霧の街のヒナタ   作:下駄ロボ

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森の闇と真実

 二週間後。俺たちは、ふたたびあの森へと足を踏み入れていた。

 

 アーカムの夏は短い。にもかかわらず、この日は妙に蒸し暑く、霧もひどく濃かった。前回と同じ道標の前で業者と落ち合い、例によって最低限の挨拶だけ交わすと、俺たちは黙々と林道を進んだ。

 

 「……なんか、前より森の空気が重くないか?」

 

 「うん。音が減ってる。鳥の声、ほとんどしない」

 

 ヒナタが周囲に視線を走らせながら低く呟いた。

 

 「……なんかあったのかな」

 

 「かもしれん。だがまぁ、余計な詮索はよしとけ。蒸留やってる最中に気が散るのは困る」

 

 業者はそう言って、いつも通りの不機嫌そうな顔で先を歩いていたが、ほんのわずかに目の奥に警戒の色がにじんでいた。

 

 小屋に着いた俺たちは、荷物を置くとすぐに作業に取りかかった。今日は、数週間かけて発酵させたマッシュを、銅製の蒸留器にかける日だ。

 

 桶の蓋を開けると、ふわりと甘い香りが立ちのぼった。麦芽と糖が混ざった、どこかパンのような香り。発酵はうまくいっているらしい。

 

 「よし、火を入れるぞ。最初は弱火でな」

 

 業者の指示で火を入れ、しばらくして蒸気が上がり始めると、ヒナタが銅管の先に瓶を据える。最初に出てくる蒸気――いわゆる初留分には、雑味や有害成分が含まれていることが多い。

 

 「匂いが変わったらすぐ止めろ。最初のは捨てて構わん」

 

 「うん、もう少し……あ、きた。」

 

 「またお前、よく分かるな……」

 

 ヒナタは瓶を素早く交換し、きれいな中留分を別の容器に受け始めた。香りが一気にやわらかくなり、室内の空気が一瞬で酒蔵のような匂いに変わる。

 

 「便利な鼻だな」

 

 「ありがとー。生まれつきね」

 

 業者は、俺たちのやりとりを黙って聞いていたが、やがて蒸留器の圧を確認しながら、ぼそりと呟いた。

 

 「……“普通”じゃねえよな」

 

 その言葉に返す言葉はなかった。

 

 瓶の中に、琥珀色の液体が少しずつ溜まっていく。作業は順調だった。順調すぎるほどに。

 

 だがその静寂を、突如として破ったのは、森の奥から聞こえた「バキッ」という乾いた音だった。

 

 「……おい、今の……」

 

 「……枝の音じゃねぇな」

 

 次の瞬間、獣のような足音と、何かをかき分ける音が、森の木々の間から――急速に、近づいてきていた。

 

 ガサガサと草木をかき分ける音。

 獣のような足音。だが、重すぎも軽すぎもしない。不規則で、迷いがなく、まっすぐこちらに向かってくる。

 

 「銃は?」

 

 「棚の奥だ、そこ! 急げ!」

 

 業者の叫びで、俺は棚を開け、埃をかぶったライフルを二丁引っ張り出す。ヒナタにも一丁を手渡すが、彼は銃を見下ろしたまま、表情を変えなかった。

 

 「なんか来るの?」

 

 「なんか、じゃねぇ。これはヤバい“何か”だ!」

 

 その直後だった。

 

 木の幹を突き破るように、森の縁から男が転がり出てきた。泥だらけで、顔は血に塗れ、片腕が不自然な角度に折れている――制服の破れ目から覗く金属のバッジが、彼が警官であることを教えてくれた。

 

 「た、たすけ、――」

 

 言葉は途中で途切れた。

 

 彼を追って姿を現した“それ”は、ヒトに似てヒトでない。

 四肢は細く長く、皮膚は灰色がかり、瞳孔のない目が濁っている。肉の腐臭が風に乗って流れ込んできた。

 

 一体、二体、三体――次々に、森の中から影があふれ出てくる。

 

 「な……なんだよこれ……」

 

 「数が違いすぎる……二十、三十……いや、もっといる……!」

 

 その場にいた全員が、思考を止めかけていた。

 その数、およそ五十体近く。全身が泥と腐肉に覆われた異形のものどもが、警官の倒れた身体に群がり始める。

 

