はベッドから降り、トーマスさんの前に立った。
「例えば⋯ヴォルペの掟を破り、無関係な村と家族を人質に取る非道なドナート派。その暴挙を止めるため、ファミリーを捨てたはずの組長の息子トーマスが、愛する者たちを守るために二十年の時を経て立ち上がった⋯みたいなね。どっちのストーリーが、ファミリーの古株たちの心を打つか。セルジオ翁は、そのことを言ってるんじゃないかな」
俺の言葉に、トーマスさんはハッとした顔をした。だが、その表情はすぐに苦々しいものに変わる。
「⋯馬鹿を言え。俺が、そんな英雄のような男に見えるか。俺はただ…家族に累が及ぶのを恐れて、二十年ぶりにこの街に戻ってきただけの、臆病者だ」
自嘲するように、トーマスさんは呟いた。
「それに、親父とは…組長とは、家を飛び出して以来、まともに話したこともない。そんな俺が、今更どの面下げて息子を名乗れって言うんだ⋯」
その瞳には、深い葛藤が映っていた。ファミリーへの嫌悪、父親への反発、そして、捨ててきた過去に今、向き合わなければならないという苦悩。
「でも、トーマスさんが組長の息子じゃなかったら、この話は始まらなかった」
俺は、静かに、だがはっきりと告げた。
「セルジオ翁が会ってくれたのも、ドナート派が執着するのも、トーマスさんが組長の息子だからだ。トーマスさんがどう思っていようと、組長の息子であることが、このゲームのたった一つのキーカードなんだよ」
俺の言葉は、トーマスさんの心の最も柔い部分を突き刺したようだった。トーマスさんは顔を覆い、深く、長く息を吐いた。
「⋯俺が家を出る時、セルジオ翁はこう言ったんだ。『お前の道を行け。だが、ファミリーから受けた恩は忘れるな』と⋯」
絞り出すような声で、トーマスさんは過去を語り始めた。
「俺は、その言葉の意味をずっと考えずに生きてきた。ファミリーを憎み、親父を憎み、ただひたすら過去から目を背けてきた。…だが、家庭を築き、守るべきものができた今なら、少しだけ分かる気がする。俺が今こうして生きていられるのは、紛れもなく、ヴォルペ・ファミリーという存在があったからだ」
トーマスさんは顔を上げた。その目には、迷いが消え、確かな光が宿っていた。それは、腹を括った男の目だった。
「セルジオ翁が俺に問うた『覚悟』⋯それは、この面倒な過去と、親父と、そしてヴォルペ・ファミリーそのものと⋯正面から向き合う覚悟だ」
彼は、固く拳を握りしめた。
「会いに行く。親父に、直接会って話をする」
その言葉に、俺は静かに頷いた。これ以上の答えはない。
「それが、最高の大義名分になるね」
俺は言った。
「死を目前にした組長の前に、二十年間行方不明だった裏切り者の息子が、命懸けで現れた。ファミリーの誰もが、その動向に注目する。ドナート派がでっち上げた嘘なんて、一瞬で吹き飛ぶほどのインパクトがある」
「ああ。それに、親父が本当に遺言を用意しているのなら⋯その内容に、俺が影響を与えられるかもしれない」
新たな、そして最も困難な目標が定まった。
「問題は、どうやって病床の組長の元までたどり着くか、だね」
俺が言うと、トーマスさんは頷いた。
「ヴォルペ・ファミリーの本拠地は、ヨークシン郊外の高級住宅街にある親父の屋敷だ。俺が育った家でもある。⋯親父もここにいるだろう」
トーマスさんは、壁に掛かったヨークシンの地図の一点を指差した。
「屋敷は今やドナート派の要塞だ。張り込みも聞き込みも、外部からの情報収集は不可能に近いだろう。頼れるのは⋯」
俺はトーマスさんの顔をまっすぐに見つめた。
「トーマスさんの記憶だけだね。子供の頃、あの屋敷で育ったんだろ? 子供だけが知っている穴があるんじゃないか? 大人たちが知らない、子供の悪戯で見つけたような抜け道が」
俺の言葉に、トーマスさんはハッとしたように目を見開いた。しばらく考え込んだ後、絞り出すように口を開く。
「…抜け道なら、一つだけ心当たりがある。俺がガキの頃、よく忍び込んだ古い食料庫の搬入路だ。庭の生け垣の奥にあって、地下のワインセラーに繋がってる。改築でとっくに無くなってる可能性もあるが⋯」
「そこから侵入できれば、警備の目を掻い潜って屋敷の中に入れるかもしれない」
俺は身を乗り出した。
「問題は、その搬入路が今も使えるか、そしてワインセラーから組長の部屋までどうやって行くかだ。組長が療養するなら、どの部屋を使いそうか、心当たりは?」
トーマスさんは目を閉じ、必死に記憶の糸をたぐり寄せるように言った。
