霧の街のヒナタ   作:下駄ロボ

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プロトタイプ版
出会いときっかけ


10月を迎えたアーカムの午後には夏の面影はかけらも残っていなかった。

灰色の雲が空を覆い、柔らかく湿った霧がキャンパス全体を包み込んでいる。レンガ造りの古い講堂の屋根も、裸の樹々の枝も、輪郭をぼやかしながら沈黙の中に溶けていく。

 

ミスカトニック大学付属図書館──煉瓦壁とアーチ型の窓を持つこの建物の内部は、いつも以上にひっそりとしていた。

石畳の床を踏む足音も、木製の椅子を引く音も、重厚な空気の中でやわらかく吸い込まれ、響き合わない。

霧のせいか、人も少なかった。

 

奥の閲覧席──中央暖炉から遠く離れた冷たい窓際の席で、一人の学生が背を丸めて本とノートを広げていた。

○○○。民俗学を専攻する二年目の学生だ。

 

彼の前には、煤けた背表紙の古書や、解読者の注釈だらけの写し資料が積み上がっている。

その中には、アーカム近郊で収集された口頭伝承や、地元の新聞に一度だけ登場した「祓いの唄」といった記述もあった。

 

「“墓守の唄”──歌詞がどこにも書いてないのに、“誰でも知ってる”って、どういうことだよ……」

 

眉間に皺を寄せ、鉛筆をくるくると回しながら独り言をつぶやく。

書き写したメモの端には、聞き取り調査の仮説や民話の分類が並んでいたが、その中心に置かれた空白が埋まる気配はない。

 

少し肩を回して伸びをしたとき、隣の机から紙をめくる微かな音が聞こえた。

ぴり、とページが切り離されるような、まるで湿度そのものが紙に乗っているような音だった。

 

何気なく視線をそちらへ向けて、──の手が止まった。

 

──少年のように小柄な体躯。

浅黒くも色白ともつかない滑らかな肌に、つややかな黒髪。前髪がやや長く、頬にかかるその髪先が、なぜかほんの少しだけ濡れているように見えた。

 

東洋系──おそらく日本人だろう。

──はぼんやりとその横顔を見つめながら、心の中で情報を引き出した。数日前の講義で見かけた記憶がある。

名簿に載っていた名前……ヒナタ・ナガエ。

留学生で、ミスカトニック大学に入ってきたのは今学期から。専攻は不明。

 

 

よく見ると、机には英語の論文集と大判の事典が何冊も広がっていた。

その一方で、ノートの筆記は異様に整っており、装飾的な曲線を含んだ筆跡で、英語と併せて何かの記号のようなものまで書かれている。何を記録しているのか見当もつかない。

 

思わず覗き込もうとしたその瞬間、不意にその少年──ヒナタが顔を上げた。

そして、唐突に言った。

 

「ねえ、“バーベキュー”って、ただ炭火で肉を焼くだけじゃないんだよね?」

 

○○○は目を瞬かせた。

予想外の言葉だった。

 

「……は?バーベキュー?」

 

「うん。この資料が凄く情熱的に書かれてるから、ちょっと神事に見える」

 

○○○は苦笑しながら頷いた。

 

「言われてみると確かに儀式っぽいな、うん。

もちろんただの“肉を焼いて食う会”ってわけじゃないけどな。むしろ──文化に近い。いや──宗教に近い」

 

バーベキューについて説明しようとする○○○は真剣な表情で、その目はろうそくの火のように穏やかだが強く輝く使命感の火が燃えていた。

 

自ら国外に出て宣教するほどの敬虔な神父とはこのようなものだったかもしれない。

 

ヒナタは○○○の雰囲気から「これは長くなる」と察して、そっとノートに「バーベキューは厳かで儀礼的な要素の強い文化」と書き加えた。

 

そして実際に、それは長くなった。

 

○○○の語りは、火起こしに適した木材の種類から始まり、

地域によるマリネ文化の差、肉の部位の名称と選び方、

さらには“バーベキューで家族間の遺恨が表面化する瞬間”にまで及んだ。

 

