マフィアの襲撃から命からがら逃げ出した俺達は、母さんが運転する車でひたすら大通りを走り続けていた。
「…うーん…ここは…キャサリン!キャサリンは無事かっ!」
意識が朦朧としていた父さんが目を覚ました。よかった…父さんは無事みたいだ。
「あなた、起きたのね!よかった…安心して、私は無事よ。子どもたちも…」
「…本当に良かった…しかし、あそこからどうやって…?」
「アレンが助けてくれたの。マフィアたちの隙を突いて、全員倒しちゃったわ」
「なんだと!?アレン、いったいどうやって!?お前に怪我はないのか!?」
「僕は大丈夫だよ。火事場の馬鹿力ってやつだよ。僕も母さんを助けようと必死だった」
「…そうか。アレン、ほんとうに良くやった。お前も怖かったろうに、良く家族を守ってくれた!」
…確かに俺は家族の命は救ったかも知れない…でも、心は違う。父さんも母さんも、今までより10歳は年を取ったように見えるほど疲弊していた。
ルークとクレアは、まだ2歳だから何も分からなかっただろうが、知らない大人に囲まれ、大声で怒鳴られて怖くないはずがない。2人とも目を泣き腫らして、疲れ切って寝てしまった。
そして誰より深い傷を負ったのはマリアだ。襲撃以降、言葉を発することもできずにただ震えている。11歳の少女が、目の前で父親が暴行を受け、母親が殺されそうになったところを見たのだ。その心の傷は簡単に癒えるものではない。もしかしたら、一生…
「…すまない。お前たちを危険にさらしてしまったのは、私のせいだ。私が軽率にマフィアどもを排斥しようとしたから…」
「そんなことないわ。あなたは正義感で行動したんだもの。悪いのはマフィアよ。そんなことはみんな分かっているわ」
「…いまさら私が方針を翻しても、マフィアの怒りが静まることはないだろう。反マフィア派閥で結託するしかない。我が社だけでなく、この街のすべての商売人で結託しなければ…」
「そんな話は後にして。今はとにかく家に帰りましょう」
「そうだな。ちょっと停めてくれ。私が運転しよう」
「だめよ!あなたはじっとしていて。運転は私がするわ。あなたは道を教えてちょうだい」
「…そうだな。分かった」
そうして俺達は家に帰り着いた。
あれから2ヶ月が経った。この間にいろいろと大きな変化があった。
父さんは会社にあの事件のことを伝え、マフィアとの関わりを断つべきだと訴え出た。自分や自分の家族もマフィアに襲撃されるのを恐れて反対する者も多かったそうだが、俺たちと家族ぐるみの付き合いがある現社長は事態を重く見て、モレッティ・ファミリーとの繋がりを断つことを宣言した。
また、マフィア嫌いで知られる街の有力者たちを集め、マフィア追放の会が立ち上がったが、報復を恐れてか、未だ参加者は少ない。中でも意見が割れているようで、父さんは会議のたびに疲れ切った顔で帰ってきた。
それに伴って幹部級の社員の家にはボディガードが付くようになった。俺たちの家には常に3人以上、家を出るときも必ず1人は警護につくようになった。
幸いにもマリアは少しずつ元気を取り戻し、笑顔を見せることも増えたが、未だにあの日のことが夢に出るらしく、母さんと一緒に寝るようになった。父さん以外の大人の男が怖くなってしまったようで、家にいる間はボディガードを避けて自分の部屋に閉じこもるようになった。
サッカーをしているときだけはすべてを忘れて楽しめるようだったが、車にもトラウマを植え付けられたようで、遠出はできなくなった。クラブチームは辞めるしかなかった。
…俺がもっと強かったら、マリアはこんなことにはならなかった。あの男に正面から戦って勝てるくらいに強かったら…そんな後悔が俺の胸の中を渦巻く。
あのときみんなの命が助かったのだって、たまたま念能力者が1人で、最初に狙われたのが俺じゃなくて、そいつが油断していたからだ。一つでも要素が欠けていたら、俺達は全員死んでいた。
あの日以降、俺は必死になって念能力のトレーニングに励んだが、まるで上達を感じない。あの時に俺達を襲撃してきたやつのオーラ量は、明らかに俺と次元が違っていた。このペースで鍛えていても、俺があの域にたどり着くのはいつになるか分からない。2年、3年…あるいは10年以上かかるかも知れない。俺の焦りは日に日に大きくなっていった。