 「――撃てッ!」

 

 業者が叫ぶ。俺も半ば反射的に引き金を引いた。

 乾いた銃声が森に響き、最前の“何か”がのけぞるように後退する。が、それで止まりはしなかった。

 

 「ヒナタ……ヒナタ、引けッ! 逃げるぞ!」

 

 俺が声を張ったその瞬間、横にいたはずのヒナタが、もうそこにいなかった。

 

 目の前で、灰色の“影”のひとつが、何かに叩きつけられるように吹き飛んだ。

 次の瞬間、別の一体の首が、くるりと不自然な角度でねじ切れていた。

 

 ヒナタが、そこにいた。

 

 銃を捨て、両手をゆるく開いて前傾姿勢。表情は一切変わっていない。

 ただ、瞳の奥が、さっきまでとはまるで別物の光を宿している。

 

 「……こいつら、思ったより柔らかいな」

 

 ヒナタがぽつりと呟いた。

 

 「多分この森の連中って、強くはないんだな。……なら、ちょうどいいかな」

 

 言葉が終わるより早く、ヒナタの身体が跳ぶ。

 

 木立の間を縫うように跳躍し、一体、また一体と灰色の影をなぎ倒していく。

 脚を絡ませて転倒させ、肩で突き飛ばし、時には鋭く尖った髪の房を投げ槍のように使って突き刺す。

 それは、武術でも格闘でもない。ただの“捕食者”の動きだった。

 

 肉が裂け、骨が折れ、地面に叩きつけられた異形のものが、悲鳴を上げることすらなく地に沈んでいく。

 

 やがて、ヒナタの姿が灰色の死体に囲まれるように止まった。

 

 衣服は裂け、顔にも腕にも、鮮血が飛び散っている。

 額に、頬に、喉元に……滴るように返り血がつたっていた。

 

 それでもなお、ヒナタの呼吸はまったく乱れていない。

 背筋をまっすぐに伸ばし、まるでただの散歩から帰ってきたかのように、静かに言った。

 

 「……五十体。……こんなもんかな」

 

 俺は、なにも言えずにその光景を見ていた。

 息を呑むことすらできなかった。

 

 脳が、現実だと認識するのを拒んでいた。

 

 「お、おい……お前……なんなんだよ……」

 

 業者が、かろうじて声を出した。震える手から銃が滑り落ち、足もとで乾いた音を立てた。

 

 ヒナタはその音にちらりと目を向け、返り血に染まった顔のまま、口の端だけで微笑んだ。

 

 「僕? ……ただの留学生だよ」

 

 やがて、音が消えた。

 

 倒れ伏した影の残骸は五十体。

 グールの死体――そうとしか形容しようのないそれらが、辺りに転がっていた。

 

 ヒナタは一拍置いて、くるりと踵を返す。

 

 「片づけるか。……マッシュ、腐ると困るし」

 

 いつもの口調に戻ったその言葉だけが、現実をつなぎとめていた。

 

 だが次の瞬間、ヒナタがぴたりと足を止める。

 

 「……あー、でもその前に……」

 

 彼は、自分の両手を見下ろした。返り血でべっとりと赤黒く染まっており、指の間から乾きかけた血液がこびりついている。髪の房や服の袖にも、赤黒いしぶきが飛び散っていた。

 

 「……これじゃさすがに、汚いよね」

 

 ぼやくようにそう呟いてから、ヒナタは業者の方に振り向いた。

 

 「おじさん。水場、借りていい?」

 

 「は……あ、ああ……裏にホースと、湧き水を引いた簡易シャワーがある。勝手に使え」

 

 「ありがと」

 

 ヒナタは返り血まみれのまま、まるで山歩きの泥を落とすかのような足取りで裏口へと消えていった。

 

 ポタリ、ポタリと、床に滴る赤い水音だけが、しばらく俺たちの耳に残っていた。

 

 「……なあ」

 

 「……ああ」

 

 「いまの、見なかったことにできるか?」

 

 「できるわけねぇだろ」

 

 業者と俺はほとんど同時にそう答え、それ以上は何も言えなかった。

 

---

 

 ヒナタが裏手のシャワーから戻ってきたのは、それから十数分後のことだった。

 

