”ああ、お疲れ”
”ごめんね、大したもてなしも出来なくて”
”え、もう帰る?……”
”うーん、あんまりオススメしないけど……ほら、深夜に一人歩きってのは危ないし”
”もし本当に帰るなら。「〇〇通りの裏路地」には絶対に近づかないようにね”
”ん?ああ──出るんだよ。人知れず死んだ”
”「猫」の幽霊が──”
「……そんなの、居る訳ないし」
「……別に、深夜の街を歩くなんて、今更。先生に心配されるようなことじゃ無いから」
「先生こそ、あんまり根を詰め過ぎない方が良いんじゃないの?」
そう言って、先生の言を退ける。
”あ、ちょっと、ミサキ──”
引き留めるような先生の言葉を遠ざける様にシャーレを出た。
夜風が、染みる様に涼しかった。
みんなの所への帰還ルートを脳裏に浮かべる。
今のタイミング、時期、移動場所。効率的に戻るのであれば。
「こっちの道が最短なんだけど……」
先ほどの先生の忠告が少しだけ思考の隅を掠めた。けれど、別に。そんなの気にするような性格はしていない。
そもそも”幽霊”に怯えるのであれば聖徒会の行使なんて出来てないんだから。
ほんの気まぐれでシャーレに来ただけで、本来なら就寝している時間。正直、結構眠気が回っても来ていた。
本当に肉体の枷なんて不便。こんなの無くなってしまえば。
──ああ。だから私は少し見てみたかったのかもしれない。そんな思いがあったのは、今思い返せば否定できない。
そんな思いもあったのか、思考を占めたのは「先生の冗談」、という考え。
そう自分に言い聞かせて、進む進路を定めた。
───この道を通るんじゃなかった。
素直にそう思ったのは、全てが終わってからの話だった。
路地裏、先生の言う「〇〇通りの路地裏」に一歩足を踏み入れた。
そのままあたりを見回しながら歩を進める。どこを見回しても、別に幽霊どころか猫の影すら見当たらない。
ほら、やっぱり先生の冗談だった。
そう思いながら、時刻を見るために端末を付ける。現在時刻が「1:59」。モモトークには未読が数件。確認がてら端末を操作している最中、時刻が。2:00を回る。
瞬間。
夥しい程の視線が私に突き刺さる。
「……ッ!?」
慌てて周囲を見渡すけど、先程まで明るい画面を見ていたせいか暗順応が全く機能してなくて何も見えない。見えないのに、見えないからこそ、強く強く視線を感じる。
廃ビルの屋上から。廃屋の弊から。電信柱の陰から。草むらから。
その他ありとあらゆる場所という場所から全方位360度、その肉に「嚙みついて食い散らかしてやる」という、強力な意思を伝える視線がもはや数えきれない程。
思わずよろめいて後ずさり。何かにぶつかった。無機物ではない、確かに生物のような柔らかさを感じるのに。冷たい。そう、体温が無い。
そして私の背後から耳元へと生臭い吐息と、声が。普段の生活では耳にすることはない、獣の怨念とでも言うべき鳴き声が耳朶を震わせる。
まずい。このままこの場に留まるのは最悪の選択だ。私の直感がそう告げる。
両足に渾身の力を込めて私は、シャーレへの道を全力で駆け抜けた。
久しく出していない本気の走り。作戦行動中とは違う、体力の後先を全く考えていない「逃げ」。
その必死さが功を奏したのか、気づけば路地裏を抜けてシャーレの建物前まで戻ってこれたようだった。エンジェル24の光が明るく、周辺を照らしている。
ようやく、抜け出せた……?
