霧の街のヒナタ   作:下駄ロボ

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あれは……やはりやめよう。現実を直視したくない

 昼下がりの西アーカムは、港から少し離れるだけで空気が変わる。

 

 石畳の通りに赤い提灯が下がり、看板には英語と漢字が混じった文字が並ぶ。

 香辛料と油の匂いが、潮風に押されて漂ってきた。

 

「……ここが噂のチャイナタウンか」

 

 ○○○は周囲を見回しながら、少しだけ声を落とす。

 観光地というほどではないが、明らかに街の別の顔だ。

 

「西アーカムも港町だからね」

 

 教授はいつもの調子で答える。

 

「鉄道と港があれば人が集まる。人が集まれば店ができる。そうして更に人が集まり、いつの間にか“街”になる」

 

 説明は講義じみていたが、声は穏やかだった。

 

 ヒナタは二人の少し後ろを歩き、店先に並ぶ食材や干物を興味深そうに眺めている。

 干した魚、見慣れない貝、香草の束。

 触手を擬態させた髪が、わずかに揺れた。

 

 通りの角にある食堂の前で、恰幅のいい店主が三人に気づいた。

 

「……おや?」

 

 一瞬、視線がヒナタに向く。

 ほんの一拍、確認するような間。

 

「日本の方か?」

 

 訛りのある英語で、はっきりとそう言った。

 

「そうですよ」

 

 ヒナタが答えると、店主は頷く。

 

「珍しい事もあるもんだ。

 どうだい?うちで食べて行かないかい?」

 

 珍しいものを見た程度の反応だ。

 そのまま流れるように店主は客引きを始めた。

 

「そんな店よりこっちで食べて行きなよ、お三方」

 

 向かいの店の店主が声をかけてきた。

 小柄で肌が妙に黄色く、禿げた頭の壮年の男だ。

 

「このお客様達はうちで食べていくんだ、とっとと店に帰りなチビ」

「お前の料理がこのお方達の口に合うわけ無いだろう?」

 

 売り言葉に買い言葉で店主達の罵り合いがドンドンヒートアップしていく。

 二言目から中国語で罵りあっていて、何を言っているのかさっぱりわからない。

 あんまりな状況に「チンチャンチョンって嘲笑があるけど、本当にそう聞こえるんだな」と○○○は少し現実逃避した。

 

「別の店に行こうか」

 

 客そっちのけで取っ組み合いの喧嘩を始めた二人の店主を見て、教授は○○○とヒナタに耳打ちして三人一緒にそそくさと離れた。

 

---

 

 別の通りに出た途端、空気がさらに重くなった。

 

 同じ赤い提灯でも、こちらは飾りではない。

 通りの両端に等間隔で吊るされ、まるで縄張りを示す標識のようだ。

 先程の通りからは怒声がいくつも増え、色々な物が壊れる音が聞こえてくる。

 

「……さっきの、ただの客引きじゃありませんよね」

 

 ○○○が小声で言う。

 

「違うね」

 

 教授は即答した。

 

「店主同士の喧嘩に見えただろう?

 あれは……やはりやめよう。現実を直視したくない」

 

 教授が嫌そうな顔で説明を中断し、ヒナタが首を傾げる。

 

「イレギュラーズみたいに手伝って欲しいんでしょうか?」

「インスマスの件かぁ…」

 

 ヒナタの推測に○○○が頭を抱える。

 教授は歩きながら説明する。

 

「それだろうね。人種の違いから絡まれる事は無いと思っていたが…」

 

 通りの向こうで、数人の男達が壁にもたれて煙草を吸っている。

 全員、中国系だが、雰囲気が微妙に違う。

 

 着ている服。

 立ち方。

 視線の送り方。

 

 同じ“中国人”でも、それぞれ別の看板を背負っているのが一目でわかる。

 

「……教授」

 

 ○○○がさらに声を落とす。

 

「見られてます」

「そりゃそうだ」

 

 教授は気にした様子もなく歩き続ける。

 

「インスマスの一件で、この街の“裏”には私の名前が妙に広まってしまった。

 ヒナタ君の名前も広まってたね。」

 

 ヒナタが一瞬、思い出したような顔をする。

 ○○○はヒナタがイレギュラーズ幹部が襲撃される現場に何度か居合わせ、その全てを返り討ちにして、襲撃犯をイレギュラーズに引き渡している事を思い出した。

 西アーカムの裏社会では、もはや噂話では済まない。

 

「教授を味方につけた側が勝つ、って事ですか?」

「単純に言えばね」

 

 教授は肩をすくめた。

 

「それぞれの組織が“次のトップ”を狙っている。

 だから今は――」

 

 その時だった。

 

「ハーバード・カニンガム教授」

 

 背後から、はっきりとフルネームを呼ばれた。

 

 振り返ると、先ほど壁にいた男の一人が立っている。

 年は四十前後。

 顔立ちは穏やかだが、目だけが冷たい。

 

「少しお話しできませんか、ご案内したい店がある」

 

 断り文句を考える前に、反対側からも声が飛ぶ。

 

「待てよ」

「教授はこっちが先に目を付けてた」

 

 別の男達が、通りの奥から歩いてくる。

 数は同じくらい。

 距離も絶妙だ。

 

 通りが静かに止まった。

 

 通行人はいつの間にか消えている。

 店の戸もいつの間にか閉まっている。

 

「……あー」

 

 教授は困ったように頭を掻いた。

 ヒナタの髪がうねり、全身から余計な力が抜ける。まるで獲物を襲う寸前の肉食獣のようだ。

 

「今日はね、本当にただの散歩なんだ」

 

 男達はヒナタの様子を見て息を飲む。

 

「先生」

「力を貸していただければ悪い話にはなりません」

 

「いや、貸さなくても“悪い話”にはならないだろう?」

 

 教授の声は軽い。

 だが、その軽さが逆に異様だった。

 

 ヒナタは男達を順番に見た。

 視線が交差して男達に緊張が走る。

 

「今日は帰ろう」

 

 教授はきっぱり言った。

 

「私は誰の味方もしない。少なくとも、ここでは」

 

 沈黙。

 

 やがて、最初に声をかけた男が一歩下がった。

 

「……今日は、そういう事で」

 

 別の男達もヒナタを警戒しながら道を開ける。

 開いた道を通ってチャイナタウンの外に向けて歩いていると、通りに再び人の気配が戻り始めた。

 

「……食事どころじゃなかったですね」

 

 ○○○がぽつりと言う。

 

「私が迂闊だったよ」

 

 教授は何事もなかったかのように歩き出し、三人はそのままチャイナタウンを抜けた。

 

 赤い提灯は、何事もなかったように揺れていた。

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