 濡れた髪をタオルでくしゃくしゃに拭きながら、いつもどおりの飄々とした顔で現れた。

 返り血は一滴も残っておらず、着替えたシャツは業者の貸し物らしい。やや大きめで、袖が手の甲までかかっていた。

 

 「おまたせ。……さて、やるか」

 

 そして、返り血まみれの当人がそう言うと、なぜか俺と業者のほうがぎこちなく立ち上がった。

 

 「ま、まさか……お前ひとりで……?」

 

 「うん。火つけといたらさ、まとめて穴に転がせばいいだけだし」

 

 小屋の裏には、もともとゴミを埋めるための土坑が掘られていた。

 ヒナタは、そこに五十体近くの異形の死体を――どうやったのかは知らないが――まとめて放り込み、上から灯油をまいて火をつけていた。

 

 煙の匂いが、蒸留の匂いと混ざって鼻に刺さる。

 

 「……すげぇな。あの量、普通じゃねぇ……」

 

 「うん、普通じゃない。今さらだけど、マジで普通じゃない……」

 

 業者と俺は半ば自動的に、小屋の中に戻って、再び蒸留器の火加減を確認し始めた。

 さっきまで死闘が繰り広げられていたとは思えないほど、手元の作業は平穏だった。

 

 「初留、終わり。中留、切り替え」

 

 「うい」

 

 「瓶、受けた」

 

 「よし」

 

 ――作業は、続く。

 

 その後、夜が明けるころ。すべての瓶詰めと火の始末を終えた俺たちは、小屋の前の切り株に腰を下ろしていた。

 

 ヒナタは、予備の服に着替え直し、タオルで髪を拭きながら空を見上げていた。

 業者は湯を沸かし、コーヒーを三つ淹れていた。紙コップではなく、古びたブリキのマグカップ。湯気が漂う中、誰も最初に口を開こうとしなかった。

 

 やがて、ヒナタがぽつりと呟く。

 

 「……誰にも言わないでくれると、助かる」

 

 「……ああ」

 

 俺と業者は、ほぼ同時に頷いた。

 たとえ訊かれたとしても、どう説明すればいいのか分からない。それよりも、あの光景を“本当にあったこと”として誰かに話せる自信がなかった。

 

 「……あんなのが、森の中に?」

 

 「たぶん、まだいると思う。けど、しばらくは出てこないんじゃないかな」

 

 ヒナタの口調は穏やかだったが、その言葉は決して冗談ではなかった。

 

 やがて、朝の光が森の木々を照らし始める。

 空は静かで、鳥の声が――今日は、はっきりと聞こえていた。

 

---

 

 数週間後。季節は少しだけ進み、アーカムの街には初秋の気配が漂い始めていた。

 

 俺はいつものように、街角の小さな喫茶店でブレンドを頼み、窓際の席に腰を下ろしていた。

 ヒナタとはまた別行動で、今日は大学の課題を片づける“つもり”だったが、結局ノートは鞄から出さないままだ。

 

 壁の高い棚に置かれたラジオが、ノイズまじりに地元のニュースを流している。

 

 >「……次の話題です。

 アーカム近郊の森林地帯で続いていた行方不明者の報告が、ここ最近、顕著に減少していることが市の調査で明らかになりました。

 以前は月に十件近くの捜索依頼があった一帯ですが、直近一か月ではゼロ件との報告が──」

 

 俺は、その瞬間、カップの中でスプーンを止めた。

 視線を外の街路に投げたまま、ひとつ深く息を吸う。

 

 ラジオの音声は続く。軽快なジングルと共に、他愛のない話題へと切り替わっていった。

 

 喫茶店の中は平穏だった。新聞を読んでいる老人、ソーダ水をちびちび舐める学生、窓辺でスケッチを描く女性。

 この街の空気は、今日も変わらず、いつも通りの顔をしていた。

 

 だが、俺は知っている。

 あの森の奥に、何がいて、何が消えたのかを。

 そして、誰が“それ”を静かに片づけたのかを。

 

 胸の奥にしまい込んだまま、俺はカップを傾けた。

 香ばしい苦味と、ほのかな酸味。

 それは変わらない、確かな日常の味だった。

 

 けれどその裏に、もう一つの“現実”が静かに息づいている――

 俺は、知っている。

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