ぜえはあといまだ乱れる息を強引に整えようとして、マスクが汗で口元に張り付いてるのに気づいた。手前に引っ張って強引にむしり取る。汗でぐしゃぐしゃになってもう付けられない。
最早先生が冗談を言っていた、なんていう考えは頭のどこを探しても残っていない。それ程までに先ほどの体験は心底恐ろしかった。
あれがなんなのか、私は一体何に遭ったのか、先生なら知ってる筈。それを確かめないと怖くて怖くて眠れそうにない。無意識の内にもそう考えていたからアジトではなくシャーレに逃げてきたのだろう。
「……先生に会う前に、代わりのマスク買おう」
そう思いエンジェル24の扉をくぐろうと目を向けて。整っていない筈の息が止まる。
扉の奥。商品棚の陰。コーヒーマシンの隙間。時計と壁の間。「その他ありとあらゆる場所という場所から」。
獣の──猫の。眼が。私を視ている。
「ひっ……」
同時に路地裏での光景がフラッシュバックする。思わず店員を見やっても、至って暇そうにあくびをしながら手元で何か弄っているだけ。
ダメだ。あの”猫”は私にしか視えていないし、私しか視ていない。
踵を返し、シャーレへと足を向ける。
音で来店に気付いたのか、店内に入ろうとしながらいきなり走り去った私の姿を見て、金髪の店員が首を傾げているような気がした。
そして私はシャーレの執務室へ向かう為、その場を後にした。
エンジェル24を後にしてシャーレの執務室に向かう途中、階段を使おうとして気づく。……足が上がらない。
ただ走っただけでなく「逃げた」、その行動は否応なく私の体力を削っていた。
普段なら何の気なしに階段を使ってたどり着ける執務室への階層が、今はただひたすらに遠い。
ちら、とエレベーターに目を向ける。このままこの場に留まる選択肢は無い。いつまた”眼”が私を捕らえるか分かったものではないのだから。
今すべきは一刻も早く先生の元へと向かう事。ゆっくりゆっくり階段を上って行って、その間にまた視られるかもしれない。それは、怖い。
それにこの時間ならだれもエレベーターを使っていない。なら途中で止まることも無い。
エレベーターを呼んで。扉を開き。乗る。ボタンを押して。運ばれて。扉を開いて。降りる。
それなら、乗っている時間は一分にも満たない筈。それくらいの短時間なら耐えられる……。そう自分に言い聞かせる。
「……うん。大丈夫」
意を決してエレベーターを呼ぶ。元々一階にいたのか、扉は直ぐに開いた。
ひとつ息を吸い、箱の中へ体を滑り込ませる。階層ボタンを押して、続けて閉ボタンを押す。
指示の通りに作動し、扉が閉じる。動き出して、直後。
照明の点滅。案内パネルの表示がバグり始めて。そして。今までで一番近い距離で。”眼”が。私を視る。
──間違えた。ゆっくりでも良い、階段を使うべきだった!なんで私は自ら閉所に……!
後悔先に立たずとはよく言ったものだ。そう思う間もなく。私を獲物に見据えた猫たちがこの小さい箱に群がってくる。
下で視たよりも多く。無数の目が私を捕らえ。同時に”鳴き声”が私の耳元で……違う。この箱の中の至る所から。十重二十重と重なってこの小さなエレベーターの箱ごと揺らしている。
「~~~ッッ!!」
呻き声の不快感、視られている恐怖、全てがないまぜになって思わず耳を塞ぎ、目を閉じて蹲る。しかし。音は変わらず私の耳に届く。視線が体に突き刺さる。鳴き声の中に僅かな嘲笑さえ混ざった気がした。
早く、早く……!まだ着かないの……!?
