俺達がホープウェルに引っ越してから、3週間が経った。大都会であるヨークシンで生まれ育った俺達は、初めこそ自然と共生するような田舎の生活に戸惑ったが、すぐにその牧歌的な暮らしに心を落ち着けるようになった。
朝は鳥のさえずりや牛の鳴き声で目が覚める。都会の喧騒とはまるで違う、清々しい目覚めだ。朝食は、トーマスさんが搾ったばかりの温かい牛乳と、サラ叔母さんが焼いたふかふかのパン。シンプルだが、体に染み渡るような美味しさだ。
ジョージとエミリーも食卓を囲み、その明るい笑い声が部屋に響く。ルークとクレアは、エミリーとジョージの無邪気さに、あっという間に打ち解けた。今では朝食後にはすぐに二人の後を追いかけるようになった。その元気な姿を見るたびに、俺の心も少し軽くなるのを感じる。
マリアも、少しずつだが元気を取り戻しているように見えた。車椅子での生活にはまだ慣れないようで、一人で移動しようとして手こずっている姿を見ると胸が痛む。表面上は落ち着きを取り戻しつつあったが、時折見せる憂鬱な表情や、一人になった時にそっと足を撫でる仕草に、拭いきれない心の傷と現実の厳しさが滲み出ていた。
それでも、叔母さんが甲斐甲斐しく身の回りの世話をしてくれるおかげで、以前よりずっと笑顔を見せることが増えたのは間違いない。俺も、時間がある時には車椅子を押して庭や村の中を一緒に散歩する。青い空と緑の畑、穏やかな村の人々。ヨークシンでの悪夢とはかけ離れたこの景色が、マリアの心の傷を少しでも癒やしてくれればと願う。
俺は、日中はトーマスさんの農作業を手伝う。牛舎の掃除、乳搾り、畑仕事。前世も今世も都会育ちの俺にとっては、全てが初めての経験で、最初はなかなか難しかったが、トーマスさんは根気強く教えてくれた。土に触れ、動物と触れ合う時間は心地良かった。体を動かすことで、ヨークシンで受けた衝撃と、心に溜め込んでいた悲しみや怒りが、汗とともに体から抜けていくのを感じた。
今も、トーマスさんの指示のもと、牛の餌となる干し草の俵を牛舎に運び入れている。
「しかし、アレンは都会の子なのに、力持ちだなぁ」
トーマスさんが、俺が軽々と俵を持ち上げたのを見て感心したように言った。俺は、トーマスさんの仕事を手伝うときには、念で少しだけ身体を強化していた。念で身体強化しながら体に負荷をかけるのは、肉体にもオーラにもよく効くいい鍛錬となっていた。
「もしかしたら、トーマスさんより強いかもね」
俺はそう言ってごまかした。
俺は、ヨークシンにいた時から家族には念能力を隠していたが、最近は本当に隠し続けるのが正解なのかと思い始めた。
念能力の存在は、一般には知られていない。ハンターが不思議な力を使うことを知っている者もいるが、選ばれしものだけが持つ力なのだろうと勝手に納得していることが多いだろう。
無知は危険だ。念能力者は、非能力者では絶対にかなわないほどの力を持っているのに、非能力者は念応力者の存在を知らないし、見分けるすべも持たないのだ。念能力の正しい知識を持っているだけで防げる危険もあるかもしれない。それに、念能力者である俺が指導したら、俺より早く念を覚えられるかもしれない。
しかし、俺はなかなか踏み切れなかった。念能力を知るものが増えたら、秘密が漏れる可能性は急激に高まる。噂がどこかのマフィアにでも届いてしまったら…そのせいで俺の家族が傷つけられたら、俺は悔やんでも悔やみきれない。
そんな悩みを抱えながらも、俺達はホープウェル村での生活を続けていた。
そんなある日の午後。ジョージとエミリーは村の友達と遊びに出かけ、トーマスさんと叔母さんは畑に出ていた。ルークとクレアは寝室で昼寝しているので、居間には俺とマリアだけが残った。
マリアは、窓辺で車椅子に座り、外を走り回っているジョージとエミリーの姿を目で追っていた。どこか寂しげな雰囲気が漂っている。
「姉さん、どうした?元気ないな」
俺は、マリアの傍らにしゃがみ込んだ。マリアは、何も言わずにただ首を横に振った。
「何か嫌なことでもあったか?」
俺が問いかけると、マリアは俯き、小さな声で呟いた。
「…ううん…なんでもない…」
その声は、微かに震えていた。俺は、マリアの視線が、窓の外で動き回る二人の姿から、その足元へと移ったのを見た。
「…私…なんにも、できない…」
絞り出すような言葉だった。
「そんなことないだろ。マリアはルークとクレアの面倒を見てくれてるじゃないか」
「でも…アレンみたいに、力仕事もできない…叔母さんみたいに、家のことも…何も…」
マリアの瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。俺は、その涙を見て胸が締め付けられた。
「…私、ほんとうは…アレンみたいに、トーマスさんの手伝いしたい。畑仕事もしたい…」
そして、嗚咽混じりに、最も辛かったであろう思いを口にした。
「…また…サッカー…したい…」
あの事件によって、大好きだったサッカーはマリアから奪われた。マリアの顔は、悲しみと無力感がないまぜになった表情で歪んでいた。
「どうして…どうして私だけ…」
