霧の街のヒナタ   作:下駄ロボ

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ブロックワインにしては上物

 ヒナタの部屋は学生寮の一角にあるはずなのに、どこか研究室の延長のような空気が漂っていた。

 壁際には不自然な程丁寧に布がかけられた〝何かの器具〟が立てかけられ、棚には番号が振られたレシピノート数冊、レーズンと濃縮ブドウブロックの箱、黒い紙を巻かれて排気弁付きの栓をしたガロン瓶がいくつか収まっている。

雑菌に気を付けているのだろうか、ほのかな消毒液の匂いが残っていた。

「酒のアテを持って来ますね。」

 

 ヒナタはキッチンに入り、冷蔵庫からいくつかのパテが入ったメイソンジャーを取り出し、キッチンの棚からクラッカーを取って部屋の中央の丸机に教授が置いた例のワインと共に置いた。

 触手を伸ばして窓際のラジオの電源を入れると、ジャズのメロディーが部屋の中を満たした。

 ワインのラベルは擦り切れ、経年で角がめくれている。

 禁酒法が始まる前に買い込んだ“私蔵品”に間違いない。

 黒いガラス瓶を机に置いた瞬間、部屋の空気がすっと緊張した。

「……本物ですね。」

 

 ○○○が喉を鳴らすように言う。

「うむ。大学の保管庫に眠っていたものだ。

 封を切るのは十数年ぶりだよ。警察に見つかったら、流石に学長も庇えんだろうが──」

 

 教授は肩を竦め、ポケットから栓抜きを取り出した。

 

「飲まずに腐らせる方がよほど罪だろう?」

 強がるような言葉とは裏腹に、栓を抜く手つきは慎重だった。

 コルクがわずかに軋み、ゆっくりと空気が入り、ふっと小さな音を立てて抜けた。

 ヒナタが自然と姿勢を正す。○○○も無意識に息を呑んでいた。

「香りが……全然違う。」

 

 ヒナタが小さくつぶやいた。

 ヒナタは触手を伸ばしてキッチンからグラスを回収して丸机に三つ並べ──

 …いや、ヒナタの分はガラス製ではなく、茶色いブリキのカップだ。

 ○○○以外の来客を想定してなかったのでグラスが足りなかったのだ。

 グラスに注がれた赤は、ワインブロックでは絶対に出せない深い色合いだった。

 安宿の浴槽で作られる密造品の、あの酸っぱい匂いとはまるで別物だ。

 ○○○は思わず笑った。

「……ブロックとは次元が違いますね。」

「当たり前だろう。」

 

 教授はゆっくりと椅子に腰を下ろす。

 

「ブロックワインは、あれは“代用品”だ。 “もどき”でしかない。

 “禁酒法というバカげた制度の抜け穴”を突くための知恵の産物にすぎない。

 本物の醸造酒というのは、色、香り、味、全てが違うものさ。」

 ヒナタがカップを回し、控えめに香りを嗅いだ。

 

「やっぱり本物は違うね。いつも飲んでるやつとは雲泥の差だよ。」

「ヒナタ、アレと比べるのは酷じゃないか。一応アレはブロックワインとしては上物だけどさ。」

 

 ○○○は苦笑しながら、三人で軽くグラスを合わせた。

 窓際のラジオが音楽番組からニュースに切り替わる。読み上げるのは先程見た新聞と同じニュースだ。

 コメンテーターは日本人を襲撃しようとした襲撃犯が自爆させられた事は軽く流し、日本人からの通報だからと大怪我を負った襲撃犯を後回しにして通報を後回しにした電話交換手と病院をひたすら叩いていた。

日系への敵意を棚上げして「同胞の不名誉」へ怒りの矛先を変えていた。

「……すごいですね。」

 

 ○○○が乾いた声で言う。

「ふん、あれは記者の見栄さ。」

 

 教授はワインを一口含み、舌の上で転がすように味わった。

 

「日本人を“人ではない”と言いたい気持ちはある。

 だが、自分たちの側に“人間性で負けた奴”がいると分かった途端──

 そいつを、より激しく憎悪するんだよ。

 人間はそういうものだ。」

 ヒナタは苦笑しながら、ワイン片手にサーモンパテを載せたクラッカーをつまんでいる。

 

「つまり、襲撃犯が“自爆した間抜け”だったのが悪い、と。」

「そういうことだ。」

 

 教授はスプーンでレバーパテをクラッカーに載せた。

 

「同胞を恥じるあまり、“敵に向けた憎悪”より“恥の原因”を強く憎む。

 それが群衆心理だ。まあ──」

 

 教授はレバーパテの乗ったクラッカーを一口食べてワインを飲み、わずかに目を細めた。

 

「襲撃したのも、救急車を拒んだのも、どちらも理性を失った愚か者だがね。」

 ○○○はレバーパテを載せたクラッカーを食べながらヒナタの方へ視線を向けた。

 

「……だからって、お前が外に出る時に擬態しなきゃいけないなんて、やっぱりおかしいよな。」

 ヒナタは軽く肩をすくめた。

 

「仕方ないよ。外じゃ喋るだけでバレるんだし。

 僕が“まともに見えるようにする”より、○○○が前に出てくれた方が早いから。」

 

「まあ、今の街の雰囲気なら、ヒナタ君が正しいとも。」

 

 教授は最後にもう一口グラスを傾けてから言った。

 

「人はパニックになると、自分の世界の“枠”を守るために、見慣れぬものを撃ちたくなる。

 今のうちに、ここで静かに飲んでいた方が健全だ。

 少なくとも怪我人は増えない。」

 誰からでもなくクスリと笑う。不謹慎だが、襲撃犯の身の安全を案じる話をしている自分達のおかしさが笑えるのだ。

 外の廊下から遠くに足音と笑い声が響く。

 学生たちは、街の喧騒や排外デモの気配を、まだ“他人事”として扱っているらしい。

「──乾杯しよう。」

 