既に私に出来る対抗策は無い。唯一の手段の逃走は自らの手で潰してしまったから。
後はただただ待つしか出来ない。最早耳をつんざくような呻き声で揺れているのか、私自身が恐怖で震えているのかさえ分かりはしない。
──目を塞いでいても分かる程、すぐ近くに。いや。これはもう私を食べようと。
そんな気配。鼻が曲がるような生臭い吐息が、私の頭上から発せられていることを。膝を抱えてる私の嗅覚が捉える。
「痛ッ……!」
耳を塞いでいる私の右手、その手首に鋭い痛みが走る。爪を立てられた?なら、もう。猶予は。
チーン。
そう思った時、そんな間抜けな音が聞こえた。同時に生臭さの中に一筋だけ感じられる、アロマ……?のような香り。
あれほど無数にいた”猫”も。私に噛みつこうとしていた”猫”も。もうこのエレベーター、いや、周りからいなくなっているのが感覚で分かった。
扉が開く。時間としては一瞬だったのに、やけに懐かしく感じられる人工的な明かりが目を刺す。そして耳に届くのは。
”大丈夫?ミサキ。”
先生の声。
「先生……?どうしてここに……何をしてるの??」
元々先生に会いに来たんだから当然と言えば当然なんだけど。まるで私が来ることが分かっているかのようにエレベーターの前で待っているし。それに左手にタバコ?のようなものを燻らせている。先生が吸う人だとは知らなかった。少なくとも今までで一度も見たことは無い。
私の視線に気づいたのか、先生は左手を私の前に掲げる。同時に気付く。あのアロマのような香りはここから薫っていた事に。
”これはね、タバコじゃなくて、
「お守り……?儀式……?」
猫に襲われていた時とは違う混乱で私の頭が満たされる。質問したい事が多すぎてまとまらない。
”じゃあ、行こうか”
「ちょっと、説明して。それに外に出たら……!」
先程の光景を思い出して、思わず肩が震える。けど先生は、いっそいつもの様子からすると強情と言える位に、私を外へと促す。
”もう大丈夫。猫に視られることは無いよ。それに、聞きたい事多いでしょ?道すがら話すよ”
そう言って先生の右手が私の左手を掴む。
そうして私は。やっとの思いでたどり着いたシャーレの執務室に。足を踏み入れる事すらなく取って返してビルを出た。
「ありがとうございましたー!」
エンジェル24で猫の餌(子猫用)、ついでにマスク(私用)を買い、深夜だというのに張り切った声を背にしながら店を出る。
”正体と言うべき……なのかな。とにかく、ミサキを襲ってきた猫は
「子猫?そうなの……?そんなに幼くは見えなかったし獰猛だった気がするんだけど」
”子猫じゃなくて、にんべんに子供の子。人に捨てられて、可愛がられて、そしてまた見捨てられた子猫の幽霊、の今回は集合体だけど。だから
そう話しながら私と先生は歩き続ける。向かう場所は聞いてないけど方向で分かる。
〇〇通りの裏路地だ。先生が近くにいるから……違う。おそらく焚かれている護摩のおかげだ。もう視線は感じない。
というか、幽霊?このキヴォトスで?そんなくだらない……と疑おうとした所で自らの経験が否定する。
「正直、……少し、混乱してる。けど、まあそれはいいや。……ただの捨て猫じゃないの?」
"元々はね。あの、今向かってる「〇〇通りの路地裏」だけど。猫の捨てられやすいスポットだったんだよ”
昔の話だけどね。
そう言って先生は少し悲し気な顔をして。短くなった護摩に気付くと胸ポケットから新しい護摩に火を付け、古いものを消す。その一連の手つきがやけに手馴れてるというか、精錬されてるというか。体に染みついてる動作って感じ。
”ほら、よくあるじゃない?子供が捨て猫を拾ってきて捨てて来なさい!って叱られて、友達同士で隠してこっそり飼う、なんて話"
”創作の中ならその後飼い主を見つけられるものだけど……現実だとそう甘くないからね。そして子供の興味も「世話焼き」も、大抵は長く続くものじゃあない”
”最初は4人で面倒を見てた。三日後には3人。一週間後には2人。そうして細々と面倒を見てた子供たちも他に楽しいことが出来たり、勉強が忙しくなったり”
”また、叱られたり”
”そうして、世話の足が遠のく”
……そうすれば当然。子猫は死んでしまう。それも一度生きる希望を与えられて取り上げられる、そういう形で。
野生の生き物には全ては虚しいもの……なんて考え。流石に無いだろうから。
”子猫が先にあったのか、噂が立ったから猫が捨てられるようになったのか。順番は分らないけどとにかく”
”子猫が捨てられ、世話をされて希望を持ち、けれど叶うことは無く死んでいった猫たち。そして年月が経って噂さえも風化したけれど”
”「仔猫」たちは依然あの場に留まっている”
「……だからって。あんなのが頻繁に起こってたら流石に噂が再燃するでしょ?」
それも「猫が捨てられているスポット」ではなく「何かに襲われる」スポットとして。
”そうだね。まあでも、普段はここまでこじれた事態にならないんだよ”
”今回は時期と時間と……相性が悪かった”
「……時期、時間、相性?」
”うん。まず時期は……夏が終わって秋が近づいてっていう季節の変わり目でしょ?そもそも気候の変化に対応しきれずに死ぬ生き物って多くてさ。だから単純によく「猫たちが死んだ時期」”
”次に時間だけど。ミサキがシャーレを出た時間を考えると……丁度午前2時ころに路地裏に入ったんじゃない?”
