塾帰りのマチュは、家に帰った後にやるべきことをシミュレートしていた。
珍しく地下鉄はガラガラで、車内のシートには余裕で座ることができた。
リュックサックを膝の上に置き、中のお守りを握りながらマチュは考える。
朝にタマキと交わした会話だけでは説明不足だ。
こういう時にジョンなら「相手の立場を考えて説明した方が良い」と言うだろう。
自分がタマキの立場だったら? そもそもジョンとは何者なのか、どうやって会ったか、明晰夢とは?
何も知らない相手に誤解なく説明するのに、とんでもない労力がかかることは間違いない。
「私がニュータイプだったらなぁ」
そういえば朝に会った軍人は、自分をニュータイプだと言った。
自分がニュータイプであるなら、朝の時点でタマキにジョンのことを一から百まで説明できたはずだ。
自分がニュータイプなら、ジョンに惹かれた時点で彼の居場所を特定して突入したはずだ。
マチュはジョンにあえて言っていないことがある。
赤いガンダムにジョンが拉致されたニュースでジョンの職業、つまりコロニー公社の支部に出向している何でも屋の会社員であるというのは初動のニュースで報じられていた。
その後はプライバシーの保護という名目で報じられなくなり、ネットニュースも記事が編集された。
芸能人ならともかく、巻き込まれた一般人の職業なんて誰も興味がないので、この対応は大した反発もなかった。
(実際のところは報道規制でしょ)
ジョンが現在置かれている状態は、明晰夢を通してマチュも知っていた。
テロリストに狙われないように軍警察が保護しており、今でも軍警察の管理下にいる。
ジョンのプライバシー情報が報じられなくなったのも、その一環だろう。
自分が知ってるジョンなら「OSINT」と称して情報を集める。
当然ニュースは見るだろう。
だが、自分のプライバシーがどこまで報じられたかというのを知るには、断片的な情報しか残っていない。
マチュは運良く初動のニュースを見ていた。
その時になって初めてジョンの明確な職業を知ったのだ。
このニュースを見た時、自分が呟いた言葉をマチュははっきりと覚えている。
「見つけた」
ジョンは、マチュに自分の職場がバレたことを知らないはずだ。
どこに勤めているか分かった以上、マチュはジョンが日常生活に戻れたら速攻でイズマ支部へカチコミをかける準備を始めていた。
もしも自分がイズマ支部に来ることを知ったら、ジョンは反対するはずだ。
朝の件で、さらに決意が固まった。
場合によってはタマキを連れてイズマ支部へカチコミをかける。
マチュがお守りを握る力を強くした時、電車が駅に到着した。
ネノクニ駅に到着したのだ。
電車の扉が開き、マチュ以外の乗客が車両から降りていく。
車内にはマチュ以外の乗客はいなくなってしまった。
珍しい、貸し切りみたいだとマチュが思い、扉が閉まるのを待った。
いつもなら扉が閉まって発車している頃合いなのに、何の変化もない。
不審に思うマチュだったが、頭上にあるスピーカーから流れる車内放送の内容で納得がいった。
『お客様にお伝えします。現在、車両トラブルのため30分ほどの遅れが生じます…』
遅れるのは致し方ない。今は対タマキ対策を練るべきだ。
頭上のスピーカーから視線を戻した時、自分の向かい側のシートに人が座っていることに初めて気付いた。
頭を伏せているので顔はよく見えないが、自分と年が近い女の子だ。
グレーの長袖、短パンのジャージを着用しているが、胸元がきつそうだ。
目の前の少女が顔を少し上げて周囲を見渡した。
「あれ、なんで私こんなとこにいるんだろ…」
周囲を一瞥すると、少女はマチュの方を見た。
「すみません、ここ環状線ですか?」
車両内にはマチュと少女しかいない。1対1だ。
とりあえず差し当たりない会話をしようと、マチュは決めた。
「そうですよ。今ネノクニ。車両トラブルで停まっちゃってますけど」
それを聞くと、少女は不思議そうに首を傾けた。
その次に、少女はマチュが着ている制服を見た。
「その制服、ハイバリー?」
マチュは頷いた。
「私もハイバリーなんだ。2年生」
それを聞くと、マチュは少し安心感を覚えた。
同校の人間、それも同級生なら不要に警戒をする必要はない。
だが、マチュは目の前の少女を学校内で見たことがない。
いくら生徒数が多いにしても、ピンとこないのはおかしいとマチュは思った。
「クラスは?」
向こうも同じようなことを考えたのだろう。クラス名を聞いてきた。
「アンヌ・マテス」
それを言うと、少女は明らかに不審そうな表情でマチュを見た。
「私、そこのクラスだけど、あなたみたいな人は知らない」
それはこっちの言葉だと、マチュは思った。
「私もあなたみたいな人は見たことがない」
ジョンは手に持った紙コップの蓋を開け、蓋を車内に備え付けてあるゴミ箱に入れた。
紙コップの中身のコーヒーは減っていない。
続いてジョンは、ドリンクホルダーの紙コップの蓋を開けた。
中身のコーヒーは紫色に変色していた。
「グリフェプタンD+ですよね。匂いで分かりましたよ。エムグループの薬品会社が売ってる物ですから簡単に買える。
このグリフェプタンD+とコーヒーを組み合わせると、簡易的な自白剤になります」
自分の目論見が完全にバレたと、タマキは悟った。
それでも苦し紛れの言い訳を試みる。
「…カフェオレよ、飲みたかったし」
「入れ替える前はブラックでしたよ」
ジョンは手元の紙コップをドリンクホルダーに戻した。
そして、タマキと目を合わせた。
動揺、羞恥、憤怒。
このキャリアウーマンから自分に対して向けられた感情は、そのようなものだろう。
「なぜ僕に薬を盛ろうとしたんですか?」
車内に沈黙が流れた。
沈黙は答えじゃないぞとジョンは思ったが、その沈黙を破ったのはジョンの携帯情報端末の電話だった。