ヒナタは時折うなずきながら、ノートの余白にびっしりとメモを書き連ねていた。

途中から、理解というよりも記録のために書いていた節もある。

 

ようやく○○○の語りに間が空いた頃、図書館の奥から「閉館十五分前です」という声が響いた。

 

ヒナタは思わず顔を上げて、窓の外を見た。

霧はすでに深くなり、アーチ窓の向こうに街灯がぼんやりと滲んでいた。

 

○○○のほうをそっと見ると、まだ話し足りなさそうな顔をしていた。

 

「……教えてもらう事って、想像以上に体力が要るんだね」

 

ヒナタはそう呟いて、ノートを閉じた。

 

○○○は少しだけ笑って、「悪かったな」と肩をすくめた。

 

それが、○○○とヒナタが初めて言葉を交わした日の午後だった。

 

---

 

アーカムの夕暮れは、霧と共に訪れる。

 

とくに海からの風が湿っている日は、建物と建物のあいだを白く濁らせながら、街全体をゆっくりと沈ませていく。

時間の流れも音も、どこか遠くに追いやられたように感じる。時計の針さえ、ひと呼吸遅れて動いているように思える。

 

○○○は講義の終わりに寄った図書室で、ふと一冊の資料を見つけて夢中になり、気づけば日はとっぷりと暮れていた。

濡れたような石畳を踏んで帰り道を辿りながら、手元の資料を小脇に抱える。

夕食の時間もとっくに過ぎ、寄宿舎の食堂はもう閉まっているかもしれない。

 

角を曲がる。

霧の向こうから、聞き覚えのある声がする気がした。

──いや、声というより「気配」だったかもしれない。

 

○○○は立ち止まった。

霧が深い。見通しが悪すぎる。

 

そのとき、靴音が反響していた。複数の足音。軽く湿った石畳を叩く音が、笑い声と共に漏れてきた。

 

「おい、そこの東洋人。話、聞こえてんのか?」

 

○○○はぎくりとした。

その呼びかけに、聞き覚えのある反応が返る。

 

「……はい?」

 

あの抑揚。どこか水を含んだような、柔らかい英語。──ヒナタだ。

 

急いで霧の中を進む。手にしていた資料を脇に押し込み、靄を裂いて路地に踏み込む。

 

視界の先、三人の男たちがヒナタを取り囲んでいた。

彼らはアーカム郊外でよく見かける、港湾作業員上がりの若者風。

野球帽に薄い革ジャン、足元は濡れたブーツ。酔っているのか、目がやや濁っていた。

 

ヒナタは変わらず穏やかな表情を浮かべていた。

怖がっているようすもない。けれど、その無防備さが逆に不安を煽る。

 

(おい……なんで、逃げねえんだ)

 

 

 

「ちょっと待てよ、おまえ──なに無視してんだ?」

 

「東洋人、わかってんのか?話しかけられてんだよ?」

 

ヒナタはわずかに首を傾げ、困ったように笑った。

 

「すみません、急いでいて──」

 

その声に、男の一人が舌打ちをした。

 

「気取ってんじゃねえぞ、アジアの猿がよ」

 

次の瞬間、○○○は身体が動いていた。

 

「やめろよ!」

 

怒鳴った。自分でも驚くほどの声量だった。

三人の男たちが同時に振り返る。視線が突き刺さるように重くなる。

 

「彼──いや、ヒナタは、君たちと話すつもりなんてないだろ。帰れよ」

 

息が上がっていた。怖さもあった。けれど、それよりも先に出たのは焦りだった。

ヒナタはどう見ても、自分より小柄で、しかも無防備すぎた。

 

「……なんだてめえ?」

 

「大学の学生か?まさか先生か?違うよなあ?」

 

三人の男たちがニヤつきながらにじり寄ってくる。

○○○は後ずさりもできずに、その場に立ち尽くした。

 