……そういえば、確かに。確か端末を見てたから時間は覚えてる。時刻は2:00。それまでは何ともなかったのに、2:00を回った瞬間に
「……でもその時間の何が問題なの?」
”ほら、「丑三つ時」だよ。その時間。正確には2:00-2:30だね”
「……言葉としては知っていたけど。丑三つ時ってその時間だったんだ……」
”まあ普通意識しないもんね。とにかく時間は「幽霊の出やすい」時間だったってこと”
「……とりあえず、時期と時間はわかった。そして、相性って言うのは?」
「……あんまり詳しくないけど。そういうのって大体酷い目に合わせた人を祟るって言うのが筋?なんじゃないの?私、猫に恨まれるようなことした覚え無いんだけど」
小さい頃に猫を世話した事なんて無い。そもそもそんな余裕は無かった。猫に食事を与えるくらいなら私達の腹に収める。そういう暮らしだったし。それに今だって別に猫見かけたからって蹴っ飛ばしたり、いじめたりなんてしていない。それはさすがにあまりにも虚しいが過ぎる。笑えるくらいに虚しすぎて考えたことも無い。
”これは多分直前に私が猫の話をしちゃったのが悪かったと思うんだよね……ミサキ、私の話を聞いた時”
可哀想と思われて、哀れに思われて。腹が立ったって事?でも私は別に。
「ああ。可哀そうとか憐れんだりって?知ってるでしょ。私はそんなの──」
どうでもいい。そう続けようとした言葉は先生のセリフに遮られた。
”──うん。そうだよね。ミサキはそうは思わないし。仔猫たちだってそういう思いにはずっと晒されてるからね。いわば慣れっこなんだ。でも”
”羨ましい”
”そう思ったんじゃない?幽霊……正確に言えば、体が無い。そういう「状態」に対して”
「……」
むぐ。と思わず口を噤む。的外れな考えだったからでは無く。むしろあまりにも的を得ていたから。
そんな私の表情を護摩に付けられた火が照らして、先生の目に入る。
”やっぱり。ミサキなら考えるんじゃないかって思ったんだ。アタリだね”
くすっと笑う先生。なんだか無性に恥ずかしくなって、誤魔化すように話の続きを促す。
”仔猫たちからしたら溜まったもんじゃないって感じかな。飼って捨てて飼って捨てて。その果てに死んでさ。その状態を作った
”だから仔猫は怒ってミサキを
”逆恨みで虎の尾を踏んでしまった状態だったんだ、ミサキは。まあ、虎っていうか猫だけど”
”そもそも仔猫に人の区別なんてつかないからね。ミサキじゃなくてもそういった「羨望」を向けると襲って来るんだけど……”
「普通は哀れみが先に来るから被害は生まれないって事だね」
”そう。察しが良いね。それに丑三つ時に現れたって事は、丑三つ時にしか出てこれないって意味でもある”
”元々が子猫だからね。力も本来はそこまで強くないんだ。だから
”そんな時間にあの通りを歩く人の数がそもそも少ないから、この条件も殆ど満たされない”
”よって、
ふぅ。と深く息をつき。一応の理解を得ることは出来た。……私が仔猫に視られた理由に対しては。不本意だけど。
「……それで、先生。私達は何しに行くの?」
話し込んでいて気が付かなかったが、ふと周囲を見ればあの路地裏まで戻って来ていた。
あと数歩進めば、最初に猫──
そしてここまでくれば分かる。
居る。視られている。依然として変わらず、視線が突き刺さる。けれど先程のように襲ってきたりはしない。おそらく、私達に
それでも視線に身が竦み、思わず左手を強く握りしめる。穏やかに感じる先生の体温が、私を安心させてくれた。
”何って。それはもちろん謝るんだよ。誠心誠意、心を込めて。ルールに則って。お詫びの品も付けてね”
がさり、と。買ったばかりのビニール袋を視線の高さまで持ち上げて。言葉を続けた。
”今回踏み込んでしまったのは私達だから”