着メロに設定した Alexandros の「閃光」が車内に流れた。
「すみません、職場から電話が来たので良いですか」
「お構いなく」
端末のディスプレイを見ると、相手は同僚のボカタだ。
同僚といっても向こうが年上だが、お互い年齢差は気にしていない。
ボカタは今日の業務でガンダムの新装備の受領に向かったと連絡を受けていたが、その話だろうと思い、ジョンは表示された着信ボタンを押した。
「どうした、ボカタ?」
『ジョン、やばいことになった。今どこだ?』
ジョンは車のディスプレイオーディオに表示されたカーナビのマップを見た。
「4号幹線道路だ。会計監査局の部長さんの車に乗ってる」
何やらイズマ支部で非常事態が発生したみたいだ。
現在地の4号幹線道路からイズマ支部までは20分で行ける。
(でも今は渋滞だぞ)
目の前に広がるテールランプの光の川を見て、ジョンは悩んだ。
この辺は渋滞が起きやすいことでも有名だ。
自分に尋問するための時間を稼ぐために、敢えてこの道を選んだのだろう。
『なんてこった』
「ボカタ、何があったか聞かせてくれないか?」
車以外でイズマ支部へ向かうには走るしかないが、どうしても時間がかかる。
バイク専用のレーンは空いてるが、あいにくジョンのバイクは寮に置きっぱなしだ。
『簡潔に言うぞ、軍警のザクが無人で暴れ回ってる。その数12機だ』
何があった!?
ジョンは突っ込みたくなったが、最後まで話を聞くことにした。
『今日、軍警察の MS のインストーラー・デバイスの交換作業があった。今暴れているのは交換作業を完了したザクだ。つまり…』
「インストーラー・デバイスを介して遠隔操作をしているか、暴走するようにプログラミングされたかだな」
とりあえずはイズマ支部へ向かうことに決めた。
「僕はどうすればいい?」
『支部に戻ってガンダムに乗ってくれ。あのガンダムを使いこなせるのはお前しかいない。今のイズマでザクに対抗できるのはガンダムしかいないんだ!』
「OK」
電話を切ると、ジョンはタマキを睨んだ。
「車のロックを外してください」
タマキは急いでボタンを押して、ロックを解除した。
事情のすべては分からないが、状況を見るに非常事態であることには間違いない。
ジョンは隣の車にぶつからないようにドアを開け、外へと降りた。
「ここからだと遠いわよ」
「走れば近い」
さて、どうしようかなと思ったジョンの後ろから、聞き慣れたバイクの駆動音が聞こえてきた。
振り返ると、車列をすり抜けてきたバイクがジョンの目の前に止まった。
このバイクはジョンに見覚えがある。というか、見覚えしかない。
「なんで僕のバイクがあるんだ?」
目の前のバイクは、ジョンが寮の自転車置き場に置いていたオフロードタイプのバイクだ。
あそこから動かしてないはずだが、なぜか AI 制御で自分の目の前で停まっている。
『ジョン、久シブリダナ』
困惑するジョンに対して、バイクを制御していたロボットが声をかけてきた。
「君が僕のバイクを運転してきたのか」
『ソウダ、ジョンヲ迎エニ来タ』
恐らくボカタ辺りが、足が必要になるのでロボットにバイクを運ばせたのだろうかとジョンは思った。
バイクの始動に必要なスマートキーの予備はイズマ支部に渡しているので、車両の始動機能があるロボットに情報を与えればバイクを動かすことは不可能じゃない。
だが、電話でのボカタのリアクションを見る限り、バイクのことについては知らなさそうだ。
知っていれば必ず伝えるはずだ。
不可解な点は多いが、今のジョンには足が必要だ。事態が落ち着いたら改めて事情を聞こう。
ジョンはバイクに跨り、ロボットからヘルメットをもらった。
被り慣れたオフロード用のヘルメット。買うと高いのだ。
「今からイズマ支部へ戻る」
『了解』
「君の名前は?」
『ハロ』
「ハロ…」
なんだか懐かしい響きだ。
その名前に安らぎすら感じる。
バイクの運転を手動に戻すと、ジョンはバイク専用のレーンへ向けて車体を向けた。
発進前にタマキへ向かって、右手の人差し指と中指を合わせた小さな敬礼をした。
ジョンからはタマキの表情は見えない。
右手をアクセルへ戻してクラッチをローギアに入れると、ジョンが跨ったバイクは専用レーンへと発進した。
ジョン以外、誰も走っていない専用レーンをジョンはクラッチをセカンド、サードへと切り替えてバイクを飛ばした。
その姿を、タマキはジョンの姿が見えなくなるまで見つめていた。
自分の端末に電話が入っているのに気付くのは、もう少し後になってからだった。
掘り下げが足りないと感じる主要人物
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ジョン・マフティー・マティックス
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アマテ・ユズリハ(マチュ)
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ニャアン
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シュウジ・イトウ
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シャリア・ブル
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シロウズ
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サンライズカネバン社長
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シイコ・スガイ