両親は、そんな俺を見て心配してくれているが…今、念能力を明かすことはできない。念能力を明かしたら、何でそんなことを知っているのかという話になるだろう。そうなれば、俺は転生者であることを隠し続けることはできなくなる。…今、家族にショックを与えるようなことをするわけにはいかない。
そんな俺の焦りをよそに、父さんが立ち上げた「マフィア追放の会」の活動は、少しずつ、しかし着実に街に影響を与え始めていた。最初は冷ややかな目で見ていた他の企業経営者や商店主たちも、父さんの粘り強い説得と、実際にモレッティ・ファミリーとの繋がりを断ったモーガン銀行の経営ぶりに、次第に賛同の声を上げるようになっていった。
新聞の一面にも、「ヨークシンの良心、立ち上がる市民たち」といった見出しで会の活動が取り上げられ、父さんの写真も小さくだが掲載された。それは誇らしいことであるはずなのに、俺の胸には鉛のような重い不安がのしかかった。モレッティ・ファミリーがこれを黙って見ているはずがない。
案の定、会の活動が活発になるにつれて、モレッティ・ファミリーは陰湿な報復を始めた。最初は無言電話や脅迫状程度だったものが、やがて会のメンバーの店が放火されたり、家族が尾行されたりといった事件が起こり始める。ボディガードが付いているとはいえ、彼らも四六時中、会員全員の家族を守り切れるわけではない。父さんの顔からは笑顔が消え、母さんの心労は日に日に深まっているように見えた。
「大丈夫よ、父さんは正しいことをしているんだから。きっと、神様が見ていてくださるわ」
母さんはそう言ってマリアの頭を撫でるが、その声は微かに震えていた。
俺の念の修行は、相変わらずだった。オーラ総量は少しずつ増えている実感はあるものの、あの時の男のオーラには程遠い。凝でオーラを視認する訓練を繰り返しても、見えるのは未熟なオーラだけ。本物の、殺意に満ちた強者のオーラを前に、今の俺がどれだけ通用するのか…考えるだけで背筋が凍る思いだった。
そして、決定的な事件が起こった。「マフィア追放の会」の主要メンバーの一人で、父さんの古くからの友人でもあるレストラン経営者、トーマスが、白昼堂々、家族で買い物に出かけていたところを何者かに襲撃され、一家もろとも命を落としたのだ。そのニュースは、ヨークシンシティを震撼させ、会に参加していた人々の間に恐怖と動揺を広げた。
「…許せない…絶対に許さんぞ、モレッティめ…!」
父さんは、葬式から帰ってくると、絞り出すような声でそう呟いた。その瞳には、怒りと共に、深い悲しみと無力感が滲んでいた。
マリアは、サッカー友達だったトーマスの息子、ジョンの訃報を聞いてから、ますます部屋に閉じこもりがちになった。時折、リビングに出てきても、小さな物音にも肩を震わせ、俺や母さんのそばから離れようとしなかった。
トーマス一家の事件は、モレッティ・ファミリーの狂気をヨークシンシティ中に知らしめた。父さんの元には、他のマフィア組織からも「モレッティはやりすぎだ」「我々のビジネスにも影響が出ている」という、場合によっては共闘を示唆するような連絡も入るようになったらしい。
「…いつ大規模な抗争が起きてもおかしくない」
父さんの顔には、かつてないほどの緊張と疲労が刻まれていた。
そして、その「いつか」は、ある月のない暗い夜、唐突にやってきた。
夕食を終え、俺たちがリビングで静かに過ごしていた時だった。遠くで、最初の爆発音が響いた。それを皮切りに、まるで示し合わせたかのように、街の至る所で次々と爆発音と銃声が連鎖し始めた。テレビのニュース速報が、ヨークシンシティ全域で複数のマフィア組織が同時多発的に戦闘を開始したと、緊迫した声で伝えている。モレッティ・ファミリーの暴走が、ついに街全体を巻き込む全面戦争の引き金を引いたのだ。
「来たか…!」
父さんが窓の外を見ながら、低い声で呟いた。ボディガードたちが慌ただしく家の内外を固め始める。
「キャサリン!子供達を地下室へ!」
「分かったわ。さあ行くわよ。ルーク、クレア、ママとおててをつなぎましょう」
「まま、ちゃーりーは?」
「そうね、チャーリーも連れていきましょう」
そうして、俺たちが地下室に入ろうとしたその時…
ゴゴゴゴゴゴッ!!!
