霧の街のヒナタ   作:下駄ロボ

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愛されてますね。

 ヒナタの部屋には、甘く、しかしどこか鋭い匂いが漂っていた。

 

 それはワインの香りではない。

 もっと濃く、もっと芯のある――アルコールそのものの気配だ。

 

 部屋の隅。

 簡易的に組まれた蒸留器の下で、コンロの火が静かに揺れている。

 

 鍋の中では、赤ワインだった液体がゆっくりと温められ、

 銅管を伝って冷却された蒸気が、一滴、また一滴とガラス瓶に落ちていく。

 

 ヒナタは、少年の姿のまま、椅子に座ってその様子を見守っていた。

 片手には小さな計量カップ。

 もう片方には、捨てるための空き瓶。

 

 落ちてきた最初の液体を、ヒナタは迷いなく受け止め、匂いを嗅ぐ。

 

 ――鼻を刺す、鋭すぎる香り。

 

 ヒナタは無言でそれを別の容器に移し、蓋を閉めた。

 

 ヘッド(初留)。

 雑味や刺激に加え、メタノール等、人体に有害な物が含まれている。飲む価値はない。

 

 しばらくして、香りが変わる。

 

 鋭さが引き、甘みと果実の気配が前に出てきたところで、

 ヒナタは受け皿を、ゆっくりとガロン瓶に切り替えた。

 

 ハート(本流)。

 ここからが、本番だ。

 

 ぽとり、ぽとりと落ちる透明な液体を見つめながら、

 ヒナタは小さく息をついた。

 

 今回の蒸留は、完全に計画外という訳では無かった。

 

 教授とのスピークイージー通いでワインの消費量が減った為、ヒナタの部屋には飲みきれないワインが増えていったのだ。

 寮母へワインで支払う口止め料を引いてもまだ余る。

 その量、瓶にしてガロン瓶一本分。

 

 このままでは棚から溢れる。

 ならば――と、ヒナタは判断した。

 

 過剰分は蒸留し、ブランデーとして残す。

 いつものワインの過発酵対策に使っている物と同じだ。

 教授の反応も上々なので味に自信もある。

 

 ヒナタは落ちてくる液体を計量カップで受け、

 透明度と匂いを確かめながら、満足そうに頷いた。

 

「……いい感じ」

 

 その声は、独り言にしては少しだけ柔らかい。

 

 圧も、温度も、問題ない。

 

 ハートの回収は、順調だった。

 

 この分なら、無駄は出ない。

 ワイン一ガロン分は、きちんと一本のブランデーに収まるだろう。

 

 ヒナタは、ガロン瓶に溜まり始めた液体を眺めながら、

 ふと、バス暴走事件当日の夜のことを思い出す。

 

 ――「それはそれとして、ワインやブランデーが余ったら売ってくれないか?

 相場より高くするからさ」

 

 スピークイージーで飲むのは財布が痛かった。使った金を回収したい気持ちもある。

 ○○○には相談済みなので後は買い物から帰った彼と合流して夜を待ち、売値の交渉をして貰うのだ。

 

「……うん」

 

 ヒナタは、蒸留器の火を少しだけ絞った。

 

 最後の一滴が落ちるのを確認してから、ヒナタは火を完全に落とした。

 

 しばらく置いて、器具全体の温度が下がるのを待つ。

 焦って触る必要はない。蒸留は、終わった後が一番危ない。

 

 ガロン瓶を持ち上げ、光に透かす。

 

 澄んだ琥珀色。

 濁りはなく、余計な油膜も浮いていない。

 

 ヒナタは満足そうに頷き、栓をしっかりと閉めた。

 

 ――これで一本。

 

 売り物として、十分だ。

 

 器具を片付け始めた、その時。

 

 鍵の開く音がして、ドアが開いた。

 

「ただいまー」

 

 紙袋の擦れる音と一緒に、○○○が顔を出す。

 

「おかえり」

「……おお」

 

 部屋に一歩入った瞬間、○○○は足を止めた。

 

「……もう出来てる?」

「ほぼ終わったところ」

 

 ヒナタはガロン瓶を軽く持ち上げて見せる。

 

「ハートだけ回収。出来はいいよ」

「匂いで分かるな、これは」

「後は移し替えるだけだね。」

 

 ○○○は袋を机に置き、瓶を覗き込んだ。

 

「売るには十分すぎる」

「でしょ」

 

 ヒナタは肩の力を抜いた。

 

「今日の分、食事は?」

「ちゃんと買ってきた」

 

 紙袋の中身が、机の上に並ぶ。

 

 パン。

 簡単な総菜。

 塊のベーコン。

 

「夜まで待つなら、腹ごしらえしないと」

「了解」

 

 二人は蒸留器を完全に片付けてラジオを付け、簡単な食事を取った。

 食後、ラジオが流れる中メイソンジャーを鍋で煮沸消毒する音がグツグツと部屋に響いていた。

 ラジオではバス暴走事件の背景を調べる為に、運転手の故郷でバスの行き先でもあるインスマスでの捜査中、警官の失踪者が多発したというニュースが流れている。

 