「──庇う気か?」

 

それが最後の言葉だった。

拳が頬に叩きつけられる。景色が跳ねた。脇腹に衝撃。二発、三発──。

 

世界が鈍く霞んでいく中で、うっすらとヒナタの声が届いた。

 

「……ちょっとだけ、待っててね」

 

柔らかく、耳の奥に落ちてくるような声だった。

 

○○○は地面に倒れ込みながら、その背中を見送った。

 

霧の中へ消えていく小さな背中が、ひどく遠く感じられた。

 

(……なんで俺、あんなこと……)

 

 

 

(こんな顔見知り程度の相手に)

 

 

 

(でも──なんであいつは怖がってなかったんだ?)

 

 

 

痛みと混乱の中で、○○○の意識は霧に沈んでいった。

 

---

 

霧の中に、静けさが戻っていた。

 

ヒナタはゆっくりと小さく息を吸った。

喉の奥が湿気を喜んでいた。血の匂いも、油の臭いも、この街の空気にはどこか馴染まない。

 

背後には、路上に倒れ込んだ○○○がいた。

目を閉じてうずくまり、意識はおそらくまだ残っている。けれど、今は動けない。

 

──あの人、僕を庇った。

 

(……どうして?)

 

(名前を知ってる程度。挨拶すら数えるほどしか交わしていない。

ただ、同じ大学に通っているだけの人なのに)

 

三人の男たちは、ヒナタが路地裏へ進んだのを合図のように、肩を回しながら舌打ちした。

 

「ちょろいな。あんなチビ一人なら、騒がれる前に片付けられるぜ」

 

「大人しくしてりゃ痛い目みねぇで済んだのによぉ。東洋のガキが」

 

ヒナタは無言で立ち止まり、そっと目を伏せた。

 

靴音が一歩、また一歩と近づく。

 

「おい、聞いてんのかコラ──」

 

その声を最後に、男の身体が宙を跳ねた。

 

ぐしゃり。

濡れた布のような音と、硬いものが砕ける音が重なった。

 

視界の隅で、ヒナタの髪が解けていた。

霧に溶け込むように広がった黒髪が、まるで意志を持つ触手のように、男の手首、足首、喉元を、迷いなく絡め取る。

 

「……あ」

 

声を出そうとした男の口に、ふわりと髪が入り込んだ。

ぬめりを帯びたその繊維は、咽頭を塞ぐように侵入し、言葉も息も奪っていく。

 

「静かにして」

 

ヒナタは小さく呟いた。まるで、雨の日に赤子をあやすような声色だった。

 

彼の目は、どこか遠くを見ていた。

まるで視界の手前ではなく、何かもっと深く、暗い場所と繋がっているかのような虚ろさで。

 

(……とりあえず()()()()おこう)

 

(こういう連中は少しでも自分が上だと感じたら()()()()()()()()()から()()()()()にしておかないと面倒なんだよね。)

 

関節が砕ける音。声にならない呻き。

湿った髪が、三人の男たちの身体を締め上げ、緩めず、捩じり、再び締める。

人の骨が、繊細な貝殻のように音を立てて崩れていく。

 

ヒナタの表情は変わらない。

 

髪の房が男たちの脚を掴み、跳ね上げるようにして宙へ持ち上げる。

次の瞬間、倉庫街の古びた建物の屋根へと、ぐるりと弧を描いて放り投げた。

 

空を裂く音と共に、骨のきしむ音が微かに残った。

 

ヒナタは髪をそっと首筋に巻き戻し、服の乱れを整えた。

靴のかかとをトントンと地面に鳴らし、足音の感触を人間のリズムに合わせる。

 

(バレなかったかな。あの人、気絶してくれてたら、楽なんだけど)

 

(……面白い人だったな)

 

そう思っている自分に気づき、ヒナタは立ち止まった。

 

(僕を見て“下”だと思わない人ってだけでも珍しいのに)

 