凄まじい轟音と共に、天井が、まるで巨大な手に握り潰されるかのように崩れ落ちてきた。それは、特定の誰かが俺たちを狙った攻撃ではなかった。街中で繰り広げられる無差別な念能力の応酬。その流れ弾、あるいは広範囲攻撃の余波が、偶然にも俺たちの家を直撃したのだ。
土煙と粉塵が舞い上がり、視界が奪われる。耳鳴りが止まない。俺は、咄嗟に纏で身を固めた。
「危ない!」
母さんがルークとクレアに覆いかぶさった。そこに、重いコンクリートの塊が容赦なく降り注ぐ。
ゴン!
頭に大きな衝撃を感じ、俺の意識は途絶えた。
…どれくらい気を失っていただろうか。咳き込みながら目を覚ますと、周囲は瓦礫の山だった。微かに差し込む月明かりと、遠くで燃え盛る炎の赤い光だけが、この地獄のような光景を照らし出している。
「父さん…!母さん…!姉さん…!返事をしてくれ…!」
俺は声を張り上げた。瓦礫をかき分け、家族の姿を探す。
「びえええええん!」
「うぇええええん!」
…どこかからルークとクレアの泣く声が聞こえてきた。どこだ…まさか、あの下か!?
俺は大きなコンクリート片を持ち上げ、脇に退かす。その下では、母さんが弟たちを庇うような体勢で倒れていた。
「母さん…そんな、母さん…何で…」
母さんは明らかに事切れていた。ルークとクレアを圧迫しないようにうずくまった姿勢で、頭からはおびただしい量の血を流していた。ルークとクレアは、母さんの腕に抱きついて泣きじゃくっている。
俺は、母さんの冷たくなった手を握りしめ、言葉を失った。温かかったはずの母の手は、今はもう何の温もりも伝えてこない。嘘だ…こんなの…嘘だろ…!
「父さん…!マリア…!」
悲鳴に近い声を上げながら、俺は再び瓦礫の山をかき分け始めた。手が血にまみれるのも構わずに、必死に探す。
…やがて、父さんとマリアの姿を見つけた。父さんは、巨大なコンクリート片に潰されていた。背骨がおかしな方向へ曲がり、息絶えているのは明白だった。そのすぐ近くには、梁の下敷きになっているマリアが倒れていた。
「うわぁああああぁぁぁ!!」
膝から崩れ落ちる。なんで…なんでこんなことに…何で…
俺は結局何もできない…誰も救えないのかよ…
「ゲホッ」
マリアの苦しそうな声が聞こえた。まだ生きてるのか…!?