 教授が静かにグラスを掲げた。

 

「禁酒法の国で、怪物と、愚かではない若者と共に飲む赤に。」

 ヒナタがカップを掲げ、○○○が笑いながらグラスを重ねる。

 触れた瞬間、小さな金属音とガラス音が重なった。

 それは、不思議と心地よい音色だった。

 教授はグラスの中の赤を見つめたまま、ふと棚の方へ視線を滑らせた。

 黒い紙を巻かれたガロン瓶と、番号の振られたノートの背表紙が、その視線を受け止めている。

「……ところで、さっき君が言っていた“上物”というのは、どれの話だね。」

 ○○○が一瞬だけ言葉に詰まる。

「キッチンにあります。そこの棚はまだ発酵中なので。」

 

 彼はキッチンを指差した。

 

「ヒナタが作ってるやつ。ワインブロックから起こしたやつですけど……正直、最初に飲んだ時は驚きました。」

 教授は眉をわずかに上げた。

「ほう。君が“酒の味”にそんな評価をするとは珍しい。」

「比べる相手がアレしか無い時代ですから。」

 

 ○○○は苦笑した。

 

「バスタブ・ジンとか、酢みたいなワインとか。

 それに比べたら……“ブロックワインにしては”、ですけどね。」

 ヒナタは少し照れたようにカップを置いた。

「何度か失敗しましたよ。 酢になったり、甘ったるくなったり。

 ○○○が集めてくれた話と図書館の資料を元に、やっと落ち着いた感じです。」

 教授は椅子から立ち上がり、棚に近づいた。

 ガロン瓶の一つを注視して、排気弁付きの栓を興味深そうに眺める。

「……管理は随分と丁寧だ。

 雑菌対策も、圧の逃がし方も、素人の仕事じゃない。」

「飲むのは僕ですから。」

 

 ヒナタは肩をすくめた。

 

「不味いのは嫌なので。」

 教授は小さく笑った。

「私も同感だ。

 ──少し、味見をしても構わんかね?」

 ○○○とヒナタが顔を見合わせる。

「構いませんけど……」

 

 ○○○が言葉を選ぶ。

 

「本物の赤の後だと、だいぶ見劣りしますよ。」

「○○○君がここへ毎晩のように来ているという噂は聞いているからね。

 “お楽しみ”の味が気になるのは道理だろう?」

 

 教授は即答した。

 実際、○○○とヒナタは毎晩のように宅飲みしているので噂は嘘では無い。

 ヒナタは立ち上がり、キッチンからパテ用とは違うメイソンジャーを持って来た。

 黒い紙を巻かれ、その上にラベルを貼られている。

 ラベルには、鉛筆で小さく番号と日付が書かれていた。

「これが一番新しいやつです。」

 

 そう言って、教授の前に置いた。

 教授は蓋を確認し、慎重に外す。

 本物のワインほどの緊張感はないが、それでも無駄のない手つきだった。

 注がれた液体は、先ほどの赤よりもわずかに淡い。

 だが、濁りは少なく、色は安定している。

 教授はグラスを傾け、香りを確かめた。

「……ほう。酒精が強いな。

 アルコールの度数を上げて過発酵を止めたのかな?」

 一口含み、少し間を置く。

 舌の上で転がし、喉へ落とした。

 数秒の沈黙。

「なるほど。」

 

 教授はゆっくりと息を吐いた。

 

「これは凄い…スピークイージーでも良い値が付く筈だ。

 よく数回の試作でこんな上物を作れたね。」

 教授は素直に驚いていた。

「全く酢になってないだけで珍しいのに、ちゃんと美味しく飲める味だ。」

 ヒナタは、少しだけ胸を張った。

「そして何より、こんなに良いアテまで付いてくるんだ。

 これを毎晩のように楽しめるなんてちょっとズルくないかね○○○君?」

 教授はグラスを置き、パテを乗せたクラッカー片手にジト目で○○○を見た。

「お隣さん特権です。」

 

○○○は胸を張って答えた。

 

「ヒナタ君、また飲みに来るからその時は宜しく頼むよ。」

 ヒナタは一瞬きょとんとし、次いで楽しそうに笑った。

「いいですよ。

 その代わり、次も何かお酒やアテをお願いしますね。」

 ラジオの向こうで、ジャズがまた流れ始める。

 本物の赤と、偽物の赤。

 二つのグラスが並ぶ卓は、奇妙なほど穏やかだった。




Q.“何かの器具”って何なの?

A.手製の蒸留器(真鍮製)です。
禁酒法時代のアメリカやロシアの家庭に結構な割合で置いてあったのだとか。

Q.ヒナタのワインってどんなワイン?

A.濃縮ブドウブロック(俗称:ワインブロック)を水に溶かした物に刻んだレーズンを入れて糖度を上げた物を発酵させることで酵母の活動限界ギリギリのアルコール度数15%程のワインを作り
更に5〜6割程のワインを蒸留してブランデーにして作ったワインと混ぜ、アルコール度数を20%程まで上げたポートワインのようなワインです。
刻んだレーズンの風味で濃縮ブドウブロックに足りない成分を補い、過発酵によるワインビネガー化を活動限界を超えたアルコールで防いでいます。

肝心の味は飲めるレベルの安ワインに安ブランデーを足した感じの味でしょうね。
禁酒法時代では酢と化したワインやメタノール入り密造酒などが横行していたので、作中ではちょっとした贅沢品です。

※ヒナタのワインのアルコール度数を現実的な数値に修正しました。
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