”謝罪の内容は「この場に踏み込んだ事」。そしてあくまで「刺激した事」に対して。間違っても”
「仔猫の境遇や状況へは言及しない……それであってる?」
”うん。ばっちり。じゃあ、行くよ”
その言葉を合図に私達は「〇〇通りの路地裏」へと。──
一段と視線が強くなる。それでも襲ってはこない。
その様子に一つ頷いた先生は、買って来た子猫用の餌を取り出し、左手の護摩の煙を一周させる。
それが済むと餌を廃ビルの壁に立てかける様に置き、その横に新たに護摩を取り出し、火を付けて置いた。
”これでお詫びの品は大丈夫。次は謝罪のターンだよ。大丈夫。特に形式とか、そういうのは要らない。ただ心の中で考えるだけでいい”
その先生の言葉を聞きながら。私は子猫達へ思いを巡らせた。
しばらく思いを巡らせ、体感で2-3分くらいたった頃だろうか。急激に視線の圧が軽く、いやこれは。
ふと思い端末を取り出して時間を見る。……現在時刻は2:31。そうか、もう。
”丑三つ時は終わったからね。同時に仔猫が遊ぶ時間も終わったんだよ”
同時に先生が口を開いた。
言葉を続けながら、手際よく設置した猫の餌と火の付いた護摩を回収していく先生。
「それ。持って行っちゃっていいの?」
”ああ、うん。そもそも仔猫達が物理的にこれを食べることは不可能だし……。置いておいてもゴミになってしまう。火の付いた護摩は火災の原因になっちゃうし”
”なにより、重視するべきは実体より礼儀なんだよ”
”
にこやかに笑顔を浮かべて手を振れば、言葉は通じなくても挨拶をしようとする意思は通じる、みたいな。
要は、「あちら」と「こちら」の共通認識。それが
いまいちピンとくるような来ないような。まあ、私より場慣れしている先生がそう言うのだから多分そういうものなのだろう。ならとやかく言う意味は無い。
先生は袋に餌と火を消した護摩を入れ、私を促す。
”さ、帰ろうかミサキ。流石に今日はもう遅いし。シャーレの空き部屋使っていきなよ”
「うん、そうする。ありがとう、先生」
そう返して、先生と一緒に。ようやく、本当にようやくシャーレへの──日常への帰り道を進んでいく。
道すがら「ニャーオ」という、甘えたような猫の鳴き声が聞こえた気がした。
その後の事は特に語ることも無く。
シャーレで仮眠を取って、みんなのいるアジトへ戻った。多少心配はされたけど、別行動を取ることは珍しくも無い。
その内に日常へ戻っていった。
まるであの日の事は夢だったのではないか。そう思える程に。
けれど右腕についた縦の傷跡が、あれが現実だったのだと教えてくる。
そしてその傷跡も薄くなり、いよいよ実感が湧かなくなる程に時間がたったある日。
現在の拠点に──一匹の猫。
抱きかかえていたアツコ曰く。どうやらこの拠点に迷い込んでしまったらしい。ただ、見る限り首輪付き─飼い猫の様だからしばらく散歩でもしたら出ていくのではないか、との事。
「うわぁ!?ね、猫ですか!?……えへへ、かわいいです。……この子、家猫なんですね……私たちはいまだ定住先なんて見つかってないのに。……やっぱり人生は……」
「うん。気が済むまで散歩させてあげよう。きっとその内、おうちに帰るから」
アツコとヒヨリが話している時も忙しなくあちこちをうろついていた猫が。「なーお」と随分可愛らしい声を上げて私へとジャンプしてきたのが見えた。
「わ。ミサキ、すごい懐かれてる」
猫との距離が近づくにつれ、受け止めようかどうしようかと思考を回して。ふと違和感が。鼻に。
鼻がむず痒い。いや、これは……!この感じ……!?
「へっくし、はっくしゅん!!!」
「ひゃあ!?ご、ごめんなさいぃ!!??」
どうやら私はあの一件を経て。猫に懐かれやすくなり。さらに──猫アレルギーにも罹患してしまったらしい。
それこそが、あのいつかの三十分の出来事が現実だと私に知らしめる、唯一にして最大の痕跡になったのだった。