マリアの問いは、あの夜、俺自身世界に問いかけたものと同じだった。なぜ、何の罪もないマリアが、こんな目に遭わなければならないのか。俺は、マリアの手をそっと握った。冷たく、力のない手だった。
「姉さん…」
言葉が見つからなかった。どんな慰めの言葉も、今のマリアの苦しみの前には無力に思えた。その時、俺の頭の中に、一つの可能性が閃いた。…いや、今閃いたという訳ではない。不確実だし、時間もかかるから、徒に希望を持たせたくなくて言わなかった選択肢だ。
念能力…念能力があれば、マリアの足を治せるかもしれない。原作には、念能力で体を治癒させる描写は少なかったが、念能力は未知数だ。もしかしたら…
俺が治療できないとしても、マリアが念能力を身に着けたら、また歩けるようになるかもしれない。希望とも呼べないほどにか細い光ではあるが…
マリアは、あの夜以来、自信を無くしてしまっていた。小さな物音にさえ怯えることもある。もし、自分自身で身を守る術を身につけることができれば、少しは自信を取り戻せるのではないか。
危険が伴うのは間違いない。念能力を知ることは、危険な世界に足を踏み入れるということだ。特に、マリアは心に深い傷を負っている。念能力の訓練は精神状態に大きく左右される。念能力が心の負担になることもあるかもしれない。
それでも…マリアのあの悲痛な言葉、無力感に打ちひしがれる姿を目の当たりにして、俺は決めた。このままでは、癒えない傷を抱えたまま、生きる希望を失ってしまうかもしれない。
危険だとしても、希望の光を見せてやりたい。俺は、マリアの涙で濡れた顔を見つめた。そして、覚悟を決めて語りかけた。
「姉さん…俺の力が、普通より強いのは知っているよね?それは、俺が念能力っていう特殊な能力を持っているからなんだ」
マリアは、俺が何を言っているのかわからないという様子で、涙に濡れた瞳で俺を見た。
「アレン…どうしたの?急に何を…」
マリアの声は震えていた。その瞳には、戸惑いと疑念が混じっている。当たり前だ。いきなりこんな話を信じられるはずがない。俺は、マリアの手を握ったまま、さらに言葉を続けた。
「念能力は、ただ力を強くするだけのものじゃない。いろんな使い道がある。例えば⋯」
俺は、テーブルの上の水が入ったコップに、窓から風に運び入れられたらしき葉っぱを浮かべ、それに向かって練を使った。葉っぱは、勢い良く回り始めた。
「⋯こんなふうに、触れてもいないものを動かすことだってできる」
マリアは回る葉っぱを見て驚愕の表情を見せた。
「そして⋯」
ずっと躊躇してきた、最も重要なことを言う。
「…俺にはまだどうしたらいいかわからないけど、もしかしたら…姉さんの足を治すことも、できるかもしれない」
その言葉を聞いた瞬間、マリアに激しい動揺が走った。呼吸が乱れ始め、体が小さく震える。
「なに⋯言ってるの⋯アレン⋯」
掠れた声で、マリアは呟いた。その表情は、信じたいという切実な願いと、あまりに現実離れした話への拒否反応がないまぜになっていた。
「嘘じゃない。俺が姉さんにこんな嘘をつくはずがない。⋯この力は、訓練すれば、誰でも使えるようになる。姉さんでも使えるはずだ」
「⋯ほんとう、なの⋯?私、また歩けるようになるの⋯?」
その瞳は、希望に満ちていた。
「⋯俺には、確実だって断言はできない。ごめん。でも、可能性はゼロじゃない、と思う。念能力には、俺も知らない色々な使い方があるみたいだから…」
俺は正直に答えた。それでも、マリアの瞳の光は消えなかった。
「また⋯歩ける⋯」
マリアは、その言葉を繰り返し呟いた。そして、両手で自分の足を抱きしめるようにしながら、涙を流し続けた。
しばらくの間、マリアの嗚咽の音だけが、部屋に響いていた。俺は、何も言わず、ただマリアの傍らに座り、その背中を優しく撫で続けた。
やがて、マリアは顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で俺を見た。その瞳には、困難に立ち向かおうとする強い意志が宿っていた。
「アレン⋯その力⋯私に教えて⋯!」
力強く、決意に満ちた声だった。
「⋯念能力は、一朝一夕に身につくものじゃない。俺がずっと瞑想してたのは知ってるだろ?それに、念を身につけたからといって、歩けるようになる保証はない。それでも、いいの?」
「⋯簡単だとは思ってないよ。でも⋯少しでも可能性があるなら⋯私はやりたい⋯!」
そして、深く息を吸い込み、自分自身に言い聞かせるように言った。
「⋯また、歩きたい⋯走りたい⋯サッカー⋯したい⋯!」
「⋯分かった。俺が、念能力を教える。長い修業になるだろうけど、俺が絶対に修得させてみせる」
俺は、マリアの手を握っていった。
「ありがとう、アレン⋯!」
マリアが、俺の手を握り返して言った。そして、小さな笑顔を浮かべた。それは、ヨークシンを離れてから初めて見た、心からの笑顔だった。
ようやく教師要素が出てきました⋯
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