 気付けばもう日が落ちかけている。

 煮沸消毒したメイソンジャーにブランデーを移し替え、ラベルを貼り終わった頃にはカーテン越しに外の光がゆっくりと弱まっていた。

 

「……交渉は任せたよ」

「もちろん」

 

 ○○○は即答した。

 

「相場より高く買うって言ってたし、バーテンダーにはあいつのママが絡んで来た負い目もあるだろうから強気でいく」

「うん」

 

 ヒナタは、メイソンジャーを布で包み、鞄に入れながら聞いていた。

 

「基本は俺が話すから後ろでどっしり構えていてくれ」

「了解」

 

 ヒナタは、少しだけ笑った。

 

 日が完全に沈み、外が暗くなる。

 

 夜だ。

 

 二人は上着を羽織り、ヒナタはメイソンジャー入りの鞄を慎重に背負って二人で部屋を出た。

 

 目的地は通りを一本外れた裏道の、看板のない小さな客の気配が無い理髪店。

 店内にある隠し扉を抜け、地下へ降りる階段の先にある控えめな灯りの酒場。

 

 今夜は飲む側じゃない。

 

 売る側だ。

 

---

 

 理髪店の奥。

 

 椅子の横にある棚を特定の順番で二度叩き、静かに開いた背後の壁の先。

 地下への階段を一段降りるごとに、空気が変わっていく。

 

 外の夜気が薄れ、

 代わりに、湿り気を帯びた煙草の匂いと、酒の甘さが混じった重たい空気が満ちてきた。

 

 地下。

 

 低い天井。

 裸電球がいくつも下がり、黄色い光が木の壁とカウンターを照らしている。

 

 客は多くない。

 だが、少ないからこそ分かる。

 

 全員が、ここが「普通の店ではない」ことを理解した顔をしていた。

 

 カウンターの奥には、磨き込まれた木製の棚。

 年代も銘柄もばらばらな瓶が、無秩序に、しかし計算された配置で並んでいる。

 

 ラベルの剥がれたもの。

 見慣れない言語のもの。

 明らかに正規流通品ではないもの。

 

 それらを背景に、青年のバーテンダーが一人。

 

 肘まで捲られたシャツの袖。

 手つきは無駄がなく、グラスを拭く動きすら静かだった。

 

 ○○○とヒナタが階段を降りきると、

 バーテンダーは顔を上げ、二人を一瞥してからヒナタが背負う鞄を見た。

 

 そして、すぐに分かったように片眉を上げた。

 

「……今日は飲みに来た顔じゃありませんね」

 

 ○○○が一歩前に出る。

 

「売りに来た」

「待ってました」

 

 喜ぶバーテンダーの視線が、自然とヒナタの鞄に落ちる。

 

「約束通り、余り物を」

 

 ヒナタは黙って鞄を下ろし、布を解いた。

 

 中から現れたのは、

 メイソンジャーに詰められた、透明の液体。

 

 店の灯りを受けて、柔らかく光る。

 

「試飲しても良いですかい?」

「どうぞ」

 

 バーテンダーは興味津々といった表情で、蓋を開ける前にまず瓶の外から匂いを嗅いだ。

 

 ――一瞬。

 

 その目が、僅かに細くなる。

 

「……」

 

 栓を開ける。

 

 香りが、空気に溶けた。

 

 甘さ。

 果実。

 そして、雑味の無い、はっきりとした芯。メタノールの気配は一切無い。

 

 バーテンダーは、何も言わずに小さなグラスを取り、ほんの一口だけ注いだ。

 

 舌に含んで数秒、目を閉じてからグラスを置いた。

 

「……ワーオ」

 

 即座だった。

 

「愛されてますね。こんなに良い物を旦那の為に作っているんですから」

「良いだろ?」

「ええ、本当に」

 

 バーテンダーは○○○を見る。

 

「値段ですが」

「――」

 

 ○○○が口を開く前に、バーテンダーが言った。

 

「相場の一・五倍」

「「えっ!」」

 

 ○○○とヒナタは思わず目を合わせた。

 ○○○は一瞬だけ黙り、それから頷いた。

 

「即決でいい」

「毎度あり」

 

 バーテンダーは苦笑する。

 

「正直、もっと吹っかけられるかと思ってた」

「他人の色恋で酒が進む人は多いですからね。値段以上の価値がありますよ。

 これでも安いくらいです」

 

 カウンターの下から、封筒が出される。

 ○○○は中身を確認して懐にしまった。

 

「継続は?」

「余れば」

「じゃあ、次もお願いしますぜ」

 

 バーテンダーは、メイソンジャーを丁寧に受け取り、

 まるで壊れ物を扱うように棚の奥へと仕舞った。

 

「今日は一杯、置いていきますかい?」

「やめとく」

「残念」

 

 バーテンダーは肩をすくめた。

 

「じゃあ、またな」

「また」

 

 二人は踵を返す。

 

 階段を上がる途中、

 ヒナタは小さく息を吐いた。

 

「……あっさりだったね」

「向こうが本気だっただけだ」

「それで?」

「十分すぎる値段だ」

 

 封筒の重みが、現実感を持って伝わってくる。

 

 理髪店の扉を出ると、夜の空気が戻ってきた。

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