(僕の事を心配して飛び出して来るなんて)

 

頬に触れる霧が、ほんのりと温かい。

そんなはずはないのに、何かが内側から滲み出ている気がした。

 

ヒナタは、あらためて襟元を整え、

霧の奥で倒れている○○○のもとへ歩き出した。

 

(どう言い訳しよう……

いや、“逃げてきた”って言えばいいか)

 

心臓の鼓動は、かすかに早くなっていた。

 

---

 

霧が少しだけ晴れていた。

それでも、街路灯の光が届くのは足元から半径わずか数歩分。

それより先は、まだ世界の輪郭が溶けたままだった。

 

○○○は、石畳に両手をついて、なんとか身体を起こしていた。

頬の内側を噛んでいたらしく、口の中にじんわりと金属の味が広がっていた。

脇腹が鈍く痛む。息を深く吸うと、肺の奥がじんとする。

 

それでも、彼は立ち上がった。

 

(……ヒナタは?)

 

霧の向こうに目を凝らす。

 

そのとき、音もなく──まるで霧そのものから抜け出てきたかのように、ヒナタの姿が現れた。

何事もなかったかのような顔。服も乱れておらず、呼吸も乱れていない。

 

「……ヒナタ、お前……」

 

ナガエの声は、思った以上に掠れていた。

ヒナタはこちらを見ると、少しだけ眉を下げた。申し訳なさそうな、けれどどこか整いすぎた表情だった。

 

「向こうの連中が、別のチームと揉めはじめたから、混乱に乗じて逃げてきたよ」

 

自然に発された言葉だった。

けれど、その自然さが、かえって不自然に思えるほど、ヒナタの姿は整いすぎていた。

 

○○○は一歩踏み出し、彼の顔をまじまじと見た。

 

(無傷。ほこりもついてない。なのに、さっき路地裏に引き込まれたんだよな?)

 

(あの人数相手に、無事に逃げ切れた?……おかしくないか?)

 

だが、彼は何も言わなかった。

ただひとつ、気になっていたことだけを尋ねた。

 

「……殴られたんじゃなかったのか?」

 

「ううん、平気。殴られたのは君でしょ」

 

ヒナタはくすりと笑った。

その笑顔には、あの図書館で初めて会話を交わしたときと同じ、

何か湿ったような、けれど凪いだ水面のような印象があった。

 

「……無事なら、それでいいよ」

 

○○○は言った。

半分は本心で、半分は自分をごまかすためだった。

 

その瞬間、ヒナタの表情がわずかに緩んだ。

 

「ありがとう」

 

その言葉は、消え入りそうな声で、それでもはっきりと耳に届いた。

 

(“ありがとう”って、今までそんなふうに言われたことあったっけ)

 

○○○は頷いたつもりだったが、ヒナタにはどう見えたかわからない。

 

二人は並んで歩き出した。

霧の中をゆっくりと、寄宿舎の方角へと。

 

道の途中で何かを話すことはなかった。

けれどその沈黙は、気まずさや不信ではなく、

何かを黙って共有しているような、曖昧で優しい温度を含んでいた。

 

霧の夜が、再び二人を飲み込んでいった。

 

---

 

寄宿舎の個室は、しんと静まり返っていた。

 

カーテンの隙間からは、夜の霧がぼんやりと街灯の光をぼかしているのが見えた。

窓を少し開けているせいで、部屋の中にも霧の湿気がじわりと入り込んできている。

 

ヒナタは机の前の椅子に腰を下ろし、手元のノートをぱらぱらとめくっていた。

インクの匂いと紙の湿気が混じり合い、どこか懐かしい匂いがする。

 

それは、深い海の底で眠る記憶のような、

あるいは長い旅の終わりに漂う郷愁のような――

自分でも説明できない、感情の匂いだった。

 

視線はノートに向けられていたが、心はそこにいなかった。

 

(……庇ってくれた)

 

ページをめくる指が止まる。

 

(僕のことなんて、名前を知ってるくらいの関係だったのに)

 

(なぜ?)