「病気とはいえ、あの親父が大人しくベッドで寝てるなんて考えられない。⋯そういえば、親父は昔から、東棟の二階にある書斎を好んでいた。庭が一望できて、一番静かな部屋だ。きっとそこだろう。ワインセラーからは⋯厨房を抜けて、使用人用の階段を使えば、書斎の近くまで行けるはずだ。だが、それは二十年以上も前の話だ。内装も警備の配置も、全てが変わっているかもしれない」
「上等じゃないか」
俺は言った。
「不確かな記憶と、一か八かの賭け。それくらいは覚悟していたことだ」
俺はノートに、万年筆で屋敷の見取り図を描き始めた。トーマスさんの曖昧な記憶を、一つ一つ確かな線にしていくために。
「さあ、思い出してくれ、トーマスさん。その搬入路の扉はどっち開きだった? 厨房の床は石畳か、板張りか? どんな些細なことでもいい。俺たちの命綱になる」
トーマスさんの目にも、覚悟を決めた光が戻っていた。二人は床に描かれた不確かな地図を睨みつけながら、闇の中への侵入計画を練り始めた。
「ワインセラーから厨房へ抜ける扉は、確か分厚い樫の木でできていた。鍵はいつも掛かっていなかったはずだ。食材を運ぶ使用人が頻繁に出入りしていたからな」
トーマスさんは、ノートの線に指を走らせながら言う。
「問題は厨房からだ。そこから先の廊下は、ドナートの息がかかった連中がうろついている可能性が高い。夜間でも見張りが一人か二人はいるはずだ」
「見張りの巡回ルートは?」
俺の問いに、トーマスさんは首を横に振った。
「そこまでは分からない。だが、親父の書斎は東棟の二階の突き当たり。そこへ行くには、屋敷の中央にある大階段を避けて、西側の使用人用の階段を昇り、長い廊下を渡るしかない」
「一番、人目につかないルートというわけだ」
「ああ。だが、その使用人用の階段は、俺が子供の頃から軋む音がひどかった。一人分の体重でも、屋敷中に響き渡るんじゃないかというくらいにな」
トーマスさんは言葉を切り、苦々しい顔をした。
「東棟の廊下には、歴代の組長の肖像画が飾られている。親父の趣味だ。その前を、裏切り者の俺が通らなきゃならんとはな⋯皮肉なもんだ」
俺は万年筆を置き、顔を上げた。
「大丈夫だよ。トーマスさんは、ただの臆病者じゃない。過去と向き合う覚悟を決めた男だ。堂々と、その前を通ればいい」
俺の言葉に、トーマスさんはふっと口元を緩めた。
「そうだな。⋯よし、作戦は決まった。決行は今夜だ。夜が更け、警備が手薄になるであろう深夜2時。それまでに必要なものを揃える」
その数時間後。俺たちは黒い服に着替え、最低限の道具――懐中電灯、オイル差し、そして万一のためのナイフを懐に忍ばせ、安宿を後にした。タクシーで屋敷の近くまで行き、そこからは闇に紛れて歩く。高級住宅街の静寂が、やけに心臓の音を大きくさせた。
やがて、巨大な石塀に囲まれたヴォルペの屋敷が、闇の中にその威容を現した。ところどころに灯りがついているが、ほとんどは沈黙に包まれている。
「⋯変わらないな、ここは」
トーマスさんが、塀の向こうの屋敷を見上げながら呟いた。その声には、憎しみと郷愁が入り混じった複雑な響きがあった。
俺たちは塀に沿って進み、トーマスさんの記憶にある生け垣の場所を探す。月明かりだけが頼りだ。
「⋯ここだ」
トーマスさんが足を止めた。鬱蒼と茂る生け垣。その一部が、不自然に薄くなっている。俺たちは身をかがめ、音を立てないように枝をかき分けた。生け垣の奥には、苔むした地面が広がり、その中央に、古びた木製の観音開きの扉が半分埋もれるようにして存在していた。地下へと続く搬入路の入り口だ。
「⋯あった」
トーマスさんの声が、安堵に震えている。二十年の時を超えて、記憶の道は確かに存在していた。
俺は扉に近づき、錆びついた鉄の取っ手に手をかけた。オイルを数滴垂らし、ゆっくりと、慎重に力を込める。ギィ⋯と、耳障りな金属音が闇に響き、俺たちは思わず身を固くした。だが、遠くで番犬が一度吠えただけで、それ以上の反応はない。
再び力を込めると、扉は重々しく、だが確実に開いていく。黴と湿った土の匂いが、ひやりとした空気と共に吹き上げてきた。
俺は懐中電灯をつけ、暗い階段の下を照らす。光の輪が、どこまでも続くかのような石の階段を浮かび上がらせた。
「行こう」
トーマスさんが短く言い、俺は頷いた。
トーマスさんが先に立ち、俺が続く。一歩、また一歩と、ヴォルペ・ファミリーの心臓部へ、そしてトーマスさん自身の過去へと、俺たちは足を踏み入れていった。