なんとか梁をどけてマリアに駆け寄る。
「姉さん!…姉さん!生きてるのか!?しっかりしろ!返事をしてくれ…!」
「ア、レン…?」
「そうだよ、アレンだよ!体は動かせるか!?今助けるからな!」
俺は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で叫んだ。
だが、マリアは力なく首を横に振った。
「脚…動かない。感覚がないの…」
マリアの言葉は、俺の心に更なる絶望の杭を打ち込んだ。下半身不随…それは、活発でサッカーが大好きだった姉にとって、死よりも辛い宣告かもしれない。流れ落ちる血の量からしても、危険な状態であることは明らかだった。
「そんな…嘘だろ…姉さん…」
俺は、マリアの手を握りしめることしかできなかった。
「…パパ…ママは…?」
マリアが、か細い声で尋ねる。俺は、言葉に詰まった。真実を告げるべきか、それとも…
だが、マリアは俺の表情から全てを察したのだろう。
「…そう…やっぱり…」
その目から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。
俺は、何も言えなかった。ただ、マリアの手を握りしめ、ルークとクレアの泣き声が響く、この地獄のような瓦礫の中で、途方もない無力感に打ちのめされていた。
なぜだ…?なぜ、俺の家族がこんな目に遭わなければならないんだ…?俺たちは、何か悪いことをしたのか?誰かを傷つけたのか?違う。俺たちは、ただ普通に、ささやかな幸せを願って生きていただけだ。
それなのに、街中で繰り広げられるマフィアたちの、そしておそらくはそれを止めようとした者たちの、念能力という名の無差別な暴力の「余波」が、いとも簡単に俺たちの日常を、家族の命を、未来を奪い去った。
特定の誰かが俺たちを狙ったわけじゃない。ただ、運が悪かっただけだ、とでも言うのか?こんな理不尽が、許されていいのか?
もっと圧倒的な力を持っていれば…いや、違う。たとえ俺がどれだけ強かったとしても、この街全体を戦場に変えてしまうような、こんな無差別で広範囲な力の奔流の前では、一個人の力など、あまりにも矮小で、無力だ。俺一人が強くなったところで、この世界の根本的な問題は何一つ解決しない。
問題は、モレッティ・ファミリーという特定の悪党だけじゃない。この、念能力という、あまりにも強大で、あまりにも危険な力が、何の規制も受けずに、一部の人間の手によって好き勝手に使われている、この世界の仕組みそのものが、狂っているんだ。
マフィアがそれを使えば、街は破壊され、一般市民が死ぬ。それを止めようとする者が、同じように力を行使すれば、その過程でまた新たな犠牲者が出る。結局、力を持たない者は、力を持つ者たちの気まぐれや戦いの巻き添えで、虫けらのように踏みにじられるだけなのか…!
俺は、血と瓦礫に埋もれた両親の亡骸と、意識が朦朧とし始めている姉、そして泣き続ける幼い弟妹を見渡した。
空は、遠くの戦闘の光で、不気味なほど明るく照らされている。その光景が、まるでこの世界の歪み、その不条理さを、俺の目に焼き付けようとしているかのようだった。
怒りが、悲しみが、絶望が、そして、名状しがたい虚無感が、俺の心を支配した。だが、その暗い感情の渦の底で、冷たく、硬く、そして決して折れることのない何かが、確かな形を取り始めていた。
この理不尽を、俺は絶対に許さない。力を持つ者が、持たざる者を蹂躙するこの世界を、俺は変える。誰かが変えてくれるのを待つのではない。俺自身の手で。
「アレン…」
マリアが、再びか細い声で俺を呼んだ。
「…ルークと…クレアを…お願いね…」
その言葉を最後に、マリアはゆっくりと目を閉じた。
「姉さんっ…!」
…よかった。呼吸はまだある。
俺は、マリアの言葉を胸に刻み込んだ。そうだ、俺にはまだ、守らなければならない存在がいる。
一夜にして、俺の日常は、全てが灰燼に帰した。そして、俺の心には、もはや個人的な復讐心だけではない、この世界そのものへの怒りと、それを変革するという揺るぎない決意が、深く刻み込まれた。
俺は、ルークとクレアを抱き寄せた。
「大丈夫だ…お兄ちゃんが、必ず守ってやるから…」
その言葉は、幼い弟妹に向けたものであると同時に、俺自身への誓いでもあった。