 

(どうしてあの人は、自分が殴られると分かっていて、僕の前に立ったんだろう)

 

霧の中で割って入ってきた声。

震えていたけれど、まっすぐだった。

 

あのとき、自分を呼んだ声の響きが、いまも耳の奥に残っている。

 

(この国で、あんな人に出会うとは思わなかった)

 

(誰かのために、自分から一歩踏み出せる人。

しかも、“東洋人の男”に対して)

 

それはヒナタにとって、アメリカでは初めての事だった。

人モドキ、ナヨナヨしたチビのアジア人(殴っても良いヒョロヒョロの雑魚)──この街の大半の人間が彼にそんな目を向けてきた。

 

(そんな奴を“助けよう”って、どういう気持ちなんだろう)

 

(あの人の中には、きっと、誰もがそうそう持てない何かがある)

 

(知りたい。もっと)

 

窓の外を見やる。

さっきまで彼らがいた倉庫の屋根が、霧の奥に隠れて見えない。

 

○○○は何も言わなかった。

目の奥には疑念があった。だけど、言葉にはしなかった。

 

「無事なら、それでいいよ」とだけ、彼は言った。

 

ヒナタは立ち上がり、そっと窓を閉めた。

湿気が一気に薄れる。部屋が乾いていく。

 

けれど、胸の内側は乾いていなかった。

ほんのりと、温度が残っていた。

 

ベッドに座り込み、毛布の端を指先でつまむ。

 

(……また会いたい。ちゃんと話したい)

 

水底のように静かな夜。

その奥で、ヒナタの中に確かな“芽”が生まれた。

 

---

 

午前十一時。

アーカム旧市街、教会通りの角にある『フェリス珈琲店』の窓には、春の霧が薄くかかっていた。

路面電車の鈍い響きが遠くに聞こえ、扉のベルが鳴るたびに、外の冷気とコーヒーの香りが一瞬混じり合う。

 

天井近くに吊るされたラジオが、ざらついたノイズと共にニュースを読み上げていた。

 

「──港湾地区第七倉庫の屋上にて、複数の遺体が発見されました。

発見は先日、倉庫の屋根補修作業中に作業員が通報したもので──」

 

窓際のテーブルで新聞をたたんでいた老職人が、カップを持ち上げたまま唸るように言った。

 

「やっと見つかったか……何週間も誰も気づかなかったんだってな、屋根の上にいたってのに」

 

向かいの老人が、新聞をめくりながら答える。

 

「声も上げず、身動きもできず、冷たい屋根の上で、だ。

下からじゃ見えない高さだし、霧のせいもあったろうな」

 

「──遺体はいずれも、身元は若年男性と見られ、死後二〜三週間が経過。

激しい打撲と骨の損傷が見られましたが、事件性は未確定とのこと──」

 

「事件性未確定ってなあ……屋根の上で死んでて、“事故かもしれません”はないだろ」

 

「さあな。……けど、アーカムじゃ妙なことが起きても“様子を見る”のが習いだ」

 

そう言って、老人はひとつあくびをした。

 

隣の席では大学生らしい若者たちが囁きあっていた。

 

「港の連中でしょ?密輸絡みの噂もあったし……」

 

「でも、骨が折れてたって……どうやって屋根に?」

 

「投げ上げたとか?」

 

「……誰がそんなこと……人間じゃない……よね」

 

空気が少し重くなる。

 

カウンターでカップを拭いていた女主人が、落ち着いた声で言った。

 

「この町じゃ、音を立てずに死ぬのが一番静かな逝き方さ。

誰にも気づかれず、誰も騒がず。霧が深い夜に起きたことは、霧と一緒に消えていくのよ」

 

客の誰も反論はしなかった。

ただ、豆の焦げる香ばしい匂いと、木の椅子がきしむ音が、淡く日常に戻っていく。

 

ラジオは、話題を天気予報に切り替えていた。

 

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